第172話 楊阜の覚悟
冀城に入ると、馬超はすぐに韋康を捕らえ、牢にぶち込んだ。
大将首、一つで城内の者たちを不問にすると宣言したのである。
これには龐徳も反対していたのだが、けじめは必要だと馬超が譲らなかったのだ。
馬超の言い分も分かるが、冀城には韋康を慕う者が多い。
その者たちを上手に使うには、韋康は生かしておいた方が何かと都合がいいのだ。
この決断に思い至った背景には、馬超の中に慢心があったのかもしれない。
自身が涼州で絶大な支持を得ているがゆえに、韋康さえいなくなれば、全員が自分になびくと勘違いしていたのだ。
いずれにせよ、韋康処刑の件が悪い方向に進まねばいいがと龐徳が心配する。
冀城内に一歩、足を踏み込んだときから感じる
あの時の何とも言えぬ感覚と重なって、嫌な予感が膨れ上がるのだった。
龐徳の心配事は他にもある。
それは主君、馬超の変化であった。
あの渭水の戦い以降、正確に言えば、曹操の離間の計に嵌って以来、馬超が人を人と思わなくなった節がある。
特に涼州では、盲目的に馬超に付き従う者が多い。
それらの者たちを、単なる駒としか見ていないのではないかと思うほど、冷たい視線を送るのだ。
長年仕えた龐徳ですら、ぞっとすることが、時折ある。
よもや、人としての感情が壊れてしまったのではないかと心配になるのだ。
馬岱に確認すると、そんなことはないと言う。
それは、血のつながった親族とそれ以外の違いによるものだろうか?
龐徳の心の中に秋風のようなものが、吹きこまれるのだった。
馬超が冀城を占拠した翌日、宣言通り、韋康の処刑が執り行われた。
韋康の臣たちは、遠くから、主君の最後を見届けると悔しさに涙する。
結局は、誰のせいでもなく自分たちの力のなさが招いた結果なのだ。
力ある者の行動を責めるのは、ただの責任転嫁にしかならない。
しかし、これで打倒馬超の想いで、旧韋康の臣たちの気持ちを一致させた。
冀城は陥落したが、馬超に対して、完全に兜を脱いだわけではない。
そんな韋康の旧臣たちの取り扱いについて、馬超もどうすればいいか迷う部分があった。
処刑の状況から、まだ自分に心服していないことは、見て取れる。
だが、韋康以外は不問にすると言った手前、無用な残虐はできれば避けたいのだ。
そこで、一計を案じ、龐徳に相談する。
「冀城の者たちから、人質を預かりたいのだが、どう思う?」
「そうですね。落ち着くまでは、致し方ないでしょう」
けして最高の策ではないが、現状、打てる最良の策のように龐徳も思えた。
但し、世の中には人質が通用しない者もいる。
もっとも、そのことは、何より馬超自身がよく分かっていることだろう。
龐徳は、あえてその件には触れなかった。
韋康の旧臣たちは、優秀な者が多い。
できることならば、全員取り込みたいがところだが、無理ならば、放逐することも考えるべきだ。
そのことを馬超に告げると、「その時は、殺すさ」と、凄むでもなく普通のことのように話す。
やはり、何かが変わってきてしまった。
昔の馬超は、もういないのかもしれない。
龐徳が黙っている中、人質の手配の話が進んでいった。
冀城内のことが、一応、片付くと今度は、長安の夏侯淵対応に話題が変わる。
思いのほか、梁興が頑張っており、まだ、馬超に手を回す余裕はないようだ。
この隙に、他の支城も落としておこうという話になる。
余計なことを考えたくない龐徳は、勢力拡大と地盤を強固にするため馬超の意見に賛同した。
今は、戦場に身を置いている方が、心が休まるのである。
人質の要求に、趙昂は悩んだ末、長男の
妻の王異からも、今は馬超からの信用を得るときだと、後押しされたことも大きい。
しかし、まだ足りないとも、王異は付け加えた。
韋康の仇を取り、涼州の地を取り戻すためには、もっと深く馬超の元へ入り込まなければならない。
「馬超は、私たちを信用できないから人質を取りました。言われただけのことをしている内は、あの男の信を得て、油断を誘うことはできません」
「では、どうすれば、いいと思う?」
「私が馬超の妻に近づいてみます。そこから、信頼を勝ち得ようと思います」
馬超の妻は
乱世に生きる妻同士。話を合わせることは、容易いと王異は考える。
そして、その機会はすぐにやって来た。
馬超の方でも趙昂の動向を探るために、
馬超の屋敷に招かれた王異の楊氏に対する第一印象は、『凡庸』だった。
こんな女性で、よくあの狂気の塊りとも思える男の妻が務まるのか不思議に思う。
しかし、話してみると、なるほどと納得する部分は、やはりあった。
この女性、何でも素直に受け入れるのである。
恐らく、馬超は一緒にいて、非常に楽なのだろう。
だが、そういう性分であれば、王異は与しやすいと考えた。
「
「まぁ、王異さんは博識ですのね。うちの人に話しておきますわ」
楊氏は、拍子抜けするほど王異の言うことを真に受ける。
これならば、古の例えなど必要なかったかもしれないと、逆に気合を入れ過ぎていた自分が恥ずかしくなった。
夫人同士、二人の話合いは終始、友好的に終わる。
結果、楊氏の口添えがあってか、趙昂、楊阜、
これで、第一段階を上手く突破するのである。
その後、彼ら三人と王異を含めた四人で、馬超打倒の密談を重ねるが、冀城内だけではなく、外にも味方がほしいという結論となった。
確かに城内では、馬超子飼いの者たちが目を光らせており、満足に兵を集めることもできない。
ただ、今であれば、城の外に出るだけでも怪しまれてしまう。城外に出るには、それなりの理由が必要なのだ。
折角、苦労して信用を得たというのに、ここで疑われては全てが水泡に帰す。
皆で頭を悩ませていると、突然、楊阜が立ち上がった。
「私の覚悟を見せるときがきた」
密談は楊阜の屋敷で行われていたのだが、席を外した楊阜が戻って来たとき、一堂、声を上げそうになる。
何と楊阜は、物言わなくなった自分の妻を抱えて来たのだ。
「妻の葬儀のため、親族に会いに行くと言えば、馬超も疑うまい」
その理由であれば、さすがに馬超も認めると思われる。
しかし、その前に三人には、確認すべきことがあったのだが・・・
大粒の涙を流しながら、話す楊阜を前にすると何も言えなくなった。
ただ、これで馬超への復讐を果たさなければならない理由が増えたと、心に刻むのである。
王異から楊氏への根回しもあり、楊阜に冀城から出る許可が下りた。
早速、親族の
姜叙の屋敷に着き、妻の訃報の件を伝えた。また、それとは別に冀城の現状を涙ながら、姜叙と姜叙の母親に語る。
「冀城は悪漢に落とされ、主君もその男の手にかかりました。仇を討つ志はあっても力が足りません。こんな無念なことはない」
その話を聞いた姜叙の母親は、いたく楊阜に肩入れした。息子の姜叙にも手伝うよう指示するのである。
姜叙自身も馬超に対して、思うところがあったようで、喜んで承諾するのだった。
だが、馬超の戦闘能力が並外れていることは、誰もが知っている。
姜叙だけでは、宿願達成とはいかないことは、姜叙の母親も理解していた。
「こんな時のためにも人に世話はしておくもんだねぇ」
実は姜叙の母親は歴城では、ちょっとした有名な烈女で、宿をなくしたり、飯が食べられなくなった無頼漢たちの世話していたことがあった。
それはもう昔のことなのだが、中には出世して役人になった者たちが数人いる。
その者たちに片っ端から声をかければ、協力に名乗りを上げてくれる者が、きっといるというのだ。
その話を聞いて、楊阜は喜び、姜叙の母親に連絡を頼み込む。
「任せておきな」
早速、姜叙の母親は、その者たちへの手紙をしたためる。
返信はすぐあり、一族の
また、何より心強いのは
これだけの強者たちが揃えば、いかに馬超といえど抗するのは不可能だろう。
大きな戦力を得た楊阜は、趙昂らと語らって、反抗の機を窺うのだった。
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