第53話 逃亡
長安から脱出した献帝は、僅かな供と一緒に洛陽を目指していた。
やはり漢の都は洛陽であり、自分の生まれた故郷を捨てられなかったのだ。
張済が長安に入り、李傕、郭汜二人の争いに介入したとき、監視の目が僅かに緩んだ。
その隙をついて、長安の街から出られたのは
今、献帝と一緒に行動しているのは、
これでは、野党の類に出会っただけでも一巻の終わりである。
しかし、長安には信用のおける武官がいなかったため、仕方がなかったのだ。
それでも何とか、
覇陵県の近くに流れる小川の近くで、献帝一行が一休みしていると、砂塵が近づいてくるのが見えた。
「陛下、李傕、郭汜の追手かもしれません。お隠れになって下さい」
伏完の言葉に献帝は、身を隠せそうな場所を探すが、川以外、何もない原野。
それは無理な話だった。
「こうなっては仕方がない。運命に身を任せよう」
献帝は、そのまま、近づく一隊の到着を待った。
「献帝陛下でいらっしゃいますか?」
下馬して、挨拶にきたのは李傕、郭汜ではなく、その部下、いや元部下であった
楊奉は、李傕に反旗を翻したが、途中で露見してしまい返り討ちにあった。
そのため、長安から逃げ延びてきたところ、献帝陛下の噂を聞いて、追ってきたのだという。
「その方の目的は何だ?私を長安に連れ戻すつもりか?」
「いえ、李傕とは完全に決別しております。これからは陛下の護衛として洛陽を目指したいと考えています」
その言葉をそのまま信じていいものか、献帝も判断に迷う。
本人には、申し訳ないが、どう見ても楊奉の行動や言動からは、忠義の士には見えなかったからだ。
李傕と袂を分かった理由は、李傕が占いや祈祷に傾倒するようになり、その巫女を政治、軍事の相談相手にしたからだという。
その結果、自分たち武官がないがしろにされていったことによる不満だった。
最終的には、李傕が大司馬に昇格した際に、巫女には恩賞があったが、自分たちには何もなかったのが決定的だったらしい。
要は、報酬がもらえなかったことによる喧嘩別れである。
行動原理が、あまりにも利己的に感じるのだ。
もっとも恩賞の件は、楊奉だけではなく、そのせいで羌族や胡人も離れていったようなので、本当に相当、ひどい待遇だったのかもしれないが・・・
献帝が判断に迷っていると、また、別の一団が近づいてきた。
掲げている旗を見ると、今度こそ郭汜軍のようである。
「あれは、
郭汜の配下、伍習が献帝を取り戻すために長安から追ってきたのだ。
楊奉は、献帝の信頼を得るために、張りきって、部下の
李傕に敗れたと聞いていたが、楊奉の手勢は、十分頼りになることだけは分かった。
李傕、郭汜と敵対していることも証明されたので、献帝は楊奉に洛陽までの護衛を頼むことにする。
楊奉は喜び勇んで、献帝一行を誘導するのだった。
今まで文官ばかりだったので、一気に頼もしさは増える。
ただし、郭汜軍に一度、見つかった以上、これからも追撃の軍はやって来ると考えた方がいい。
洛陽までの道のりは、まだ、半分以上残っているため、行軍を急ぐ必要が生じた。
楊奉が加わってからは、野盗に対する心配がなくなったため、周囲への警戒も最低限で済む。
今までよりも行軍の速度が増し、同じ日数で倍以上の距離を進むことができた。
ところが、
三軍の連合に対して、さすがに楊奉の一隊だけでは対抗できず、まともに戦うのは避けて、献帝を守りながら東の
楊奉には、何か秘策があるようだった。
献帝を守りながらの逃走劇。その際、護衛についた徐晃は愛用している大斧を振るって、敵を屠っていく。
ようやく陝県につく頃、楊奉は部下を使いに出した。
近くに昔の馴染みがいるらしい。どうやら、援軍を頼むようだ。
献帝は、楊奉の馴染みと聞いて、嫌な予感がする。
楊奉はその昔、黄巾の残党たちと
恐らく、その連中と連絡をとろうとしているのだろうと読み取れる。
しかし、この状況を打開するためには、背に腹は代えられないのも事実。
献帝は援軍であれば、賊であろうと受け入れようと腹をくくるのだった。
もしかしたら、改心している可能性だってある。
楊奉が出した使いは、思惑通り、白波賊を率いて戻ってきた。
追撃していた李傕、郭汜、張済軍の間延びした横っ腹に白波賊が突っ込んできたため、軍が分断されてしまった。
分断された前軍の方に、楊奉、楊定は集中して攻撃し、全滅させる。
この思わぬ敵兵の出現に、たまらず李傕、郭汜、張済は兵を退かせるのだった。
楊奉の秘策がはまり、白波賊によって見事、撃退したのである。
その後、白波賊を代表して挨拶に来たのは、
献帝は、この三人に洛陽についたあかつきには、賊として働いた悪事を帳消しにし、必ず恩賞を与えると喜ばせる。
白波賊も加えた献帝一行は、その後も長安からの追撃を受けるが、その度に何とか撃退していく。
敵を倒すたびに功は増えていき、洛陽近くの
気に入らない文官がいると、献帝の前だろうと構わず、その者を罵り足蹴にする。
見るに見かねた献帝が注意すると、「分かりました」と、引き下がるのだが、納得していない表情を隠そうともしなかった。
やはり、白波賊は信用できないと判断した献帝は、ある決断をする。
これまで、ともに行軍してきた中で様子を見ていたところ、信を置けそうな者は、徐晃のみだった。
その徐晃をある夜、献帝は呼び出した。
「徐晃殿、そなたを真の勇者と見込んで打ち明ける」
「何で、ございましょうか?」
これまで、天子と直接、話したことなどないため、徐晃には緊張の表情が見られる。しかも、真の勇者と呼んでくださっていることに形容しがたいほどの高揚した気分となった。
「朕は、これからこの軍を離れて、心許せるものだけで洛陽を目指そうと思う」
「それがようございます。奴らの行動は目に余ります」
「そなたの主筋も裏切ることになるが・・・」
献帝は白波賊だけではなく、やはり楊奉も信用できなかったのだ。
徐晃も楊奉に部下として仕えていたが、目先のことしか考えていない上司に嫌気がさしていた。
「それがしは、漢の臣でございます。お気になされずとも結構でございます」
「そう言ってもらえると、非常に心強い」
献帝は徐晃の手をとり、感謝する。
「それで、どのようにしてここから離れますか?」
「この先の川に船を何艘か用意している。その船に乗って、洛陽近くまでめざす」
「それがしは?」
徐晃は自身の役割を確認した。
すると、献帝は、
「徐晃殿は危険だが、しんがりを頼みたい。朕以外の者もすべて乗り終えるまで、楊奉らの追撃を抑えてほしいのだ」
一人で一軍を相手にしろというのだ。
聞きようによっては、死ねと言われているようなものだが、頼まれた相手が献帝陛下とあっては、戦士冥利に尽きる。
「喜んで引き受けましょう」
徐晃は、胸をはって承知する。
この作戦は、早速、実行され、楊奉らに気づかれないように、献帝たちは川の方へと移動した。
しかし、さすがに見つからずに逃げ出すことは不可能で、文官たちが船に乗っている途中で、楊奉たちに追いつかれる。
「献帝陛下、このような夜更けにどちらに行かれる?」
「洛陽じゃ。朕たちは、我らだけ行くことにする」
「それは、なりませぬと申したら?」
楊奉が迫るところに徐晃が立ちふさがった。
皆が船に乗るまでの時間稼ぎをしなければならない。
「退けろ。だいだい、何でお前、一人が陛下と一緒にいるのだ?」
「退かぬ。陛下をお守りするのがそれがしの役目」
「俺を裏切るのか?後悔するなよ」
楊奉は、徐晃が天子側についたことを、確認すると手勢を仕向ける。
向かってくる敵に対して、徐晃は自慢の大斧を振りかざすと、軽く三、四人の首を一撃で飛ばした。
「楊奉、お前がかかってきたらどうだ」
徐晃の挑発に、楊奉は怒りを覚えるが、相手の強さを知っているだけに自分で闘おうとは思わなかった。
楊奉に視線を送っている徐晃の隙をついて、胡才が飛びかかっていったが、あっさり返り討ちにされる。
「徐晃殿、全員、無事に乗った。船に飛び乗られよ」
伏完が徐晃に声をかけるが、首を振った。
「いや、矢で射かけられればお終いです。それがしが最後まで引き留めるので、ご安心を」
その言葉に献帝は涙を浮かべて感謝した。
「すまない。徐晃殿。洛陽の地で待っておるぞ」
献帝の目には、頷いた徐晃が楊奉の一軍に、一人で飛び込んでいく姿が見えた。
船のへりを掴む献帝の手に力がこもる。
この忠臣のためにも、なんとしても洛陽に辿り着かなければならない。
献帝は、そう誓うのだった。
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