第144話 曹操の逃走劇
烏林の水上要塞に、呂蒙や周泰、淩統らが突入し、至る所で火をつけて回っている。
ここにいる曹操兵は焼け死ぬか、孫呉の兵に斬られるかの二択しかなかった。
その他の将では、蒋欽と陳武が、貯蔵庫を落とす。曹操が江陵から持ち込んだ食料や物資は、揚州では十年分に相当する量だった。
「これは、曹操のおかげか劉表のおかげか分からないが、我らにとっては非常に助かる」
蒋欽の言葉に陳武も同意する。
揚州では、数年、不作が続いており、食糧については慢性的に不足気味だったからだ。
討った首の数だけなら、十万は優に超えているだろうが、将軍や参謀の首は、まだ見ていなかった。
「曹操め、兵を見捨てて、逃げの一手に出たか」
呂蒙の言葉通り、ここに残っているのは指揮官がいない雑兵ばかりであった。
勿論、これらの者どもを討つのも捕らえるのも、戦としては欠かせぬことだが、数が多いだけに労力も時間も要する。
孫呉の将たちは、思うように曹操を追撃することができなかった。
そんな中、淩統がある将軍が、この場にいないことに気づく。
それは父の仇でもある甘寧だった。
「あの野郎、また、抜け駆けしやがたっな」
「おい、待て」
甘寧一人に手柄は渡さないと、淩統は、呂蒙の制止を振り切って、自分の持ち場を離れて行く。
「まったく、
「ここも
周泰が淩統を弁護した。若さゆえの暴走は、呂蒙にも周泰にも身に覚えがあったからである。
「まぁ、それは構わないが・・・我らの目の届かぬところで、
「・・・それは、大いにあり得るな」
周泰も、その点は不安になった。とはいえ、行ってしまったものは仕方ない。
あまり、深く考えないようにする二人だった。
鼻の利く甘寧は、手勢を率いて曹操を追っていた。
例え、五十万の首を獲ったところで、曹操一人の首には敵わない。
一番の手柄を得る機会があるのを、みすみす見逃す手はないと考えたのだ。
率いる手勢は一千だが、手負いの曹操兵相手には十分。
隙さえつけば、曹操を討ち取る自信が甘寧にはあった。
烏林から脱出できていない曹操を甘寧は、視界に捉えるが、丁度、徐晃の隊と合流したところらしい。兵も予想より多かった。
何より、徐晃の他に許褚と張遼の姿があり、一人で相手にするには、さすがに手に余るように思える。
当初の予定通り、どこかで油断するのを待つことにした。
一定の距離を保ちながら、様子を見ていたのだが、次々と合流する兵が増えていったので、時を逸したかと甘寧は悔しがる。
そこに、「ははは。甘寧、手柄は俺のものだ」と、大声を上げながら淩統が、何も考えずに曹操軍に突進して行った。
それもご丁寧に甘寧の存在を知らせた上で。
「あの馬鹿は、いい加減にしてほしいものだ」
淩統の強襲には、張遼と徐晃の二人が対処しているようである。となると面倒なのは、許褚だけだ。
甘寧は、何とかなるかもしれないと、淩統に続いて突撃する。
ところがその淩統が、徐晃にあっさりと馬上から落とされてしまい、甘寧はたちまち不利となってしまった。
「散々、足を引っ張っておいて、それはないだろう」
もはや、甘寧も退ける状況ではないため、覚悟を決める。
見たところ、張遼の疲労が激しい様子だ。まず、狙いを張遼に定める。
「文遠、無理をしなくて良い。下がれ」
張遼は旗艦から脱出したときから、絶えず曹操の傍らに付き添ってきた。
体力の消耗が一番、激しいことを曹操は知っている。そのため、ここで無理をすると張遼を失ってしまうのではと危惧したのだ。
「公明、文遠を助けよ。殿は別に用意する」
その指示の通り、徐晃が張遼を戦場から連れ出す。その間、甘寧は壁となった曹操兵を斬りまくった。
そして、間もなくして、
この袁家の旧臣たちは、曹操から生きて戻った暁には、将軍職を与えるという約束を受けて、疲れた体に鞭を打っていた。
「体のいい捨て駒だぞ」
「どう思われようと、我らの出世のためには、この道しかない」
曹操は、馬延と張顗に任せて、とっとと逃げ出している。
残された二人は、覚悟を決めた男の顔となっていた。
この二人をただ躱して、追いかけるのは不可能であるため、仕方なく甘寧は相手になることにする。
かつて袁尚配下として権勢をふるった馬延と張顗も、今や曹操の下で、ただの壁扱いだ。
実力の世界とはいえ、悲しい最後である。
二人とも簡単に甘寧の薙刀の餌食となるのだった。
しかし、最後、この場から曹操を逃がすことに成功したのには、多少、面目躍如したといったところだろうか。
ここで、烏林より先の地形に疎い甘寧は追撃を諦めるのだった。
「昔、黄祖以外に仕えていれば、荊州の地形も深く知り得たというのに・・・惜しいことをした」
ひとまず、曹操は孫呉の兵を振り切ることに成功したのである。
「ここは、どこか?」
「烏林の西側でございます」
結構、走って来たと思うが、まだ烏林を抜けていないことに曹操は驚く。
ここら辺、一帯は湿地帯であるため、思うように進めないことは確かだが、もう時は
その間、ずっと走りづめだったのだが・・・
付き従う者たちの様子も疲労困憊といったところ。
少々、休憩を入れた方がいいものか、思い悩む。
曹操は、ふと辺りの地形を眺めてから、突然、笑いだした。
丞相に限って、気がふれたということはないと思うが、周囲は心配のまなざしを向ける。
「いかがされたのですか?」
皆を代表して、荀攸が曹操に話しかけた。その曹操は、左の丘と右の林を指さす。
「兵を伏すのに、このように最適な地形があるというのに、配置していない周瑜と諸葛亮の詰めの甘さが滑稽に感じたまでよ」
「確かに・・・」
荀攸の目にもいかにも、この地形であればと思わせる。
やはり、東南の風という偶然の産物によって、今回は敗れたのであろう。
・・・しかし、曹操には嫌な予感がよぎる。
この戦、鉄鎖の陣、苦肉の計、そして、火計と全て、曹操は裏を取られていた。
であれば、今回も、まだ油断はできない。
そう思っている矢先、『劉』の旗指物が、突然現れた。
率いているのは白銀の鎧を着た武将である。
突然の敵襲に混乱する中、それでも曹操が的確に指示を出した。
「あれは、趙雲だ。公明、
疲れているとはいえ、徐晃と張郃の二人であれば、趙雲に対抗できると判断したのである。
指名を受けた二人は、曹操の逃げ道を確保するために死力を振り絞って、趙雲の前に立ちはだかった。
「趙雲、お前がいくら強かろうが、我らと二対一で勝てると思うな」
「二対一?」
趙雲が首をかしげると、張郃が陳到の一撃で弾き飛ばされる。何とか得物で受け止めて、致命傷を避けたのは、さすがであった。
「子龍殿と比べて華がないのは申し訳ないが、私もいるのですよ」
陳到の参戦で、二対二の戦いとなる。
同数とはいえ、疲れがある分、曹操側が圧倒的に不利だ。
「丞相、お早くお逃げください」
徐晃の叫びを聞くまでもなく、曹操は逃げ出している。
趙雲の強さは、前回、嫌というほど味わっていたからだ。
ここで、討ち倒せる相手とは、初めから思ってはいない。
初動が素早かったせいと、徐晃、張郃の頑張りで、何とか曹操は逃げ出すことに成功した。
これで、ようやく烏林を脱することができたのである。
烏林を抜けると、曹操の目の前には二つの道が口を開けていた。
北の道と南の道。
「どちらの道が江陵に近いのだろうか?」
「南の方が近いと思われます。それに北は山道が続くので、恐らく、兵はついて来られぬかと思われます」
荊州出身の文聘が答えた。
選択肢があるようで、ないこの状況は、あまり好ましくないが致し方ない。
曹操は南夷陵の道を選んだ。
途中、さびれた農村を見かけたので、そちらで食料を強奪する。
少々、手荒になったが、人を思いやる余裕など、今の曹操にあるわけがないのだ。
そのまま進むと、やや開けた平地がひょっこり顔を出す。
文聘曰く、
時も正午近くとなり、兵士たちは、もう虫の息に近い。
ここで、先ほど略奪した食事をとることにした。
現金なもので、食事となれば疲れた体も動き出す。兵士たちは、張りきって炊煙を上げた。
その様子を見ていた曹操だが、思えば五十万いた兵士たちも、今では、五百程度にまで減っている。
何ともまずい戦をしてしまったものだ。
疲れからか、思考が鈍る。ついつい、ぼーっとしてしまう曹操だが、不意に何かが警鐘を鳴らした。
今、見た情景で、何か見落としでもあったか・・・。
曹操は、突然、ハッとする。
「す、炊煙を消せ」
過ちにやっと気付いた。こんなところで煙を上げれば、格好の目印となる。
普段の曹操であれば、すぐ気づいたはずだが、もう手遅れだった。
「曹操、待ちくたびれたぞ」
やって来たのは、猛将・張飛である。
その姿を見たとたん、曹操は、生きた心地がしなかった。
長坂橋では、二十万の大軍を一人で追い返した男だ。
手勢、五百で止められるわけがない。
それでも許褚と張遼が、決死の覚悟で張飛の前に立ち、何とか曹操を逃がすのだった。
ここでも逃げ切った曹操。ついてくるのは、軍師の荀攸と司馬懿、あとは五十人ほどの兵だけとなる。
張飛を振り切った後、しばらく、その他の者の合流を待つが、やって来るのは怪我を負ったものばかり。
まともな戦力にはなりそう者はいなかった。
しかし、悲嘆に暮れてても仕方がない。
曹操は、集まった者たちを何とか鼓舞して、前に進む。
すると、また、二つの分かれ道に差し掛かる。
どちらを進むべきか迷っていると、片方の道から二つの煙が上がっていた。
「あれは、伏兵でしょうか?」
「いや、そう見せかけて、反対の道を通らせたいのかもしれないな」
荀攸、司馬懿、曹操の三人で考え込む。
先ほどから、裏ばかり取られており、何が正解か分からなくなっていた。
「もう分からないが、最初に通るべきと思った道を選ぼう」
そう言うと曹操は、煙が上がっている方の道を選ぶ。
曹操軍が進む道の入り口には立札があり、そこに『
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