第142話 二つの脱出

南屛山の麓で待機していた徐盛と丁奉。

旗指物のなびく向きが変わったことをお互いに確認する。


「本当に東南の風が吹いたな」

「ああ、つまり、これで用なしだ」


手勢、五百を率いて諸葛亮が祈祷を行っていた祭壇へと向かった。

七星壇を囲う横幕を切り裂いて、徐盛と丁奉は中に侵入する。

ただ、そこは誰もいない無人であった。


「逃げられたか」

「いや、見てみろ」


祈祷のために使用したお香は、まだ、煙がいぶっている。

逃げたとしても、そんなに遠くまで行っていないと思われた。


「荊州に戻るためには、長江を渡らなければならない。急ごう」

丁奉も同意し、南屛山を急いで降る。徐盛の予想通り、諸葛亮の逃走経路は水路で間違いないようだ。

恐らく諸葛亮を乗せているであろう馬車と護衛する一団を視界にとらえたのである。


「諸葛亮殿、お待ちになって下さい」

獲物の速度を緩めようと徐盛が、駄目で元々と呼びかけるが反応はなかった。


「ここは、任せろ」

そこで、丁奉が腰に提げてある袋から、鉄のつぶてを一つ取り出す。

何を隠そう丁奉は、投げつぶての名人。


投げる鉄のつぶては、五十歩までの距離であれば、百発百中の腕を誇っていた。

丁奉が狙い定めた投擲とうてきは、勢いよく劉備軍の一団が囲っている馬車に襲いかかる。


ところが、命中すると思われた寸前で、つぶてが空中で真っ二つに分断された。

後方を守っていた白銀の鎧を着た将が、鞘から抜いた剣を一閃させたのである。


「孫呉の将たち、無駄なことは止めて、曹操を討つために戻られよ。それともこの趙雲子龍と一戦交え、この地に散るおつもりか?」


つぶてを斬った動きから、ただ者ではないと感じたが、まさかあの曹操の大軍の中を単騎駆けした趙雲とは思いもしなかった。

とすると、手に持っているのは、名刀、青釭の剣だろう。噂に違わぬ斬れ味である。


「どう考えても、こんな騙し討ちまがいの仕事より、戻って曹操軍、相手に戦功を挙げたほうがいいですよ」

「どんなことでも、それが主命であれば従うのみだ」


簡雍の説得も二人には通用しなかった。そんなことを言い争っているうちに、長江、赤壁の戦場が明るく輝き出す。

炎の光が南屛山の麓にまで届いたのだ。


「ほら、始まりましたよ。今戻れば、まだ間に合います。それに周瑜さんも本気で、孔明さんを討てるなんて思っていませんよ」

「そのようなこと・・・」


実は徐盛、丁奉の方でもあっさり、諸葛亮を討ち取って、さっさと戦場に戻るつもりだったのである。

ここまで時間がかかり、ましてや趙雲のような強敵を相手にするのは想定外だった。


「もう一度、言いますけど。我らは同盟相手。敵は曹操です。そこは見誤らない方がいいですよ」

「いや、憲和殿。相手を思って穏便に済ませたいのは分かりますが、我らも時間が惜しい。ここは私が一気に殲滅して来ます」


趙雲の強さは聞き及んでいる。確かにここで無理をして、下手に怪我をするより、曹操相手に武勇を揮う方が、はるかにいい。


「分かった。それでは、我らも退きましょう。諸葛亮殿は、既に夏口に戻られていたと報告します」

「それが、お互いのためです。ともに曹操軍、相手に武功を上げましょう」


どうやら、最悪の事態は回避できそうだった。一応、警戒だけは怠ることはしないが、趙雲の名を聞いて、逡巡しゅんじゅんしていた。

無理をしてくることは、まず、ないだろう。


「追手が来たのですか?」

諸葛亮が異変に気付き、馬車から顔を出す。三日三晩の祈祷の疲れから、中で休んでいたのだ。


「もう、大丈夫です。子龍さんが追っ払ってくれました」

「そうですか。それにしても馬車の手配まで、ありがとうございます」


諸葛亮の指示で趙雲に迎えに来てもらうよう劉備に連絡していたのだが、馬車の手配については簡雍の判断である。

祈祷で諸葛亮が疲れていることを気遣っての配慮だった。


その後は、行く手を阻む者もなく、順調に長江まで辿り着く。

用意してあった帆船に、皆、乗り込んだ。


「派手にやってますね。急ぎましょう」

赤く燃える長江を尻目に、簡雍たちは劉備の元へと急ぎ、船を走らせるのだった。



「なんという状況か」

曹操は燃え上がる旗艦から脱出し小舟に乗っていた。

その船に揺られながら、その目に映る状況を整理できずにいる。


あれほどの数を誇った艦隊が、僅かな火船の攻撃によって、灰燼かいじんそうとしていた。

東南の風の勢いはおさまらず、舞った火の粉が暴風に乗って次々と飛びかかる。沈んだ船以外で燃えていない船はない。


煙で視界が悪くなっているが、火の手は水上要塞から陸の陣地にまで及んでいるようにも見えた。

これでは、どこに逃げていいのか分からない。


しかし、ここに来てまさか、東南の風が吹こうとは・・・

曹操は、天の悪戯を嘆く。

それと荊州を簡単に手に入れることができたことによる慢心が、己の中にあったのかもしれないと反省した。


「丞相、まずはこの地を脱しましょう」

小船に同乗していた張遼の言葉で、曹操は現実の世界に戻る。


その通り、反省は後から、いくらでもできるのだ。

まずは、何としても生き延びなければならない。


曹操は周囲をよく見回すと、火の海と思われた陸地にも僅かに上陸できそうな地点が残っていることに気づいた。

すぐにそちらに向かうよう指示をする。


「丞相、お隠れ下さい」

張遼が盾で曹操の身を隠した。その盾に矢が数本、突き刺さる。

注意が陸地に集中し、索敵が疎かになっていたようだ。


ここに来て、孫呉の船の接近を許してしまう。

曹操に勢いよく迫る走舸に乗船しているのは、韓当だった。


「しまった。外したか」

不意を突いたはずの狙撃を防がれたのを悔やむ。だが、船足は韓当の方が明らかに速い。

このまま近接すれば、曹操の首を獲れると鼻息を荒くした。


「曹操丞相、俺からの恋文はどうであった?」

騙された曹操は、返答をしない。そんな事よりも、今は逃げることの方が先決なのだ。


「無視とは、つれないぞ」

「孫呉は、天運に救われただけだろう」


しつこい韓当についに、曹操は我慢ができなくなる。しかし、その後、韓当から返って来た言葉に愕然することになった。

「東南の風のことを言っているのであれば、あれは諸葛亮殿が吹かせたのよ。偶然などではない」

「馬鹿なことをいうな。そんな人知を超えたこと、できるわけがない」


この時、驚いたのは曹操だけではない。船を漕いでいた者の手も止まってしまった。

出来るわけがないと言いつつも、実際に東南の風は吹いている。

何か恐ろし気な力が作用しているような疑心暗鬼に、皆、陥ったのだ。


そこに付け込んだ韓当の船が、一気に距離を縮める。

ところが、曹操の首を獲ったと思った瞬間、船に大きな衝撃が加わり、韓当は転覆しかけるのだった。


「お喋りな男は、格好悪いぞぅ」

曹操を追っていたのは韓当だけではない。許褚は自慢の力で櫂を漕ぎ、恐るべき速さで猛追していたのだ。

そして、ある程度、距離が縮まると一気に跳躍し、韓当の船に飛び乗る。


許褚が乗ったことにより、韓当の船は不安定となった。船から落ちまいと孫呉の兵たちは、必死に縁にしがみつく。

そんな兵たちを許褚は、一人ずつ捕まえては、次々に長江へと放り込んでいった。


「この化物が」

韓当は、突然現れた巨漢の武将に剣を抜く。

許褚は無手だったが、慌てず真上に飛びあがると体重を込めて船の上に着地した。


足場が激しく揺れて、韓当は態勢を崩す。そこを見逃さない許褚が真正面から腰に手を回して捕まえると、そのまま韓当を水面に投げつけるのだった。

これで、船上に孫呉の兵はいなくなる。


「許褚殿、助かりました」

この活躍に張遼が賛辞を送った。すぐに上陸に向けて、船を進ませる。

陸地につき、船を降りた曹操は長江をジッと見つめた。


「丞相、早くこの地を去りませぬと」

張遼が移動を促すが、それでも曹操はしばらく視線を変えず動かない。


「私は、この光景を一生、忘れないと誓う」

「私もでございます」

悔しさをにじませた曹操の言葉に張遼も追従した。それほど、曹操軍にとって衝撃的な敗戦なのだ。


「今回、私は劉備という雄敵を討つことに没頭しすぎ、いくつもの兵法の禁を犯したようだ。奉考が存命であれば、きっと、叱られていたことだろう」

曹操は、官渡の戦いの後に夭折した天才軍師の名を挙げて、自分を戒める。

このような過ちを二度と繰り返すまいと誓うのだった。


曹操の上陸と、時を同じにして、配下の将兵も集まり始める。以外にも、あの業火から逃げ出せた者は、多いようだ。

全員、揃っているわけではないが、今の所、大きな怪我をおっている者はいないように見受ける。

何とか軍としての体制が整うと、曹操を先頭に行軍を開始した。


目指すは江陵城。そこまで、何とか逃げ切ることができれば、まず、安全は確保できたと言っていい。

曹操は真っ赤に燃える船団を背景に、ただ、ひたすら、馬を走らせる。

まるで、炎の魔手から、必死に逃れるようだった。

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