第78話 偽帝の末路

陳国に侵攻した袁術だったが、曹操の軍が許都を出たと聞くと、橋蕤きょうずい李豊りほう梁綱りょうこう楽就がくしゅうの四人を残して、さっさと寿春へと逃げ帰るのだった。

残された四将は十万の兵とともに、陳国苦県こけんで曹操軍を迎え撃つ。


曹操も十万の兵を動員すると、先鋒を楽進、于禁の二人に任せた。

楽進は一番槍で、橋蕤の兵を散々に打ちのめす。とどめは于禁が橋蕤の大将首を取るのだった。


橋蕤が討たれたことにより、及び腰となる三将は、抵抗らしき抵抗もできずに梁綱、楽就と順に討たれていく。

最後に残った李豊が城に立て籠って、ささやかに抗うが、あえなく城は陥落し、最後を迎えるのだった。


陳国を制した曹操は、追撃の手を緩めず、淮水わいすいを渡り寿春に向かう。

曹操が追ってきたと知ると、袁術は匡亭きょうていの戦いの悪夢を思い出した。


あの時は散々、追い回された挙句、荊州南陽郡から逃げ出し、揚州にまで追いやられた。

今度はどこまで追い立てられるというのだろうか・・・

恐怖心にかられた袁術は、宮殿に火をつけると寿春を放棄する。


袁術は一軍を引き連れると、廬江郡の灊山せんざんに陣取る、かつて面倒をみていた配下の雷薄らいはく陳蘭ちんらんを頼ろうとした。

ところが、二人は袁術の受け入れを拒否する。

それどころか、矢を射かけて袁術軍を追い払うのだった。


「何たること。飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこの事」

歯をきしませるが、どうすることもできない。

八方塞がりのこの状況に、閻象が献策した。


「こうなれば、袁紹殿を頼みましょう」

「朕に、あの妾腹に頭を下げよというのか?」


袁術は、そう声を荒げるが付き従う供たちの視線は冷たい。

この現状で、そんなことを言っている場合ではないということだ。


さすがの袁術も、その空気を感じ取ると、「袁紹に使者を出せ」

そう、命じる他になかったのである。


袁術が送った手紙に対する袁紹の返答は、意外に寛大なものだった。

勝者の余裕のようでもあり、それが袁術の癇に障るところではあったが、背に腹は代えられない。

袁紹の返答に従って、行動することにした。


袁紹の手紙には、『長子の袁譚えんたんに迎えさせるので、青州まで来てほしい』とのことだった。

揚州から、青州に向かうには徐州を通る必要があるが、あの地は曹操も併呑したばかり。

防備も薄く行軍に支障はないだろうと、深く考えずに進む。


しかし、曹操が、そんな甘い男のはずもなく、袁術の行く手を遮るように、『劉』の旗が立ち並んでいた。

「前方に劉備軍がいます」

「そんなもの、見ればわかるわ」


物見の報告に悪態をつくが、事態の進展にはつながらない。

青州に向かうためには、ここを通るしかないため、一戦交えるしかないのだが・・・


劉備のもとには、ご存知、関羽、張飛という豪傑がいる。

しかも最近では、その張飛が呂布と千合を越える死闘を演じたことは、世の語り草となっており、袁術の部下たちは見るからに尻込みをしていた。


「誰ぞ、張飛を討ち取れる者はいないのか?」

そう呼びかけても返事がない。

呂布でさえ最終的に倒せなかった相手だ。

配下の武将に闘う気が起きなくても、それは、仕方のないことだった。


「私が、参ります」

遅れて、紀霊が手を挙げる。


必勝を期するというよりは、ただ、覚悟を決めただけの表情に見えた。

先が見えた袁術軍にいるより、武将として潔く散ろうということかもしれない。

相手が、あの張飛であれば、倒されたとしても武士の誉れ。


紀霊の覚悟を決めた男の顔に、張飛も全力をもって応えようとする。

十合ほどの打ち合いの後、紀霊が馬上から落ちて動かなくなると、張飛は、

「紀霊将軍、しびれたぜ」と、賛辞を送った。


紀霊の後には、もう対抗しようとする者は袁術軍に現れない。

張飛の強さを目の当たりにした袁術も、呼びかけるのを止めるのだった。


「ここは引き返しましょう」

「引き返す?徐州さえ抜ければ、もう袁紹領ではないか・・・」


やる事なす事うまくいかない。

とはいえ、いつまでもここに留まっているわけにもいかず、袁術は閻象の言葉に従う。

来た道を逆戻りするのだった。


「くそ、くそ、くそ。公孫瓚の使い走りに邪魔されるとは・・・」

昔は、同盟相手の公孫瓚の下にいた劉備。

よりにもよって、あごで使うことができた相手のために、惨めに引き返すとことになるとは・・・

袁術は悔しさでおかしくなりそうになった。


遠く、離れていく袁術軍を見て、ともに派遣された朱霊が劉備に話しかけてくる。

「このまま、見送るだけで、よろしいのですか?」

「下手に刺激して、窮鼠になられても面倒だ。どうせ、あの様子だと、自然に滅びていくよ」

「はっ、承知しました」


生真面目に受け答えする朱霊に、劉備は好感を持つと、簡雍に、「これだよ」と指さす。

「大将と長く付き合うと、自然と私のようになるのですよ」

「まぁ、そういう事にしておいてやる」


劉備は、袁術が再び徐州に入って来ないようにしばらく、下邳国に駐屯することに決める。

一方、朱霊の方は、曹操に報告に行くと言って、この地で別れることになった。

「それでは、曹司空によろしくお伝えください」

「ええ。劉皇叔もお気をつけて」


朱霊は劉備のお目付け役も兼ねていたはずだが、こんな簡単に離れていいのだろうか?

「心配しなくても下邳城の城主に引き継ぎするはずですよ」

「やっぱりね」


まぁ、劉備としては、どちらでも構わない。

ともかく今は、与えられた役割だけをこなそうと思うのだった。



袁術は、劉備に行く手を阻まれると、寿春を目指すことにした。

自身で宮殿を焼いたため、戻ったところで何もないのだが、他に行くあてがないのだ。

夏の始まり、炎天下での希望がない行軍。

次第に袁術の気力、体力が奪われていく。


寿春まで、あと少し、江亭こうていという地で一休みしているとき、炊事係の者から、麦のくずが残り三十石ばかりだという報告が入る。


袁術は、はじめこの炊事係の頭がおかしくなったのだと思った。

この仲国の皇帝たる自分の軍の兵糧が、僅かにそれだけのはずがないではないか。


食糧などは、付近の住民どもが我先と献上してくるもの。

逆に持ち運ぶのに困難となるのが、本来の姿なのだ。


「おい、ちゃんと確認しろ。見忘れている車があるだろ」

「いいえ、ございません」


何と強情な男なのか。

しかし、熱さと疲労でおかしくなった者の相手など、まともにすべきではない。

「どれ、それでは朕、自ら確認してやる。案内せよ」


袁術は、従兄弟の袁胤えんいんを伴って、炊事係の男に案内させる。

歩いている途中、袁胤の口数が少ないのが気になったが、従兄弟も疲れているのだろうとしか思わなかった。


「それで、どこじゃ。食料を積んだ車は?」

「目の前にございます」

「目の前?」


袁術の目の前には、何も積んでいない空の荷車しかない。

やはり、この炊事係は、もう駄目だ。

「おい、話にならん。誰かまともな奴はおらんのか?」

「陛下、どうぞ、気持ちを落ち着けて下さい」


袁胤がたしなめるが、袁術は、ずっと落ち着いている。

何を血迷ったことを言っているのだ。


「もういい。それでは、朕は蜂蜜が飲みたい。早く、用意しろ」

「そのような物、あるわけがないでしょう」

「朕に向かって、何たる口の利き方。暑さでやられたと思い、寛容にしてやっていたが許さんぞ」


袁術が、一人気色ばむが、周囲の者たちは、誰もこの無礼者を始末しようとしない。

なぜ、誰も言うことを聞かない?

「陛下、お気を確かに。この者の言う通り、我らの食糧は、もう底をついたのです」

「お前まで、何を言うのか?」


袁胤までおかしなことを言い出すとは、困ったものだ・・・

そう思いながら、閻象に視線を送ると顔を伏せる。

違和感を覚えて、袁術は周りを見回すと、自分に向けられる視線がいつも違うことに気づいた。


「どうしたのじゃ、皆の者。暑さでまいったか?」

袁術の問いかけに、誰も答える者はいなかった。


・・・おかしい。何かがおかしいぞ。みんな暑さで?

一人、取り残されたと感じた袁術は、その場に座り込んでしまう。

すると、目の中に布を被せ荷が山積みとなっている車が飛び込んできた。


「何だ、やはりあるではないか」

袁術が駆け出して、その布を取ると、それは食料ではなく、袁術が贅沢で集めた珍品、宝石の類が山のように積まれているだけだった。


これらをもし売ることができたら、少しは違ったのだが、袁術の怒りを買うため、誰も手出しをしていない。

『これは、食糧ではない?それでは、先ほどの荷車が本当に・・・』


自身の思い違いにやっと気づいた袁術は、皆の視線を思い出す。

『本当にないのか?だから、朕のことをあのような目で・・・』


周りの者がおかしくなったとばかり思っていたが、逆に袁術の方が気がふれたと思われていたのだ。

だから、袁胤は先ほどから、気持ちを落ち着けろと・・・


何たること、何たることか。

「・・・では、本当に蜂蜜はおろか、何もないのだな?」

「ございません」


四世三公を輩出した汝南袁氏の嫡流たる自分が、望む物が手に入らない?

そんなことがあってたまるか。

しかし、袁術の目の前には無惨な現実がある。


袁術は、怒りが込み上げてくると同時に、胸の辺りが急に苦しくなった。

「この袁術ともあろうものが、このような様になるとは!」

そう叫ぶと、口から大量の血を吐き出す。


そして、地に伏すと、そのまま息をひきとるのだった。

輝かしい将来を嘱望された名門袁家の御曹司。

その男の哀れな末路であった。

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