第148話 劉備の進撃開始

劉備は夏口に集まった兵の中から、一万五千人を選抜し、零陵郡攻略に向かった。

新しく陣営に加わった馬良の提案通りに作戦を実行する。


守る零陵太守の名は劉度りゅうど

劉度は曹操によって任命された新しい太守で、零陵郡を守り抜くという気概はまるでない。

弱気な態度を見せて、息子の劉賢りゅうけんに降伏の相談を持ちかけた。


「旧劉表の兵を加えた劉備は、まさに日の出の勢いだ。ここは大人しく降伏した方がいいと思うのだが・・・」

「何をおっしやいますか、父上。劉備の元に集まったのは、にわか兵、所詮は烏合の衆です」

「・・・しかし」


息子がそう叱咤するものの、それでも劉度が及び腰になるのは、劉備軍の先陣を切る武将、張飛と趙雲の存在だった。

長坂における二人の活躍は、劉度の記憶にも新しい。

あの猛将、二人を相手取って勝てる見込みなど、到底ないように思えるのだ。


「何の、父上。我らには六十斤の大鉞おおまさかりを振るう邢道栄けいどうえいがいるではありませんか。彼の武勇は、まさに万夫不当。張飛や趙雲など、簡単に討ち取ること間違いありません」

息子にとうとうと説得されて、劉度はようやく重たい腰を上げる。

兵一万を劉賢に与えると、城外三十里に陣を張らせるのだった。


劉度が気にしていた先陣は、やはり張飛と趙雲で、そこに関羽の姿はない。

華容道で曹操を見逃した咎で、未だ謹慎中なのである。


夏口から出陣する際に見送りに来ていたが、その関羽の手を劉備がとり、「必ず汚名を挽回する機会を与える」と言って、励ましたのだった。


「兄者、ありがたい言葉だが、今は逆です。見送る私が兄者たちを激励する立場」

「そんなことは、どうでもいい。必ず、待っていろよ」


その優しい言葉に顔を上げることができぬほど、関羽は熱いものが込み上げてくる。

戦前に涙は不吉。

決して見せまいと、うつむき震える関羽の姿を張飛と趙雲は目に焼き付けた。


戦場に出ることができない悔しさを代わりに晴らしてくる。

ただでさえ、手が付けられない虎将二人が激しく闘志を燃やすのだった。



劉備が攻めたのは零陵郡の郡地所が置かれている泉陵県せんりょうけん

劉賢が待ち構えている陣に、劉備は呼びかけた。


「今なら、降伏を受け入れる。剣を捨てて降る気はないか?」

「勝ち戦を捨てて、降伏する者などいるわけがないだろう」


ある種予想通りの返答である。

戦うというのであれば、相手になるまで。

劉備は張飛と趙雲に突撃の指示を出した。


今回は諸葛亮まで、戦場に立つというので、驚いたが何か考えがあるのだろう。

その差配も許可した。


戦端が開かれると、一気に乱戦の様相を呈する。

その中で、大声を発しながら大鉞を振り回す男の前に諸葛亮が現れた。


邢道栄が目にした男は、頭に綸巾かんきんをいただき、鶴氅かくしょうを身に着け、羽扇を手にしている。

更に戦場において、馬ではなく四輪車に乗っているのは、どういうつもりか理解が出来なかった。


「名のある者と見受けるが、お前は誰だ」

「私は劉備軍軍師、諸葛亮孔明である」


『この男が、あの諸葛亮』


邢道栄は、改めて目の前の若造を見つめ直す。

曹操軍十万を空城の計で殲滅させただの、赤壁では東南の風を吹かせただのと、色々、噂は聞いていたが、邢道栄は虚像先行の大した人物ではないと決めつけた。


「青二才の分際で、戦場に四輪車を使うとは反吐へどが出る。多少、浅知恵を使って名を馳せたようだが、調子に乗り過ぎたようだな。ここで俺さまが始末してやる」


邢道栄が迫って来ると諸葛亮の四輪車は、反転し一目散に逃げだす。

力自慢で健脚の力者、二人が四輪車を押し、槍刀を持った従者が脇を固めていた。


邢道栄が兵をかき分けながら、馬を走らせるが容易に近づくことはできない。

諸葛亮を追っていくうちに、邢道栄は、いつの間にか敵陣深くまで入り込んでしまった。


「お、やっと来たか。軍師が連れて来るというので、待っていたが、少々、待ちくたびれたぞ」

そう言ったのは張飛である。丈八蛇矛を振り回しながら、邢道栄に近づいて行った。


「お前があの張飛か?」

「ああ、井の中の蛙が、自分の力を知るにはもってこいの相手だろう」

「ほざけ。お前を倒せば、俺が最強だ」


大鉞と丈八蛇矛が激しく衝突する。

その衝撃に邢道栄は、危うく得物を落としそうになった。

手も痺れてしまい、上手く第二撃を繰り出せずにいる。


「お前が最強?ふざけるなよ。言っておくが、関兄の冷艶鋸の威力は、まだまだ、こんなもんじゃねぇぞ」

邢道栄は、すでに敵わないと戦意を喪失していた。

張飛が何を憤っているのか分からないが、大鉞を投げつけて、何とかこの場から逃げ出そうとする。

しかし、その行く手を、今度は白銀の鎧を着た武将に塞がれた。


「邢道栄とやら、どこへ行くつもりだ?」

「お前は、ひょっとして趙雲か?」


大鉞を失った邢道栄は腰から剣を抜いて身構える。

「いかにも趙雲子龍である」

言うやいなや、趙雲は電光石火の突きで邢道栄の剣を弾き飛ばした。


「雲長殿の冷艶鋸は、もっと疾いぞ」

ここにきて、ようやく邢道栄は、自分が相手にしてはいけない者たちに牙をむいたと悟る。


しかし、時すでに遅し。武器を失っては、抵抗する手段もなく、馬から降りて、大人しく降伏を申し出るのだった。

邢道栄が率いていた部隊が殲滅、多くの兵が捕虜となると、一旦、戦闘は終結する。そのまま、邢道栄は劉備の前に引っ立てられた。


「こいつの処遇は、どうすればいい?」

「ここは、私にお任せください」


劉備としては、早急な決着を望んでいる。緒戦で躓くと、残りの三郡攻略にも影響が出てしまうからだ。

もっとも、諸葛亮が、その辺を見誤るわけがないため、言われた通りに任せることにする。


「邢道栄殿、今、貴方の命運は、私たちが握っております。そこで、もし劉賢を生け捕りにできるというのであれば、このまま解放いたします。また、成功した暁には、重く用いることを約束いたしますが、いかに?」


生かされるとは思ってもいなかった邢道栄は、すぐに諸葛亮の提案に飛びついた。

その節操のなさに劉備は顔をしかめるが、任せた以上、黙っている。


「劉賢を生け捕るのなど、造作もないこと。今夜、劉備さまが夜襲をかけて下されば、私が内応して、劉賢を捕らえ、一網打尽にできるかと思います」

「おお、それは妙案ですね」


諸葛亮は、その策を入れると宣言すると、縄を解き、邢道栄を劉賢の陣へと返した。

邢道栄の姿がなくなると、たまらず劉備は諸葛亮に真意を確認する。


「どう見ても、あいつの言うことは信用できない。まさか、信じちゃいないよな?」

「当然、邢道栄の降伏は偽りです。相手の策を逆手にとって、劉賢を降伏させたいと思います」


諸葛亮曰く、四郡攻略の初戦であるため、できるだけ敵味方の損害を少なくして勝利を得たいとのこと。

陣中、奥にいる劉賢を誘き出すには、騙されたふりが必要ということだった。

一方、そうとも知らない邢道栄は、早速、劉賢に今夜の奇襲のことを伝える。


「劉備の夜襲を受けたふりをして、陣内に引き込みましょう。我らは事前に外に兵を伏しておき、敵が陣内に侵入したところ、逃げ道を塞いで一気に殲滅するのです」

劉賢は邢道栄の策を称賛した。古の名将、廉頗れんぱ李牧りぼくに勝るとも劣らないと褒めちぎる。


劉賢と邢道栄は、兵を二つに分けて、それぞれ陣から離れたところで待機し、夜を待つのだった。

果たして、約束の刻限となると陳到が先陣を切って、劉賢の陣内に突入する。


しかし、もぬけの殻の状態に当惑するのだった。

陳到軍の突撃を確認してから、劉賢と邢道栄は、挟み撃ちを敢行、一気に兵を集中させる。


「騙されたとも知らず、死地へやってきたな」

「何?」


陳到の慌てぶりに、邢道栄が勝ち誇って、悦に浸る。しかも相手が張飛や趙雲でないと知り、簡単に討ち取れると高を括った。

ところが、その陳到、頃合いを見計らっても慌てている素振りを止める。


「いや、お前のような猿の浅知恵。我らの軍師が見抜けぬと思うのか?騙されたのは、お前の方だ」

闇夜に銅鑼の音が鳴ると、突如、現れた劉備軍が劉賢、邢道栄軍を包み込むように取囲む。

その様子に騙されたことに気づく邢道栄であった。


「おのれ、よくも罠にかけたな」

策が破れた今、せめて陳到の首だけは、ここで取っておこうと邢道栄は襲いかかるが、陳到の槍は鋭く大鉞を寄せ付けない。


「くっ、こんなはずでは・・・」

邢道栄は、陳到にも敵わないと見て、背を向けて走り出すのだった。

陳到は、無理に追うことはせず、その背中に対して警告を与える。


「逃げるのはいいが、そちらには私より強い者が待っているぞ」

その言葉通り、邢道栄の前に趙雲が立ち塞がり、涯角槍の一突き。

あえなく邢道栄は絶命するのだった。


策の裏を取られ、劉備軍に囲まれた劉賢は、戦意を喪失する。

張飛の前で、降伏を申し出るのだった。


その劉賢を伴って、劉備は泉陵城の前まで行くと、すぐに劉度も降伏を申し入れてくる。

こうして、劉備は荊州南部の四郡のうち、まず、零陵郡を手に入れるのだった。


「幸先よく、零陵を落とすことができました。残り三郡もこの調子でいきましょう」

諸葛亮の言葉に、劉備は大いに頷く。


これまで、劉備が地盤として治めていた領地は、人から譲り受けた場合が多く、自らの手で勝ち取ったのは、今回が初めてと言ってもよかった。

いよいよ、第一歩を踏み出したと高揚する。

簡雍の前で嘯いたが、劉備の第二章が本当に始まる。そんな期待が膨れ上がるのだった。

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