第87話 三つの条件

「曹操軍が見えました」

劉岱、王忠を退けてから三日後の出来事。


物見の報告を受けると、劉備は前の戦いからの間隔があまりにも短いことから、嫌な予感に見舞われる。

得てして、こういう時の予感は当たるもので、城郭から曹操軍を確認した劉備は、愕然とする。

そこには、はっきりと『帥』の旗が掲げられていたからだ。


「おいおい、曹操自ら来ているぞ」

「どうやら、見通しが甘かったようですね」


曹操軍は、ざっと見て五万。その全てが騎兵だった。

道理で、行軍が早いはずだ。


「これは、何日、耐えたら、袁紹が背後を衝くと思う?」

「いえ、もしかしたら、袁紹さんを過大評価していたかもしれません。これは、動かない可能性もありますね」


この曹操の思い切りの良さは、袁紹が動かないと確信してのことではないか。

曹操が許都を空けるという判断を下したことが、劉備が袁紹を見誤っていたことを証明する。


劉備は援軍がなく、曹操本隊と対決した場合の勝ち筋を考えるが、まったく見当たらない。

それこそ、小沛なんて小城、包囲されたら、それでお終いだ。


「今なら、一点突破で脱出できるか?」

「生き残るには、それしかありませんね」


迷っている暇はなさそうだった。

劉備は、張飛を先頭にして曹操の包囲網が完成する前に小沛を捨てることにする。


「雲長への連絡は?」

「残念ながら、もう無理です。雲長さんなら、自己判断で対処できるはず。それにかけるしかありません」

「くそ。袁紹もそうだが、曹操のことも過小評価していたな」


それに関しては簡雍も認める。完全な読み違いをしてしまったのだ。

「こうなったら、仕方ない。益徳、道を切り開いてくれ」

「任せとけ」

劉備は小沛に残る兵をまとめて、徐州の北に位置する青州へ落ちのびることにするのだった。



その頃、袁紹領では、満を持して田豊が許都に攻め入る献策を行った。

徐州の扇動から始まり、劉備の造反。そして、曹操の東征と全てが田豊の描いた筋書き通りに話が進んでいる。

残るは、総仕上げの許都陥落だけだった。


「いや、今は戦をしない」

「は?」


田豊は自分の耳を疑った。

こんな好機をみすみす手放すなど、どう考えてもあり得ないのだ。


「それはいかなる理由からでしょうか?」

「息子が病気なのだ。これでは戦に身が入らん」


田豊は鈍器で頭を殴られたような錯覚を起こす。いや、できることなら、本当に殴り殺してほしかった。

そうすれば、これ以上、余計なことを考えずに済む。


戦をしない理由が政治的、もしくは軍事的な理由であれば、考え直させる術を田豊は持っている。

しかし、この理由では駄目だ。

『たとえ、息子の命が繋ぎ止めれたとしても、我らの命はなくなるぞ』


もう話す気力も失った田豊は、挨拶もそこそこに袁紹の前を辞す。

今までの苦労が泡と消え、全てが徒労に終わった。

ここまでの虚無感を覚えたのは、人生で初めてのことである。

それからというもの、田豊が出仕する機会は減っていくのだった。



曹操は、小沛の劉備をあと一歩のところで取り逃がす。しかし、関羽が守る下邳城の完全包囲だけは完成させるのだった。

下邳城の楼閣に立つ関羽は、遠く小沛の方向を見つめて、自身のことより、劉備の安否を気遣う。


「関羽将軍、私のために申し訳ございません」

「奥方さま。ここは危険です。城内にお入りください」


曹操による下邳城の包囲だが、実は関羽、一人であれば、その包囲網が完成する前に脱出することはできた。


ところが、そうしなかったのは、先ほど関羽に声をかけた夫人。劉備の妻である麋夫人が下邳城にいたためである。

劉備は、関羽を信用して自分の妻を預けていた。その信頼を損なうような真似は、たとえ、自身が死んでもできはしない。


「ここで籠城していれば、袁紹は来るのだろうか?」

小沛はすでに落ちたと聞いている。


張飛も簡雍もついているのであれば、劉備が簡単に殺されるはずがなかった。

待っていれば、劉備自身が兵を率いて助けにくるかもしれない。

可能性があるうちは、徹底的に抵抗しようと思う関羽だった。


一方、曹操陣営も下邳城の攻略に悩みを抱えていた。

下邳城は意外と落とすのが難しい城で、呂布が籠ったときも散々手を焼いた。


そして、今は将器としては、呂布より上であろう関羽が籠城している。

正直、この東征に時間をかけたくない曹操は、早急に攻略できる作戦を考え出さなければならないのだ。


呂布に対しては、水攻めを行ったものの、そのねたは関羽にもばれている。

妙案がなかなか浮かばない曹操のもとに張遼が進み出た。


「私は以前、関羽殿に命を救われています。そこで、今度は逆に私が理を説いて降伏を勧めてまいりたいのですが、いかがでしょうか?」

「それは願ってもないことだが、できるか?」

「私の命に代えましても、必ずや。」


その力強い言葉に、曹操は張遼を送り出す。

実は曹操は、関羽の武勇はさる事ながら、その忠義心や態度にも惚れ込んでいたのだ。


常々、劉備には過ぎたる漢と思っていた。

降伏し自分の配下とできるのであれば、無上の喜びである。

張遼の交渉結果を固唾をのんで待つのだった。



「関羽殿、お話がある。一対一で話そうではないか」

張遼の呼びかけに気づいた関羽は、単騎、城外に出ようとする。すると、配下の夏侯博かこうはくが止めた。


「これは罠ではありませんか?今、関羽将軍がいなくなるとこの城は、落ちたも同然となります」

「相手はあの張遼、そんな卑怯な真似はしない。もしかしたら、長兄のことが聞けるかもしれない。安心して待っていてくれ」

そう言って、下邳城を出ると張遼と旧交を温めた。


「久しぶりだが、息災か?」

「お互い元気そうで、何よりです」


たわいもない挨拶から始まるのだが、お互い本題を聞くのを躊躇われた。

関羽は、もし劉備が亡くなっていた場合、その事実を聞くのが怖かったし、張遼としては、どう切り出せば、関羽の自尊心を傷つけず降伏を受け入れてもらえるか悩んでいたからだ。


「おそらくだが劉皇叔は、生きていますぞ」

「本当か」

「我々の包囲網を突破されたことは間違いない。後は張飛殿がついていれば、山賊の類にも討ち取られることはないでしょう」


その言葉を聞いて関羽は安心する。これで自分自身にも生きる希望が湧いたのだ。

とすると劉備の行先は袁紹のもとか・・・

そんな考えを巡らせている関羽に、張遼は単刀直入に自分の気持ちをぶつけた。


「それで関羽殿。私はあなたに命を救われた。今度はあなたの命を救いたいのです」

「救うと言うのは、降伏しろというのか?」

「結論から言えば、そうです」


関羽は張遼の目を見つめる。この男なりの誠意の見せ方なのだろう。

言っている内容は受け入れがたいが、その気持ちは十分伝わった。

しかし、降伏をして主君を変えるつもりは、関羽にはまったくない。


「関羽殿の思っていることは分かります。ただ、私は生きるための選択肢として降伏も視野に入れてほしいと申しているのです」

「主を変えれば、関羽は死んだも同じだ」

「ですから、そこを変えずに生きる方法がないか・・・」


張遼は言葉を濁すが、降伏の条件を整えることができれば、主を変えずにすむことも可能なのか?

曹操の配下たる身で、はっきりとそこに触れるのは憚られるのだろうが、張遼が言いたいことは、そういうことだと理解した。


この手の交渉事は、簡雍の領域なのだが、関羽は簡雍になりきったつもりで頭をひねった。

すると、三つの提案が浮かぶ。


一つ目は、奥方である麋夫人の安全を保障すること

二つ目は、降伏するのは曹操にではなく、漢の朝廷に降伏するということ

三つ目は、劉備の居所が分かれば、すぐにでも主君のそばに駆けつけることを了承すること


最終的には奥方と相談しなければならないが、関羽としては、今の条件をのんでくれれば、降伏するという。

張遼は、三つの条件を確かに承ったと関羽と別れた。そして、何としてもこの条件で曹操の了解を取らなければならないと決意する。


陣幕に戻り、この話を伝えると、やはり最後の三つ目に曹操は難色を示した。

同行している軍師、荀攸は、

「これでは、降伏の意味がありません」と、拒否すべきだと声を上げる。

この反応が当然なのだが、関羽の提案が通らない場合、長期戦覚悟で雌雄を決するしかない。


「ならば、張遼殿が呼び出して、関羽を騙し・・・」

「今すぐ、その口を閉じられよ。そうしないと、二度と話せなくなるぞ」

新参の賈詡が、そう話すと目の前に白刃が煌めいた。張遼に睨みつけられと、さしもの賈詡も言われた通り、口を閉ざすのだった。


「殿、関羽殿は当代随一の忠義の士。簡単に主を代える男ではございません」

「それは私にも分かっている」

「しかし、受けた恩義を果たさずに立ち去るような不義理者でもございません」


曹操が与えた恩で縛り、心変わりを待つしかないと張遼は説く。

これが、詭弁中の詭弁だということは分かり切っている。どんなことがあっても関羽が主君を代えることなどないのだ。

だが、そう押し通さなければ、張遼の望む結果は得られない。


曹操の方も関羽が心変わりすることがないことに気付いているのだが・・・

だからと言って、関羽を殺すという気にはなれなかった。


それは宛城で亡くなった典韋のことが思い起こされるからだ。

関羽ほど強く忠義の心を持っている者は、他に典韋しか知らない。

そんな人物を殺すには忍びなかったのだ。


ただ、その結論を出すための理由付け、いわゆる言訳が足りていない。

「もし関羽殿がこの先、劉備の元に戻り、殿に仇成すようなことがございましたら、この張遼が必ずや関羽殿を討ちます。どうかご英断をお願いいたします」


張遼の発言には、本当に命を賭けて頼んでいる迫力があった。

その様子を見たとき、曹操は悟る。

足りていないのは、言訳などではない。私の覚悟だ。


『劉備、心からお前が羨ましいぞ。・・・これは貸しだからな』

曹操は、関羽が出した三つの提案を了承する。

喜んで張遼が、そのことを告げに行くと、間もなくして下邳城が開城されるのだった。


ひとまず、これで曹操の東征は終了し、すぐに許都に戻る。

決断力の乏しい袁紹とはいえ、限度はあるはずだ。


移動中、最後尾には関羽が守る夫人の馬車が続いていた。

偽りとはいえ、関羽を従えている。

今は、それで満足しようと思う曹操だった。

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