第143話 諸葛亮の三つの指示

諸葛亮らを乗せた船が長江を渡り切ると、劉備を筆頭に関羽、張飛、陳到らが出迎えのため、岸に立っていた。

「我が君、わざわざ、お出迎え感謝いたします。お願いしていた通り、軍はすぐにでも動かせる状態でしょうか?」

「ああ、待機させている。・・・でも、お前は大丈夫か?」


簡雍からの話では、三日三晩の祈祷を終えた後と聞いている。

劉備は諸葛亮の疲労と体調を心配したのだ。


「ご安心ください。簡雍殿のおかげで、移動中、十分に休息をとれました。今、私の脳漿は、冴えに冴えわたっております」

諸葛亮が簡雍にお辞儀をする。簡雍も礼を返すが、ただ手配をしただけで、特別、労を要したわけではなかった。

そこまでかしこまられると、照れくさい。


そもそも、諸葛亮を補助することが、ともに長江を渡った簡雍の仕事なのだ。

「私のできることは、ここまでです。後は、孔明さんお願いします」

諸葛亮が、もう一度、簡雍に頭を下げると、劉備の方に向き直す。


「我が君、軍を動かしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、頼む」

「それでは、我が君に変わって、諸将に下知を下す」

諸葛亮が羽扇を持って、諸将の前に立つと、皆、並んでその指示を待った。


「まずは、趙雲将軍と陳到将軍。お二人は、それぞれ兵一千を率い、烏林の西の街道に兵を待機させて、逃げて来る曹操を待ち伏せて下さい」

「烏林ではあれば、孫呉の兵とかち合う可能性がありますが、いかがしますか?」

「いや、手堅い周瑜司令であれば、まず烏林の兵糧や物資を押さえに動くはず。また、地理的な不安もあり、西の方にまでは軍を動かしてきません」


諸葛亮の説明を聞くと、趙雲と陳到は兵を率いて出発する。

その動きは、何とも俊敏だった。


「続いて、張飛将軍と糜芳殿は、更にその先に二千の兵で伏してもらいます」

「確かその道は、二つに枝分かれしていたはずだが、北と南のどっちだ?」


張飛は烏林より西の地形を思い浮かべながら、諸葛亮に確認する。

諸葛亮も、羽扇で顔を覆い一瞬考え込むが、すぐに「南」と答えた。


どちらの道も夷陵へと続く道だが、途中で曹操が目指している江陵ともつながっている。

その内、北夷陵の方が、難所も多く遠回りとなるため、疲弊しきった曹操は避けるだろうと考えたのだ。


「その南夷陵の葫蘆口ころこうという場所で、曹操は食事をとるはずです。炊煙が上がったのを確認し、強襲して下さい」

「そんなところで、飯を食うのか?・・・いや、分かった」


諸葛亮の差配を疑うわけではないが、相手がいつ食事をとるかまで分かるとなれば、まるで預言者の域である。

張飛は、多少、戸惑いの表情を見せるが、糜芳に、「覚えたか?」と確認をとりつつ、下がって行くのだった。

その様子に劉備は、大丈夫かと心配になる。


「張飛殿ならば、心配に及びません」

「そうか」


劉備の不安顔を安心させた諸葛亮だが、一転して、自身の表情は曇らせることになった。

次に指示を出すのは、序列的に言って関羽なのだが、なかなかその関羽に対して、指示を下すことができない。

業を煮やした関羽自身が、諸葛亮に問いかけた。


「なぜ、私に曹操追討の指示がでないのか?」

「迷っているのですよ。少々、お待ちください」


さすがの諸葛亮も、ここに来て、曹操の通る道を予測するのが困難になってきたのか?

しかし、目的地が江陵だとすれば、最悪、江陵まで先回りすればいいだけの話のように関羽には思えた。


「曹操の逃げ道が分からないのであれば、私が赤兎馬を飛ばして、江陵の前で待ち構えますが」

「いえ、曹操軍が通るのは華容道かようどうで間違いありません」

「では、何を迷われているのですか?」


諸葛亮は、大袈裟に溜息を漏らす。芝居がかった行為だが、その真意までは、劉備にも簡雍にも読めなかった。


「迷う理由は、先ほど関羽将軍がおっしゃった赤兎馬です」

「赤兎馬にいかなるかどがあるというのか?」

「赤兎馬は、誰からいただいたものですか?」


そう問われて、関羽は言葉が詰まる。

それは紛れもなく、今、追い詰めようとしている曹操孟徳、その人から与えられたものだからだ。

しかし、だからと言って・・・


「私に二心ありとでもいうのか」

「いえ、関羽将軍と我が君、それと張飛将軍との絆。桃園結義を上回るものは、この世に存在しないでしょう。しかし、恩ある人間の哀れな姿を見た時、将軍は非情になることができますでしょうか?」


義侠心強い関羽の性格を考えれば、諸葛亮が危惧することは十分に理解できる。

だが、個人の感情よりも優先すべきことが主命なのだ。


「命令とあれば、曹操がどのような態度であろうと斬ることができる」

「二言ございませんな」

「ない」


関羽は、覚悟を決めて誓うのだが、その言葉を信じていないのか、諸葛亮は劉備に証人になってもらうという、まさかの念の入れようを見せる。

その様子に、関羽は憤慨した。

そして、ようやく関羽にも指示が下る。


「それでは、関羽将軍は一千を率いて、華容道に向かって下さい」

「いや、我が子飼いの手勢五百で十分だ」

諸葛亮の指示に関羽も意固地になっている。両者の睨み合いが暫く続くが、諸葛亮の方が先に折れた。


「よろしいでしょう。それでは五百を率いて向かっていただきます」

「承知した」

「それで、華容道で待機している最中、二つの狼煙をあげて下さい」


この指示に関羽のこめかみがピクリと動く。命令の意図が分かりかねる。

「そのような事をすれば、伏兵ありと感づいて、曹操が逃げるのでないか?軍師は、わざと曹操を逃がそうというのか?」

「いえ、曹操ほど兵法に長けた者だからこそ、裏を読んで、あえて狼煙のある華容道を通るのです」


そういう理屈であれば従うと関羽は言い放つ。

但し、「それで、もし曹操が姿を現さないときは、私が軍師に罰を与えてもよいか?」と迫った。

諸葛亮は、一瞬、驚いた顔をするが、すぐに微笑を返す。


「面白いですね。それくらい緊張感があった方がいいでしょう。受けて立ちます」

「こちらも承知した。それでは、ごめん」


やや冷静さを欠くものの、きちんと狼煙の準備を行って、関羽は手勢を率いて出発した。

このやり取りを一部始終見ていた劉備は、やや不安になる。

諸葛亮と関羽の間にしこりが生じるのではないかと思ったのだ。


「関羽将軍は、そんな卑屈な人ではありません。その点は、問題ありません。但し・・・」

劉備が心配していることとは、別のことを諸葛亮は危惧しているようである。


「何か他にあるのか?」

「はい。今回、残念ながら関羽将軍は、曹操を討つことができません」

「そうなのか?」


諸葛亮は、黙って頷く。七星壇で天文を読んだところ、まだ、曹操の命数は尽きていないことが分かったそうだ。

恐らく、何とか生き延びるという運命になっていると、諸葛亮は話す。

それでは、関羽が討ち漏らすと分かっていながら、なぜ、あのような約束をしたのか?


「何か理由があるのかい?」

「はい。関羽将軍の性格上、受けた恩を簡単に忘れることなどできないでしょう。ただ、今後、曹操と決戦をするにあたって、当然、関羽将軍はなくてはならない戦力です」


関羽の武勇は、天下に鳴り響いている。

諸葛亮の言う通り、これからも劉備の右腕としてあてにしていくことは、当然のことだ。


「それで、今回、曹操は生き延びることは決まっているのですから、この機を利用して、関羽将軍の心の中にある負い目を晴らしてあげるべきと考えたのです」

「なるほどね」


諸葛亮の智謀は、どこまで先を見据えているのか。

劉備は、ただ感服するしかなかった。


「ただ、我が君にお願いがございます」

「何だ?」

「関羽将軍が討ち漏らしたと報告に来た際に、激しく叱責いたしますが、中途半端なところで止めないでいただきたい」


諸葛亮は、この機会に軍令の厳しさも諸将に伝えたいと言うのである。

どうやら、劉備は驚くのが早すぎたたようだ。

諸葛亮の頭の中では、先の先まで、全てのことを理解し淀みなく処理されているとしか思えない。


「承知した。・・・ん?中途半端なところでは?」

「それは、その時になれば分かりますゆえ、今は頭の隅に留め置いていただくだけで結構です」


諸葛亮が悪戯っぽく笑うので、劉備はそれ以上の追及ができなかった。

とりあえず、差配がいったん終了したので、後は結果を待つだけとなる。


いかに曹操でもここからの逆転は不可能、勝ち戦は、もう確定だろう。

孫呉に渡って、これだけの成果をもたらす軍師を劉備は改めて見つめ直した。

劉備には過ぎた人物かもしれないとさえ、思ってしまうのである。


「何か変な顔していますね」

「俺にもいろいろあるんだよ」

「大丈夫ですよ。全ては大将がいるからこそ、うまく回っているのです」


付き合いが長いせいか、簡雍は変に人の心を読みやがる。

思わず、苦笑いを浮かべる劉備だった。


「それじゃ、俺たちは一旦、夏口に戻ろうか」

諸葛亮からも言われたが、この地に留まる理由は、もうないらしい。

赤壁で燃える真っ赤な炎を背に、劉備たちは居城へと戻るのだった。

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