第171話 馬超の再起

涼州に戻った馬超は、隴上ろうじょう地域で羌族の支援を受けて、再起を図った。

すると、次第に馬超の元には人が集まりだし、瞬く間に兵力は回復する。


やはり、西涼の錦・馬超の名前は、涼州では絶大だった。

まさに神格化している感がある。


馬超が再び立ったという情報だけで、付近の郡や県は次々に傘下に収まっていった。

勢いに乗った馬超は、その後も勢力を広げていく。但し、ただ一人だけ、敢然と立ち向かった男がいた。


それは、涼州刺史の韋康いこうである。

韋康は、配下の趙昂ちょうこう楊阜ようふらの𠮟咤激励を受けて、漢陽郡かんようぐん冀城きじょうで踏ん張った。

周囲の城が馬超の支配を受けることになっても、刺史の意地を見せるのである。


しかし、馬超が張魯に援軍を頼み、漢中から五千の兵を率いた楊昂が到着したのを機に、城内では降伏論が語られ始めるのだった。

そして、城論が降伏に傾きかけた時、趙昂の妻である女傑・王異おういが激しく反論する。


「たった一城で解決なさろうとするから、無理があるのです。ここは、長安に使者を出して、援軍を求められるのが最良です」


王異は女性とはいえ、自ら弓を持ち、これまで何人もの馬超兵を討っている。

夫の趙昂が韋康から、重く用いられていることもあり、その発言権は冀城内において、大きかった。

また、言っていることも概ね正しい。


長安に援軍を求めるというのは、現状を打破するための最善策だった。

ただ、大軍に囲まれたこの状況の中、どうやって長安まで援軍を頼みに行くかが、一番の問題として残る。


「私がこの囲みを突破します」

「いや、止めてくれ」


王異の提案をすぐに趙昂が止めた。城郭の上から弓を撃つくらいならいいが、そのような危険な任務を妻にさせるわけにはいかない。

趙昂の妻であるのと同時に一児の母親でもあった。もし何かあったら、子供に顔向けができない。


「王異殿、あんまり旦那さんをいじめるもんじゃない。私が行こう」

そう言って、名乗り上げたのは、閻温えんおんだった。


閻温は上邽県じょうけいけんの県令を、ついこの間まで務めていたのだが、実はその上邽県が馬超復権の始まりの地だったのである。

しかも、彼の任期中に起こり、冀城県に避難してきた経緯から、責任を感じていたのだ。


「しかし、どうやって、この囲みを突破しようというのです?」

「冀城の北は、川に阻まれ城攻めの兵を配置していない。ゆえに私は、夜中、こっそり水中から城外に出ようと思う」


趙昂の問いに、水練には自信があると付け加えると、改めて韋康から、使者の任を受ける。

冀城内の者たちの運命は、閻温に託されることとなった。


作戦は、すぐに実行され、当日の夜中、閻温は一人で、川に身を投じる。

目立たぬように城郭から見守っていた韋康たちは、彼の無事を祈るのだった。


だが、その祈りも虚しく、翌日、哨戒に回っていた馬超の兵に不審な足跡を見つけられる。

その痕跡は、北の方角へ向かっており、そちらの警戒を強めると、ほどなくして顕親県けんしんけんの県境で一人の男が網に引っ掛かった。


身元を調べるとかつての上邽県県令・閻温と分かり、馬超の前に引っ立てられる。

それまでの取り調べが厳しかったのか、閻温の衣服はずたぼろのようになり、体中にはいくつもの痣が見られた。

それでも、目に力を失っていないところを見て、馬超はこの男が使えると判断する。


「所持品を検めると、長安に救援を求めようとしていたようだが、無駄なことに時間を費やしたものだな」

「無駄ではない。援軍を恐れているから、こうして私を取り押さえたのであろう」


閻温の言葉を馬超は鼻で笑った。

今、長安の夏侯淵は、関中十部の一人だった梁興の討伐にかかり切りになっている。すぐに動ける状態ではないのだ。


その情報を馬超は掴んでいるため、無駄なことと言ったのだが、どうやら、冀城の中には伝わっていないらしい。

わざわざ教えてやる必要もない馬超は、その件には触れず、閻温にある提案を話した。


「お前以外の上邽県の者は俺に従っている。そこで、お前にも一度だけ、考えを改める機会を与えてやろう」

「それは、どういうことだ?」

「冀城に戻って、俺の言う通りのことをしてほしい」


馬超が閻温に伝えたのは、長安の夏侯淵に援軍を断られたと触れ回ることである。

実際、夏侯淵はすぐに動けないのだが、時間が経てば救援に来るかもしれなかった。変に希望を与えて粘られるより、絶対に来ないとした方が戦が早く終わると考えたのである。


「簡単なことだろう。それだけで、お前は命が助かるんだ」

閻温は、馬超の誘いに乗ったふりをして考え込んだ。ここまでして、城内の士気を挫きたいのは、長安からの援軍を本当に恐れているのだろう。


もし、ここで自分が長安に辿り着けないとしても、優秀な曹操軍のこと、きっと涼州の異変に気付くはずだ。

ならば、今、私がすることは・・・


「承知しました。馬超将軍の言葉、しかと城内の者に伝えましょう」

閻温は馬超に従う振りをして、冀城へと戻ることにした。



救援を求める使者として出発した閻温が、冀城に戻ったのは、その二日後のこと。

その姿は、あまりにも変わり果てており、冀城から見守る韋康らは、思わず息を飲んだ。

その中、馬超がまず、城内に話しかける。


「冀城城内の者たちよ。お前たちに希望はない。そのことを、今、この男の口から直接、伝える」

閻温は馬超の横に立たされると、猿ぐつわを解かれた。


手は後ろに縛られたままだが、その状態で馬超に発言を促される。

閻温は、一度、馬超を見ると不敵な笑みを浮かべて、大きく息を吸い、力の限り叫んだ。


「援軍は、三日のうちにやって来る。我らは、助かるぞ」

「なっ」


馬超は唖然とし、冀城からは、一拍おいて大歓声が生まれる。

沈んでいた士気が一気に高まったのだ。


そうなると城内から、馬超に対する罵詈雑言が飛び交うまで、元気が回復する。さっきまでの沈んだ空気が嘘のようだった。

悪口に腹を立てたというわけではないが、馬超は約束を反故にした閻温を、その槍で突き刺す。


この凶事を目撃した冀城の人々は、ますます馬超への憎しみを増幅させた。

ここに相容れない軋轢が生じるのである。


馬超は、閻温の死体を片付けさせると、幾分、冷静さを取り戻した。

『まぁいい。希望を持ったがゆえに現実を知ったとき、その反動はより大きくなるだろうさ』


絶対的に優位であることを馬超は知っていた。閻温の発言が、かえって自分たちに有利に働くと予想したのである。

まさしくその予想は的中するのだった。


当初、三日を過ぎても援軍が現れないことに、そういうこともあるだろうと考えていた冀城の人々も、それが、十日、ひと月と過ぎていくうちに、疑心が生まれ出す。

それが、三か月も過ぎれば、希望が失望に変わり、八か月過ぎた頃には絶望に変わっていた。


閻温の読みは間違っていなく、夏侯淵は冀城の変事には気付いている。しかし、梁興が意外としぶとく、なかなか征伐できないでいたのだ。

それでも、一応、一度は援軍を出したのだが、僅かな兵しか送れず、馬超に撃退されていたのである。


ここに至って、刺史の韋康は苦渋の決断をしなければならなかった。

兵糧も尽き始め、城内の民衆は苦しんでいる。

自分が辛い目に合うことは厭わないが、民が困窮することだけは看過できない。


「もう仕方がない。馬超に降伏しようと思う」

そう打ち明けられた趙昂と楊阜は、必死に諫めるが韋康の決断を覆すことができなかった。

韋康がいかに苦渋の選択をとったかも理解できるため、言葉に力が足りなかったせいかもしれない。


趙昂は、家に帰り、この日、出仕していなかった妻の王異に重大事項を打ち明けた。

すると、王異は趙昂にすがって、韋康に翻意を促すよう求めたのである。


「夏侯淵将軍が近くまで来ている可能性は、まだあります。主君が迷われた時、正しく導くのが臣下の勤めではありませんか?」

妻の意見を聞いた趙昂は、もう一度だけ、韋康と話し合ってみようと考え直した。


すぐに謁見を求めたが、一足遅く、すでに降伏に使者を送った後だと言う。

「もう、何も申すな」

韋康の言葉に頷くしかない趙昂は、重たい足取りに帰路についた。


馬超がこの城内に入る。

改めて、そう考えると不安がどんどん膨らんでいくのだった。

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