第31話 七星宝刀
「んー」
貂蝉が体を伸ばすと、その後、ため息を漏らす。
それは自身の寝台に寝そべっての行為だった。
年頃の娘としては、はしたない姿だが、今は自分にあてがわれた自室の中、多少の気は緩むというもの。
貂蝉が、このような状態となるのには、理由があった。
郿城に来てから十日経つが、まだ、董卓からのお声はかからない。
最初の二、三日は緊張しながら、夜を迎えたがまったく、その予兆すらないのでは、その緊張も大分、解けてしまった。
貂蝉にとって、誤算だったのは、この郿城の後宮には八百人を超える美女が控えていることだった。
単純に計算しても、自分に声がかかるのは二年以上も先の話になる。
『まったく、あの助平親父め』
復讐すべき対象者の好色加減に呆れるのだった。
その間、宴の余興として演舞を披露することはあったが、さすがにその場では董卓を殺すことはできない。
貂蝉が舞う時には、常に呂布が睨みをきかせているのだ。
それにしても、あんなに睨まなくてもいいではないか・・・
自分の演舞を気に入ってくれているのかと勘違いするほど、真剣に見てくる。
『案外、本当にそうかもしれないわね』
楽観的な結論を出すと、そのまま寝入ってしまうのだった。
それから、数日後、ついに貂蝉に声がかかった。
緊張しながら、懐の懐剣を確認する。
それは王允からいただいた名刀『
非力な貂蝉が董卓を殺せるように、切れ味鋭い家宝を王允が託してくれたのだ。
この懐剣ならば、董卓の分厚い脂肪も簡単に切り裂くことができるはず。
「入れ」
指示に従い、貂蝉が董卓の寝所に入ると、入り口で足を止めてしまった。
貂蝉の他にも十人ほど、女性が呼ばれており、壁に寄り添うように立っていたからだ。
『え?』
驚きのあまり、声を出すところだったが、そこは何とかこらえる。
・・・これでは、董卓を殺すことができない。
貂蝉は落胆するが、ある意味、それ以上に、気持ちが萎えることが、この後、待ち構えているのだった。
『私は、何を見せられているの?』
貂蝉以下、十数人の美女は董卓の寝台を囲むように立たされている。
そして、寝台の真ん中では董卓と今宵の寵姫が行為を行っているのだ。
その状況を黙って、延々、見させられている。
『あなた、初めて?そんな顔してちゃだめよ』
嫌な気分が表情に出ていたのか、隣に立っていた美女にたしなめられる。
見るとものすごく綺麗なお姉さんで驚いた。
『すいません。気を付けます』
『いいのよ。慣れない内は、みんなそうだから』
・・・何だが、いい人そうだ。
貂蝉は何とか心を無にして、この時間をやり過ごすことにした。
やっと解放された貂蝉は、新鮮な空気を吸おうと郿城の中庭に出る。
そこには先客がおり、それは練武に励んでいる呂布だった。
一瞬、やり過ごそうと戻りかけたところ、運悪く呂布に見つかってしまう。
「おい、女」
「何でしょう・・・きゃっ」
振り返ると鼻先に方天画戟を向けられているのだった。
・・・あれ?私の演舞を気に入ってくれてたんじゃないの?
貂蝉は、なぜ、自分がこの猛将に武器を向けられているのか、分からず、視線も合わせることができなかった。
「貴様、王允のところの娘だな?」
「・・・そうですが・・それが何か?」
王允の娘だから、脅しつけられるのはおかしい。
何か、他に理由があるはずだが・・・
「なぜ、貴様の舞には殺気が見え隠れするのだ?」
殺気?そんなつもりはなかったが、もしかしたら、董卓を憎むあまり、その気持ちが漏れていたのかも・・・
呂布が真剣に貂蝉の舞を見ていたのは、あくまでも護衛対象を守るための行為だったのだ。
ひどい勘違いをしてしまったと貂蝉は反省する。
とりあえず、今はこの窮地を脱しなくてはならないのだが・・・
「あら、呂布さま。相国さまお気に入りの舞姫をいじめているのかしら?」
そこにやって来たのは、先ほど、董卓の寝室で貂蝉をたしなめたお姉さんだった。
「私は、何度もこの娘の演舞の伴奏についているから、呂布さまの疑問に答えることができるわ」
「ほう、言ってみろ」
月明かりの中、中庭の中央まで、お姉さんが歩いていくと、
「この娘の演舞は、羌族に伝わる戦前に行う舞踏を原型にしているの。だから、呂布さまは無意識に気持ちがたかぶり、そう勘違いをなさったんじゃないかしら」
かすかな光に照らされ、妖艶なたたずまいのこの女性。
妙に貫禄があり、呂布とも対等に話している様子に貂蝉は見とれてしまう。
「ふん。そういうことにしておいてやる」
そう言うと呂布は、方天画戟の矛先を地面に向けた。
「まぁ、こいつの細腕じゃあ、亜父を殺せるとも思えんしな」
そのまま、城の内部へと入って行った。
・・・助かった。
「あの・・ありがとうございます」
「いいえ。私もあなたの演舞が気に入っているの」
そう言えば、伴奏をしてくれていると言ってたが・・・
演舞の時は、董卓や呂布に神経を使っていて、気づかなかった。
「私の名は、
卞とは姓のはず、名は・・・
貂蝉が気になり、質問しようか迷っていると、相手、自ら、
「名は捨てたわ。売られて
何か事情があるのかもしれないが、他人が踏み込んではいけないこともある。
貂蝉は、単なる自己紹介だけにとどめようと思った。
「私は、貂蝉と言います」
「知っているわ」
卞は、手を振って、その場を去る。
貂蝉も遅くなると、明日、起きられなくなる。
急いで、自室へと戻るのだった。
その時、まだ、卞が柱の陰にいることに気づかなかった。
『もし、私の野望を邪魔するようなら、あの娘は・・・』
卞は、恐ろしいほどに冷たい表情で貂蝉の後ろ姿を見送るのだった。
翌日、貂蝉の身に事件が起こる。
王允からいただいた七星宝刀が隠していた棚からなくなっているのだ。
大切なものなので、安易には持ち出してはおらず、隠す場所も忘れないように固定している。
どこかで、失くすということは考えにくいのだ。
昨日は、確かに色々あったが、記憶をどうたどっても、やはりいつもの場所にしまったはず。
あれが董卓の手に渡り、利用目的を勘ぐられた場合、最悪、王允にまで塁が及ぶ可能性がある。
貂蝉は青ざめてしまった。
絶対ないと思うが、念のため中庭を確かめてみようと急いで、部屋を出たとき、女性とぶつかってしまう。
「きゃっ」
「痛い」
相手の女性は転んでしまった。
転んだ女性は、立ち上がると貂蝉を睨む。
「気をつけてちょうだい。私は、これから相国さまとお会いするのよ」
「すいません」
ぶつかったのは貂蝉の方なので、素直に謝る。
しかし、そんなに怒らなくてもと思うほどの剣幕だった。
女性がスタスタと歩いていくのを見送ると、貂蝉は急いで中庭に向かう。
『でも、戸を出てすぐぶつかるなんて・・・私の部屋を覗いていた訳じゃないよね?』
貂蝉は走りながら、先ほどの女性のことが気になるのだった。
そして、数刻後、貂蝉が気にしていた最悪の事態が起こった。
董卓に呼び出され、目の前に七星宝刀を突きつけられるのだった。
「この刀は、お前のもので間違いないな?」
「はい」
貂蝉は、そう詰問されて、素直に答える。
部屋から意図的に持ち出されたのであれば、そこで嘘をついても仕方がない。
「この刀は七星宝刀と言います」
刀身に北斗七星があしらわれており、破邪や鎮護の力が宿るとされている。
刃の輝きは、まさしく星の如く、切れ味は流れ星の尾を切るという伝説もある王允家の家宝。
「この刀を隠し持ち、何をしょうとしていたのだ?」
「そ、それは・・・折を見て、相国さまに献上しようと・・・」
言葉の途中で、貂蝉の目から涙が出てきた。
命惜しさに養父王允よりいただいた家宝を、董卓に差出そうという自分の浅ましさが恥ずかしくなったのだ。
ここは、何としても七星宝刀を取り返し、自身も生き残らなければならない。
貂蝉は覚悟を決めた。
「・・・いえ、・・申し訳ございません。私は、この場を早く切り抜けようと嘘をついてしまいました」
「では、やはり、儂の命を狙ったのだな」
貂蝉は大きくかぶりを振る。
「これは、私が後宮に入る際に、養父が嫁入り道具として私に下さったものです」
「輿入れに刀とは聞いたことがないが?」
董卓の疑いの目は変わらない。貂蝉は平伏しながら、話を続けた。
「無骨な養父をお許しください。養父は娘がおらず、今回が初めてのこと。何を贈ればよいかわからなかったそうにございます」
「それで?」
「もし私が相国さまにご迷惑をかけるようなことがあれば、この刀を持って、自害しなさい。養父もすぐに後を追うから。その覚悟をもって、相国さまにお仕えしなさいと・・・」
そう申しつけられていると、涙ながらに訴える。
貂蝉は、続けて、
「その七星宝刀をお返しください。相国さまに疑念を抱かれ、お手を煩わせた以上、今、養父との約束通り自害いたします」
迫真の演技と貂蝉の気迫に、董卓はやや押された。
先ほどの話が本当ならば、貂蝉が死ぬということは、王允も死ぬということになる。
この間、司空の張温を処刑したばかり、三公に立て続けて死なれては政治の混乱は避けられない。
また、貂蝉の華奢な体では、たとえ七星宝刀をもってしても、自分の命に届くとも思えなかった。
参謀の李儒も先ほどから黙っているということは、この娘のことは大した問題ではないのだろう。
色々と考えた結果、結局、貂蝉を赦すのだった。
「この七星宝刀は返す。ただし、自害はするなよ」
「はい。ありがとうございます」
何とか、この場を切る抜けることができた。
自室に戻ることを許された貂蝉は、汗が噴き出て、動悸も収まらない。
ゆっくりと深呼吸をすることにした。
それにしても今回の件で分かったことが一つある。
それは、誰かが自分を陥れようとしているということだ。
これからは、今まで以上に慎重に行動しなければならない。
貂蝉は七星宝刀を胸に抱いて、そう心に強く決めるのだった。
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