第141話 火船、突撃
東南の風が吹くという日の夕刻、もう日が沈みそうだというのに気温は下がらず、生暖かい風が辺りを包んだ。
これが前兆だというのであれば、風は必ず吹く。
周瑜は、向かい風の中、烏林に向けて水軍を出撃させた。
「曹操、この風が
周瑜率いる艦隊は、第一船団には黄蓋とともに韓当が率いており、続いて、呂蒙と周泰が第二船団、蒋欽と甘寧が第三船団、陳武と淩統が第四船団と続く。
一つの船団は二十艘ほどの蒙衝や先登で構成されていた。
その中、魯粛があることに気づく。
「徐盛と丁奉の姿が見当たりませんが?」
その質問に周瑜は答えなかった。
前もって、魯粛には諸葛亮を亡き者にすると宣言していたため、それを実行に移しただけ。
ここで、くどくどと説明する気はない。
無言こそが回答であり、魯粛もそう察すると、それ以上は何も言わなかった。
親密な付き合いをしている諸葛瑾のことが、若干、頭をよぎるが、陸を離れた以上、魯粛にはどうすることもできない。
冷たいようだが、今は他人事と割り切ることにした。
孫権軍の襲来に合わせて、どうやら烏林の方でも出撃してきた様子。
いよいよ始まる水上決戦に集中しなければ、一生、悔いを残すことになるだろう。
魯粛の視線は、既に前しか見ていなかった。
周瑜が動いたという情報を得ると曹操も烏林の水上要塞を出発した。
大きな船団のため、船足がつくまで時間がかかったが、一旦、勢いがつけば鎖で繋がれていることを忘れるほど、快適な運航となる。
しかも長江の波にもびくともせず、予想以上に揺れが少なかった。
「うむ。問題はないようだな」
この様子に曹操もご満悦の様子である。
家臣団もホッとしている中、司馬懿がある異変に気付いた。
この船に乗船しているべき人物がいないのである。
旗艦の中を探すが見つからず、もしやと思い、船尾へと移動した。
「やはり」
司馬懿が見つけたのは、陸の上で手を振る龐統の姿だった。
「龐統殿、そこで何をなさっている。」
「曹操丞相とのお約束通り、荊州の地を離れましたゆえ、お役御免とさせていただきます」
確かに襄陽城で仕官の折り、そのようなことを言っていたが、まさか荊州の地とは陸地を指しているとは・・・
烏林で戦う以上、水上戦になることは明らか。
だとすると、龐統は初めから、戦が始まる前に離脱するつもりでいたことになる。
それが何を示すのだろうか。
「ご武運を」
まるで心が籠っていない声援。あの笑顔の裏で何を企んでいるのかを考えると、やはり、疑念は一つ。
『鉄鎖の陣』だ。
これは急ぎ、曹操をお諫めせねばならぬと司馬懿は急ぐ。
しかし、出航してからでは、打つ手は、もうないように思えた。
案の定、曹操にかけ合っても、まともに相手をしてくれない。
「荊州の地か・・・まるで、とんちではないか。喰えない男め」
「いえ、問題はそこではございません」
「分かっている」
龐統が唱えた鉄鎖の陣が、悪意をもって画策されたのではないかということだが、今の所、問題になることが、何一つなかった。
むしろ疫病の蔓延を防止した良策としか思えない。
それに、すでに出航し、周瑜の艦隊も見えて始めた今、何ができるというのだ。
まさか、態勢を立て直すために、一戦も交えず引き返すというわけにもいかない。
曹操は甲板に出ると、決意を明らかにし、軍全体を鼓舞するのだった。
「このまま、追い風に乗って、孫呉の艦隊を攻め滅ぼすぞ」
曹操の声に反応して、鬨の声が上がる。
その直後、生暖かい風が曹操にまとわりついた。
「うん?何だ?」
ふと、気づくとそれまで、強風になびいていた『曹』の旗が、今はまるでしおれた花のようになっている。
曹操は、得体の知れない雰囲気に胸中が騒めいた。
そして、次の瞬間、旗は再び勢いを取り戻す。
但し、先ほどとはまるで逆、反対方向に旗が飛んでいくのではないかという勢いでなびき始めるのだ。
「これは、何が起こっているというのだ」
曹操をはじめとした重臣たちが、驚いていると物見から報告が入る。
「『黄』と『韓』の旗を掲げた船団が、孫呉の本隊から離れて、近づいてきます」
その旗印であれば、黄蓋と韓当の両名のはずだ。
約束通り、裏切ってこちらに内応しに来たように思われる。
報告に間違いがなければ吉報であった。不可解な現象が起きてはいるが、あの両名が、こちら側につくのであれば、それで大勢が決する。
曹操は身を乗り出して、黄蓋と韓当の船を確認した。
「何だか、
「確かに・・・これは、どういうことだ」
船に食料や武器を満載としていれば、もっと船は沈んでいなければならない。
違うとすれば、あの船には一体、何が積まさっているのか。
「このままでは、こちらに衝突いたします」
「何!」
黄蓋と韓当は、船の上でにやりと笑った。丁度よく切替わった追風を上手く捕まえ、船は加速して曹操の艦隊へと迫る。
この様相に、裏切りは偽装と感づいた曹操が、于禁と毛玠に指示を与えた。
「弓箭部隊を所定の位置につかせよ」
曹操は、船と船の間の渡り板の上にも弓隊を配置し、一斉射撃を開始させた。
これが司馬懿が考案した物量に任せた弓撃である。
船同士を結ぶ板も足場として利用することで、矢での攻撃範囲を隙間なく濃密なものにした。
射かけられる方から見れば、まるで逃げ場がないことだろう。
この戦法で曹操は、孫権軍を一気に滅ぼそうと企てていたのだ。
黄蓋、韓当もこれにはたまらない。
唯一、幸いだったのは、矢が向かい風に押し戻されることで、弓勢が弱まっていることだが、それでも、射程が短くなっただけで、近づけば同じだった。
この曹操軍の弓撃で半数の船を黄蓋、韓当は失う。
それでも残りの半数の船を曹操艦隊の近くまで持っていくと、船首に被せてあった布を外した。中からは、鋭くとがった鉄の
そして、衝突する寸前で船に火をつけた。
火薬に引火した炎は藁を燃やし火船となって、曹操艦隊に襲いかかる。
「止めよ。これ以上、近づけさせるな」
曹操必死の叫びも虚しく、火船は次々と曹操の船団にぶつかった。
曹操軍は、慌てて火船を離そうとするが、勢いよく刺さった銛が思いのほか、深く食い込んでいるため、容易には外すことはできない。
そうこうしている内に火船の炎は、曹操の船団にも飛び移る。
東南の風が容赦なく、炎をまき散らすのだ。
「船を切り離すのだ」
曹操の指示が出る前に機転が利く者、何名かが既にその作業に取り掛かっていたが、容易に外すことはできない。
そもそも簡単に外せるのならば、船の揺れは抑えることができないのだ。
自船の消火に躍起になっているところ、孫呉の船団、第二陣の接近も簡単に許す。
第二船団を任されている呂蒙と周泰は、油が入った壺を投げつけた後、火矢を射かけさせた。
そうして、出火点を増やしていくのだった。
と、同時に黄蓋と韓当たちの回収も行う。
特攻隊のように曹操艦隊に飛び込んだ第一船団の面々は、直撃する直前に水中へと脱している。
彼らの救助も第二船団の役目なのだ。
ところが、救った者たちの中に黄蓋の姿がない。
まさか、水練達者なはずの黄蓋に、何かあったかと呂蒙は狼狽した。
「公覆の奴は、恐らく曹操の艦隊に潜入しにいったはずだ」
「何故ですか?曹操の船は火の海ですよ」
「あの船の中に闞沢がいる。きっと、救いにいったのだろう」
韓当の予測は、まさしく的中する。黄蓋は、すでに曹操の船の中に潜入しているのだった。
混乱している船内に潜り込むのは意外と簡単だったが、この大船団の中から闞沢一人を探し出すのは、困難を極める。
ただ、やみくもに探しても見つかるわけがないため、自分ならどういう手段をもって、逃走するかを考えた。
これまで、戦場での機転を含め、知識、技術は闞沢に叩きこんできたつもり。
おそらく黄蓋と同じ考えをするはずだ。
「船首、一番、助かる確率が高いのは火の中を突っ切ることだ」
火のないところは、曹操軍で一杯だと予測できる。それならば、曹操軍と反対の行動をすれば出くわさずに済む。
黄蓋の予想通り、炎に包まれた船内で闞沢と再会を果たした。
「黄蓋将軍。このようなところで何をなさっているのですか」
「当然、お前を助けに来たのよ」
「私のことなど・・・」
そう言いかけて闞沢は止める。黄蓋の性分を知っていれば、このような行動をとるのは予測しておかなければならないことだった。
それに、今、ここでいい争うことではない。
「それでは、一緒に急ぎましょう」
「よし、分かった」
黄蓋は濡れた上着を闞沢に被せると、ともに炎の中に突っ込む。
その先に長江の水面があった。
炎の中で肺をやられないように息を止めて、突っ走ると勢いよく、水面に水しぶきが立つ。
何とか脱出に成功した二人に近づく船があった。
手を差し伸べたのは韓当である。
「今回は、何か何までお前に持っていかれたな」
「そう言うな。戦は、まだ終わったわけではない」
曹操の船団の半数近くが朱に染まっているが、確かに殲滅したわけではなかった。
戦は、まだ序盤である。
韓当は大いに頷くと、早速、戦列に復帰した。
だが、残念ながら、黄蓋と闞沢の出番は、ここまで。
脱出を含め、色々、無理をし過ぎた。
ただ、やり切った満足感は十分にある。
炎を背景に黄蓋と闞沢の二人は、自然と笑いだすのだった。
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