第149話 甘寧の豪胆と呂蒙の智謀

合肥の曹操の元に劉備が零陵郡を落としたという報せが届いた。

今は孫権の相手をしているとはいえ、このまま手をこまねいて、劉備に領土を明け渡すというわけにもいかない。


曹操は、残る三郡の防衛のために人材の登用に踏み切り、桓階かんかいを呼び出すことにした。

桓階は、かつて劉表が治める荊州において、張羨ちょうせんとともに反旗を翻したこともあり、土地勘もある。


これ以上の適任者はいないように思えた。

ところが、その桓階からは意外な回答が返ってくる。


「私などより、劉巴りゅうは殿の方が適任でございます」

そう言って、曹操の指令を辞退するのだ。


代わって桓階が推挙した劉巴とは、最近、曹操陣営についた荊州の名士である。

永らく零陵郡に住んでいたが、劉表からの招聘を度々、断っていたという経歴があった。


伊籍や馬良など、隠遁していた多くの荊州の名士たちが劉備の元へ向かう中、ただ一人、劉巴だけは曹操を訪れる。

その理由は、明白で曹操陣営の方が自分の能力を発揮できると判断したためだった。


急遽、呼び出された劉巴は、曹操の指示に対して、一度、難しい顔をする。

というのも、今の劉備の勢いを止めることは、至難の業に思えたからだ。


しかし、仕官して間もない劉巴は、自身の立場が、まだ、不安定なことも理解している。

頭の中で戦略を組み立てて、僅かながらも勝算を見出すと、曹操の指示を承諾する。単身、荊州南部へと向かうのだった。


「桓階殿も余計な推挙をしてくれたものだ。もしかしたら、曹操領には、二度と戻れなくなるかもしれないな」

曹操から下された任務でもっとも肝要なのは、時である。

劉備軍の制圧が早いか劉巴が赴任して、体制を整えるのが早いかの勝負だった。


それも、勝算はかなり低いと見積もっている。先ほどの弱気な独り言が口から出たのは、そのせいだ。

曹操をわざわざ選んだだけに、劉備のことはあまり評価していない劉巴だが、一方で、軍を指揮する諸葛亮については違う。


同じ荊州に住んでおり、交わる機会が何度かあったが、自分が今まで出会った人物の中でも別格の存在と位置付けていた。

あの諸葛亮がついているがため、劉巴に与えられた任務の難易度が跳ね上がっているのだ。


いずれにせよ、自分はもう、放たれた矢である。

後はなるようにしかならない。

劉巴は覚悟を決めると、まず、進路を荊州の桂陽郡にとるのだった。



江陵城を攻めている周瑜の元にも、劉備が零陵郡を陥落させた情報が届く。

同盟国とはいえ、その成功を素直に喜ぶ気にはならなかった。

何故なら、自分自身が曹仁相手に苦戦を強いられているからである。


「劉備め、手薄なところから攻めて、してやったりなのだろうな。だが、我らとて、すぐに江陵を落とし、襄陽もとってみせる」

他者の成功を発奮材料とした周瑜は、現状の苦戦を分析する。


江陵城は、長江の北岸に建っており、今、周瑜たちは、その南岸から攻城戦を行っていた。

長江を舞台とした城攻めを強いられるのだが、やはり、水軍での攻城戦は相性が悪い。


どうにかして、江陵城と同じ北岸に陣を張れる拠点が必要なのだが、名将曹仁がそれを許さなかった。

ほんの数日前も、拠点作りに失敗したばかり。


その時は、渡河に成功した後、新たに陣作りをしていた際、牛金ぎゅうきんという武将に攻められた。

敵は、わずか三百騎。返り討ちにしようと取囲んだところを、曹仁に背後を襲われる。


結局、牛金の兵、一騎も討ちとることもできず、陣だけ破壊されたのだった。

周瑜らが戦局を打開すべく軍議を行っていると、甘寧が妙案があると言って、進み出る。


「江陵の西の夷陵ですが、あそこはどうも兵が少ないようです。夷陵をとって、西から攻めることができれば、江陵城を落とすのも簡単なように思います」

確かに夷陵を奪取できれば、望んでいた長江北岸の拠点とすることができる。


しかし、今の江陵攻めから、多くの兵を割くことができない。

曹操の戦略によって、ただでさえ孫呉は兵を分散させられていたのだ。


「興覇の意見、大変、魅力的だが、多くの兵を与えることはできない」

「なに、五百ほどの兵をいただければ、夷陵城を落としてみせます」


甘寧のこの勇壮な提案に周瑜は賭けることにする。

但し、無理はするなと釘を刺すことだけは忘れなかった。


甘寧の武勇は、太史慈と並んで孫呉の中では飛び抜けている。周瑜にとって、今後の作戦展望を考えた場合、欠かせぬ人材なのだ。


「承知しました。吉報をお待ちください」

甘寧は、その日のうちに、兵五百を選抜する。そして、そのまま、夷陵城の攻略へと向かうのだった。



甘寧は砦や城に忍びこむ才能に長けていた。

本当にわずか五百の手勢で城一つを陥落させる。但し、この先に困難が待ち受けていた。


見込み通り、城内の兵が少なかったことはいいとして、その結果、降伏した兵を含めても甘寧の手勢は千人程度にしかならない。

今度は、この人数で夷陵を守らなければならなかった。

そこを見逃さないのが曹仁である。


「周瑜を睨みつつ、別動隊六千で夷陵を囲むぞ」

つい先日、囲まれた味方の牛金を救い出す機知と武勇を持って、城内の者たちから、「将軍は天上界に住む人のようだ」と称賛されたばかり。

曹仁軍の士気は高く、その指示は淀みなく実行された。


夷陵を包囲し、高い櫓から、無数の矢を打ちこむ。

一気にけりをつけようと、その攻撃は激しさを増すのだった。


夷陵城内の者たちは、矢雨の嵐に戦々恐々とする。

その中で、ただ一人、甘寧だけは平時と態度が変わることなく、時折、部下と談笑に興じていた。


「甘寧将軍は、今の状況が恐ろしくないのですか?」

「俺は常に味方から矢を向けられている。敵が放つ矢など恐ろしくもなんともないわ」


仲の悪い淩統との関係を揶揄する。ただ、隙あらば本当に命を落としかねない日々を送っているため、あながち冗談とも言えなかった。

周りの者たちは、笑っていいのか判断に迷う。ただ、言えるのは甘寧の神経が異常に図太いということだけであった。


甘寧としは、今の状況を気にしていなかったが周瑜は、そうはいかない。

折角、手に入れた拠点、江陵城攻めの足掛かりを失うわけにはいかないのだ。


しかし、曹仁軍と対峙している中、持ち場を離れることに、躊躇する。

そこに呂蒙が提言し、背中を押した。


「公績に留守を任せれば、恐らく十日は持ちこたえることができます。その間に周瑜司令と私で救援に向かえば、夷陵の囲みなど簡単に殲滅できると思われます」

このところの呂蒙の智謀の冴えには、目を見張るものがある。


孫権が諭したこともあったが、呂蒙自身努力して、軍略を身につけたようだった。

武勇一辺倒だった昔とは、大違いである。


そう言えば、魯粛が呂蒙のことを見違えたと褒めていたが、確かにその通りだと周瑜も思う。

呂蒙の提言を、周瑜は即座に入れるのだった。


淩統に千の兵を与えて自陣に残し、険阻な道に兵を伏しておくよう指示する。

これで万が一、曹仁の上陸を許しても、防衛できるはずだ。


手筈を整えると、早速、周瑜は夷陵城の救援に向かう。その途中、不意に呂蒙の軍が立ち止まった。

訝しんだ周瑜が呂蒙に理由を問いただす。


「なぜ、このようなところで立ち止まるのか?」

「周瑜司令。この狭い道は、きっと敵軍の退路になります。ここに障害物を置いておけば、敵は馬を捨てて逃げていくことでしょう」


呂蒙が指した道を改めて見ると、まさしくその通りと感じる。

周瑜は、自軍が通った後、馬が容易に通れぬように三重の柵を作るのだった。


救援軍として夷陵に到着した周瑜たちは、早速、曹仁軍に攻撃をしかけると日が沈むころには、敵の兵力は半数となる。

残りの敵兵は、夜陰に乗じて逃げ出すのだが、退路は呂蒙が予想した通りとなった。


周瑜、呂蒙が追い討ちをかけると慌てた曹仁兵は、皆、馬を捨てて徒歩で逃げ出すのである。

この結果、ここで馬三百頭を手に入れることができるのだった。


赤壁の戦いから、まっすぐ江陵攻めに移行していたため、周瑜軍の主力は水軍である。

馬が不足しており、非常に助かるのだった。


さらに夷陵城を安定させたことで吉報も入る。

夷陵は、隣の益州に面しており、赤壁での大勝を知った益州の武将、襲粛しゅうしゅくが手勢を引き連れて孫呉に帰順してきたのだ。

甘寧は益州出身の将であり、その繋がりもあったようである。


周瑜は、当初、襲粛の兵を呂蒙の隊に編入しようとしたが、甘寧と知己であると知ると、ともに夷陵城を守らせることにする。

これで、長江の北岸の拠点として体制を強固にした。


夷陵方面からの攻め手も増やし、江陵城攻めは新たな局面を迎える。

いつの間にか最前線で指揮をとるようになった周瑜は、その攻めをますます激化させていくのだった。

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