第29話 江東の虎

樊城を出て、一気に襄陽城を取囲んだ孫堅軍。

劉表は城門を閉じて、守りに専念することとした。


しかし、籠城するだけでは勝利は難しい。

打開策を模索しようと、城内にて軍議が開かれるのだった。


まず、はじめに声を上げたのが参謀・蒯良かいりょうだった。同じく参謀の蒯越とは同族にあたる。


「古今、援軍のない籠城に勝利はありません。ここは袁紹殿を頼るのが得策かと存じます」


その意見に異議を唱えたのは、劉表の義理の弟の蔡瑁さいぼうである。

義理の弟というのは、劉表が荊州に赴任した際に蔡瑁の姉を後妻に娶っていたからだ。


「袁紹殿を頼るにしても冀州から荊州までは、途中、袁術の領地を通過せねばなりません。袁術の妨害を考えれば、到着がいつのことになるやら、わかりません」

確かに蔡瑁の言には一理あった。


蔡瑁は続けて、

「私が手勢を率いて、峴山けんざんより奇襲をかけます。この城に目がいっている隙に裏をかいてみせます」と進言した。

劉表は蔡瑁に出陣の許可を出すと、二千の兵が編成され、夜陰に乗じて密かに襄陽城を出立する。


しかし、蔡瑁が峴山に布陣すると同時に、待ち構えていた孫堅軍に強襲されてしまった。

孫堅は襄陽城の様子をしっかりと確認しており、蔡瑁が城を出た情報も掴んでいたのだ。

程普の軍にさんざんに蹴散らされ、ほうほうのていで襄陽城へと逃げ帰る。


こうなっては、やはり、袁紹を頼るしかないという結論が劉表陣内で一致するのだった。

ところが、蔡瑁が失敗した例を考えると、救援の使者を送ったことも孫堅軍に筒抜けとなる可能性が高い。

それでは、袁紹領に到達する前に使者は捕まってしまうだろう。


なかなか結論が定まらない中、蒯良が進み出る。

「それでは、孫堅が我々を監視しているのを逆手にとりましょう」

劉表は、どういうことか尋ねる。


「使者を出せば追ってくるのは必然。しかし、我らには地の利がございます。隠れてやり過ごしたところ、追ってきた将を闇討ちするのです」

蒯良の策に一同賛同する。


「それで、どこで闇討ちをかけるのだ?」

「峴山がよろしいかと。一度、快勝している地、敵に油断もありましょうし、隠れられる場所も多くあります」

早速、使者役に呂公りょこうが選ばれる。

その夜、蒯良の策が実行された。



「襄陽城から三十騎ほど、夜陰に乗じて出撃したようです」

見張り役からの報告を受けると、どちらに向かったか孫堅が確認する。

「峴山のようです」


・・・あいつら、馬鹿の一つ覚えか?

それにしても奇襲をかけるには三十騎とは少なすぎる。

「様子見に出るぞ」

孫堅が手勢を率いて出ようとするのを、周瑜が止める。


「殿、今夜は月夜といっても曇りがち・・・代わりに私が出ます」

「なに、少し様子を見に行くだけだ。それに今回の戦、俺は何もしていないから、少しは仕事をさせろ」

「・・・しかし」


周瑜は古参の腹心、三人の誰かが止めてくれないかと視線を送るが、程普、黄蓋、韓当からは主君を諫める言葉は出なかった。

こうなった時の孫堅が意見を変えないことは承知済み、敵兵も三十騎であれば危険はないだろうと判断したからだった。

しかし、後でこの時の判断を後悔することになる・・・


孫堅は、三百騎ほど率いて、峴山へと向かう。

「敵はここに来たんだな?」

「そう聞いています」


孫堅一人では、心配だと孫策が無理矢理ついて来た。

そんな年寄り扱いするなと苦笑いした孫堅だったが、久しぶりの親子二人の行動を楽しんでいる風でもある。


「父上、劉表兵はどちらに行ったのでしょうか?」

「うむ。見当たらないな。・・・深追いは禁物だ、そろそろ引き返すか」


そんな親子の会話をしているところ、闇に隠れていた呂公は興奮を抑えられなかった。

単なる将校級の武将が釣れればいいと思っていたが、まさか、こんな大物がやってくるとは・・・


弩を持った部下たちに狙いを孫堅に定めるよう指示し、合図を送る期をうかがう。

その時、はやった部下の一人が弩を発射してしまった。

しかも、その矢は大きく外れる。

「敵兵だ」


気付かれたと思った呂公は、慌てて一斉掃射の指示を出す。

普段の孫堅であれば、自身に飛んでくる矢も難なくさばいていたかもしれない。


しかし、この時とった行動は自分の身より孫策を守ることを優先してしまった。

数本の矢が孫堅の体を貫き、口からは血反吐が流れる。


「伯符、逃げろ」

それでも孫堅の口からこぼれた言葉は、息子の身を案じる言葉だった。

「父上!」

自身の体にすがろうとする息子を突き放し、部下に連れていくように命じた。


「父上、お助けします」

「若、駄目です。・・・殿のご命令です」

部下も泣きながら、主命をまっとうしようと孫策を連れていく。


その姿を見届けると孫堅は剣を抜き、矢が飛んできた方向に突進した。

「な・・化け物か」

呂公は第二射を指示する。

矢は孫堅の体に当たるが、それでも突進を止めることはできなかった。


そして、呂公の姿を見つけた孫堅は一刀両断にするのだった。

それには呂公の部下たちも、たちまち逃げ出してしまう。

劉表兵がいなくなると立っている力がなくなったのか、その場に尻餅をついた。


天を見上げた孫堅は、独り言を呟く。

『やはり、俺は天に選ばれていなかったのか・・・』

そう言ったのには理由がある。


実は洛陽の廃墟において、劉備と曹操の会話を孫堅は聞いていたのだ。

二人がそろっているので声をかけようとした矢先に、英雄論が始まった。

その時は、なぜ、自分がその英雄の中に入っていないのかと憤慨したが・・・


こういうことだったのだな。

孫堅は理解するとともに寂しさを感じる。

『くそ・・・俺はまだやれた。・・・俺も董卓を・・・玄徳の奴め、お前が羨ましいぞ』

命を助け合った戦友の顔を思い浮かべると、ほほに熱いものが伝わった。


・・・しかし。

『俺には、まだ希望がある。・・・伯符、仲謀ちゅうぼう叔弼しゅくひつ季佐きさ・・』

孫堅は、順番に孫策以下、孫権そんけん孫翊そんよく孫匡そんきょうと子供たちの顔と名前を思い浮かべる。


初陣で見せた孫策の活躍を見れば、孫家はこれからも安泰だろう。

また、他の息子たちも親のひいき目だが、優秀だと思う。

これからの孫家に、何一つ、不安なことはないではないか。


『俺は、安心して逝ける』

兄弟、助け合ってくれよ。父の背中は、もう見せてやれんが・・・

『さて、・・・大栄の奴に、𠮟られに行くか』


孫堅はそのまま、大の字になって地に倒れる。

江東の虎の異名をとり、董卓にもっとも恐れられた男の最後だった。



翌日、明るくなってから孫策たちは峴山に行くが、そこには孫堅の遺体はなかった。

おそらく劉表の手によって回収されたのだろう。


ここで孫策たちのとる道は二つあった。

戦争の継続か和睦だ。

陣営内の意見も真っ二つに分かれた。


それぞれの意見に正当性があり、二日経っても収拾がつかないため、最終判断は孫策にゆだねられた。

孫堅亡き後、まとめあげるのは嫡男の孫策に他ならないからだ。


しかし、肝心の孫策は、あの夜以来、ふさぎ込む日が続いている。

心配してついていったのが裏目となり、逆に足を引っ張って、父親を殺してしまったのだ。

十六歳の少年が負うには重すぎる業だった。


「伯符よ。これからはお前が孫家の頭領だ。・・・今は辛いだろうが、私はどこまでもついて行くぞ」

「・・・公瑾」


思えば、あの夜の探索を止めたのは周瑜だけ。

そろいもそろって、我々は何をしていたのか。

程普、黄蓋、韓当も自分たちの行動を恥入り、孫策に変わらぬ忠誠を誓うと盛り立てる。


部下たちに支えられ、孫策は立ち上がると、

「和睦しようと思う」

理由は父親の遺体を取り返したいためだ。

領地に帰って、きちんと弔ってあげたい。


武門の息子としては間違っているかもしれないが、そうしないと孫家は再出発できないような気がするのだ。

孫策の意見に全員賛同する。

それでは捕虜の黄祖との交換の線で交渉しようということになった。


その交渉はうまくまとまり、停戦和睦となる。

孫策は、父親が眠る棺とともに長沙へと引き返した。

悲しみの隊列は細長く続いた。



「大将、寝ないんですか?」

政務で遅くなった簡雍が、劉備がまだ起きていることに驚いた。

「いや、寝てたんだけど、何か嫌な夢を見たんだよ」

「どんな夢ですか?」

そう言われると、どんな夢だったか思い出せない。


「どうして泣いているんです?」

「え?」

簡雍に指摘されるまで、自分が泣いているとは思いもしなかった。

そこに二人で酒を酌み交わしていた関羽と張飛もやってくる。


「長兄、いかがなされた?」

「なんだ、憲和。長兄を泣かしているのか?」

「そんな訳ないでしょ」


四人がそろい、劉備は何だがホッとする。

涙を拭うと、劉備は、

「なぁ。江東ってどっちだ?」

「向こうですよ」

簡雍が指さす。


劉備は部屋から出ると、簡雍が指さした方向の空を見上げた。

「何かあるんですか?」

「わかんねぇけど、今は、向こうの夜空を見ていたいんだ」

理由はよくわからないが、関羽、張飛、簡雍も劉備に倣って、夜空を見上げるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る