第145話 憐憫、華容道

曹操軍の足取りは非常に重かった。

やはり、先ほど葫蘆口で、食事にありつけると期待が膨らんだ中での、張飛の襲撃が効いている。


結局、何も口に入れることはできず、中途半端に食べ物の匂いが鼻腔をくすぐった分だけ、空腹感が増してしまった。

その昔、似たような状況で、近くに梅林があると機転を利かせて、兵を鼓舞させた経験が曹操にはあったが、今はそんな元気も出ない。


「江陵までは、あとどれほどか?」

「この山道、華容道を抜ければ、もう目と鼻の先にございます」


地理に詳しい者が、そう曹操に伝えた。もう一息といったところなのだが、季節は冬。

山道だけあって、雪がちらほらと降り出した。


空腹と寒さ。睡眠不足と相まって、ただ道を歩いているだけでも脱落していく者が、一人、二人と出始める。

曹操がこんなにも極限状態に追い込まれたのは、本当に久しぶりのことだった。

余計なことは、もう考えられない曹操だが、この華容道の雰囲気から、悪い想像がふと湧き上がってくる。


諸葛亮の兵法は、もう認めざるを得なかった。

趙雲、張飛の強襲で生き残れたのは、奇跡に近い。

そして、この華容道に曹操であれば・・・


「やはりか」

曹操が目にしたのは関羽の一軍である。

またもや、行動を読まれて伏兵を配置されていたのだった。


「皆の者・・・」

振り返って、声をかけるが途中で止まる。


関羽の襲来に兵士は全員、腰が砕けて、その場に座り込んでしまったのだ。

これでは、戦にならない。


「こうなれば、致し方ない」

曹操、自ら刀に手をかけた。関羽との一騎打ちに挑もうというのである。


「丞相、お待ち下さい」

すかさず、司馬懿が止めた。どう考えても犬死にしかならない。

それよりも、この場を切る抜ける方法に賭けるべきだと思ったのだ。


「丞相、関羽殿は真に義に篤い男でございます」

「そんなことは、重々、知っている」

「そこで、昔、丞相が関羽殿にかけた恩義にすがってみてはどうでしょうか?」


司馬懿が言っているのは、曹操が徐州を攻めた時、下邳城を守っていた関羽の命を助けたことを言っている。

その後、劉備の消息が知れた際も、いずれ敵対すると知りながら、関羽を劉備の元に送り出していた。


「分かった。戦うよりも、幾分、ましだ。試してみる価値はありそうだな」

曹操は、司馬懿の提案に従うことにする。

簡単な打合せをした後、駒をゆっくりと関羽の方へ進めて行った。


「こうして会うのは、白馬以来か・・・お互い、年を重ねたな」

「曹操殿、ご挨拶、痛み入るが、私も任務でこちらにやって来ている。潔く、首を差出していただきたい」

関羽としては、当然の主張だが、もう少し話を聞いてほしいと、曹操は粘る。


「言っていることは、十分に理解できるが、その前に、昔、君にかけた恩義のことを思い出してほしい」

「それならば、白馬で顔良を斬って、お返ししたはず」

「うむ。確かに・・・だが、劉備の元へ去る君を送り出した私の心情も、いくらかは察してほしい」


自分の言葉に関羽の気持ちが揺らいでいる。そう感じ取った曹操は、司馬懿に合図を送った。

司馬懿は、素早く関羽の前に平伏する。


「何もただでとは申しません。丞相の命を救っていただけるのならば、この場にいる五十名の首、ただちに献上いたします」

司馬懿に倣って、荀攸や一般兵も平伏するのだった。

中には天に祈りを捧げている者までいる。


曹操一人の命を助けるために、五十余名の人間が慈悲を乞うていた。

この様子に関羽は天を仰ぐ。


『この者たちを、私は討てない』

関羽は、何も言わずに赤兎馬を返した。背を向けているうちに、この場を去れという意味である。


「すまない」

その言葉を残して、曹操軍は足早に華容道を走って行った。

関羽は、その後ろ姿すら目で追うこともせず、軍を引き返す。


曹操は、最後にして最大の危機を脱することができた。そして、ようやく江陵城に辿り着いたのは、その日の夕刻のことであった。



戦勝に湧く夏口城。

帰還した趙雲、張飛からの戦果報告に盛り上がっていた。

そこに、手勢を率いた関羽がやって来る。


「おお、関羽将軍、お待ちしていました。ぜひ、我が君にご報告下さい」

諸葛亮が出迎えると、劉備の前まで案内する。

その間、関羽はずっと黙りっぱなしだった。


「趙雲将軍、張飛将軍から敵を討った報告を受けましたが、残念ながら、曹操の首については、まだです。きっと、関羽将軍がお討ちになったのでしょうね」

「いや、そのようなことはない」


関羽のただならぬ雰囲気に、騒いでいた城内が静まり返る。

劉備が心配そうに関羽を見つめた。


「曹操の首を獲れなかったのですか・・・おかしいですね。華容道の辺りでは、もう曹操軍は疲労の限界のはず。関羽将軍率いる精鋭相手に生き残れるとは、到底思えませんが・・・」

関羽は多くを語らないが、諸葛亮の鋭い追及は、まだ続く。


「まぁ、よいでしょう。それでは、とった兵の数はいかほどでしょうか?」

「首は一つもとっていない」

「何と!それでは、曹操軍は華容道に現れなかったのですか?・・・これは、私としたことが」


しかし、そんなことがないことは承知済み。

諸葛亮は、関羽の前を二度三度、往復しながら考え込む。

そして、結論を出した。


「関羽将軍、あなたは曹操に手心を加えましたね」

衝撃の言葉が諸葛亮の口から出たが、関羽は反論しない。

何故なら、まったくその通りだからだ。


「私は戦勝報告に来たのではない。懲罰を受けに来たのだ」

「なるほど。そういう訳ですか・・・では、罰を言い渡します。関羽将軍、あなたを斬首といたします」

斬首と言われても関羽は動じない。その場に座り込むと、潔くその首を前方に差出すのだった。


「曹操を討つことさえできれば、漢王朝を扶けるという我が君の悲願が達成できました。その機会を、自分勝手な判断で逃した罪は重い。よって、斬首が妥当なのです」

「長々と理由を言わずとも死罪にあたることは分かっている。さっさと刑を執行されよ」


目の前の情景に、劉備は唖然とする。

こんなことで関羽がこの世を去る。考えただけで、劉備の思考は固まってしまうのだった。


「大将!」

簡雍の呼びかけがなければ、そのまま呆けていたかもしれない。


「孔明、待ってくれ。雲長の罪は確かに許しがたいが、俺とは桃園結義で生死を誓った仲だ。雲長の死は、俺の死も意味する。どうかこの罪、一時、俺に預からせてくれないか?」

劉備がそう叫ぶと、張飛、趙雲が関羽の横に並んで平伏し、命乞いをした。


「軍師、後生だ。関兄の命だけは勘弁してくれ」

「私からもお願いいたします。この先、曹操が邪魔だと言うのなら、私が討ってきますゆえ、どうかご慈悲を」


すると、他の諸将からも関羽の助命を願う声が飛び交う。

この様子には、さすがに諸葛亮も折れるのだった。


「我が君、それと皆さんが、そこまで言うのであれば、斬首は取り消します。関羽将軍には、しばらく謹慎を命じます」

関羽は、張飛、趙雲に伴われ、下がっていく。


その後ろ姿を見送る諸将は、皆、身を引き締めるのだった。

関羽は、言わずとも知れた武官の筆頭である。その関羽でさえ、軍律に反すれば死罪を命じられるのだ。


誰もが軍律を守ることを肝に銘じる。

異様な雰囲気の中、報告会は終了して、武官、文官は散開した。広間には劉備と諸葛亮、簡雍のみとなる。


「孔明、雲長が曹操を討てないと知っていたのに、死罪はやり過ぎじゃないのか?」

「いえ、軍律の厳しさを理解していただくのに、非常にいい機会となりました。・・・ただ、私も少々、肝を冷やしましたが・・・」


諸葛亮は、劉備が止めに入るのが遅かったことを振り返った。危うく、あのまま斬首を執行するところだったのである。


「まったく、肝心なところで呆けるんだから」

「それは悪い。雲長が死ぬと考えたら、頭が真っ白になっちまった」

「いえ、中途半端なところで止めないでほしいと伝えていた、私の説明が悪かったのかもしれません」


いずれにせよ、簡雍の一言のおかげで、丸く収まってよかった。

赤壁での戦いも、勝利を得ることができ、曹操の野望を一旦は、止めることに成功する。


だが、劉備にとっては、その次が大切になるのだ。

曹操を退けたものの具体的な戦果は、まだ得ていない。


「孔明、次はどうする?」

「はい。曹操の軍勢は、完全に死んでいません。そこで曹操と孫権を噛みあわせて、その間に我らは荊州の南、四郡を取ります」


そんなことができるのかと思うが、諸葛亮が言うのであれば、間違いなくできるのだろう。

そもそも荊州を取ることは、諸葛亮の『天下三分の計』での既定路線。

荊州の地がないと始まらないのだ。


「それじゃあ、また、孫権のところと交渉だな」

「ええ。ただ、もう時代は動き始めています。それほど、難しいことはございません」


諸葛亮は、事も無げに言う。

劉備は、思わず笑ってしまった。


新野を捨てて落ち延びた日、一旦、全てを失ったのだが、ここから逆襲を開始する。

この頼もしい軍師と信頼を置ける家臣たちがいれば、本当になんとなるような気が劉備はするのだ。

どうせ、今は『ぜろ』。何も持ち合わせていなければ、失うものもない。


「それじゃ、ここから劉備伝説の第二章、開始だな」

「第一章があったのを知りませんでしたが、いつ終わったのですか?」


簡雍がからかうので、劉備としてはしまらないのだが、これはいつものこと。

このまま、もう一度、世に出ようと劉備は思う。

黄巾党討伐の義勇兵の頃と比べれば、だいぶ年を取ったが、まだまだ、気持ちは老け込んでいない。


「第一章の終幕は、ついさっきだ。そんなの俺の気分次第だよ」

「はぁ。・・・それじゃ、その伝説とやらは、何章まで続くんでしょうかね?」

「そんなもん、俺が生きている間、ずっとだよ」


簡雍は、「言うと思った」という顔するが、口には出さない。

これまでに劉備が領地を失ったのは、一度や二度ではなかった。


その度に、不屈の精神で立ち上がって来たのである。

それは、これからもずっと続くのだろう。


「でも、正直、疲れるので第三章は、勘弁して下さい」

「ああ、俺もそう思う」


広間の中に静かな笑いが広がった。

劉備が言う第二章は、笑いの中、始まるのだった。

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