第189話 鳳雛、堕つ

雒城へ向かっての途上、通過してる土地の名前が、『落鳳坡らくほうは』と聞いた龐統は、その名称に冷や汗が流れる思いをした。


それは、自身の道号、鳳雛に起因する。

偶然とはいえ、あまりにも不吉な一致であった。


『そんないかにもって地名で、亡くなっちまったら、孔明ちゃんに笑われるなぁ』


龐統は、諸葛亮のことを思い出すと冷静さを取り戻し、一笑にふす。

今の状況は、龐統の策がはまり、自軍に有利な状態。


根拠のないことに不安を抱く必要など、全くないのだ。

何も考えずに、このまま、雒城まで進めばいい。


実際、焦っているのは、張任の方だった。

劉備の所在が分からない以上、手が出せずにいる。

このまま、指をくわえて見ているしかないかと思われた時だった。馬相に詳しい男より、報告を受ける。


「中団にいる芦毛の馬こそ、的盧です」

「まことか」


指さす馬を全員で見るが、騎乗している人物が劉備かどうかまでは、判断つかなかった。

しかも周りで警護する騎兵の盾は、完全に射線を切っている。

これでは、矢を撃ったところで・・・


しかし、黙って見過ごすわけにもいかず、とりあえず注目している人物に、矢を放てと号令をかけるのだった。

的盧に向かって、毒矢の雨が降り注がれる。



雒城の西門に到着した劉備は、東門に来るはずの龐統を待った。

ところが、なかなか現れないのに、不安を募らせる。


龐統の影武者作戦のおかげで、劉備は難を逃れることができたが、もしや北回りの軍に異変が起きたのではないかと心配したのだ。

その不安が膨らみ、破裂する直前、北回り軍の姿が見えてホッとする。


劉備は、すぐに龐統の元へ駆けつけた。

すると、龐統の告白に驚く。


「申し訳ない。殿の的盧が矢に当たり、死なせてしまった」

実は出発前、どの芦毛に乗っても同じならば、一度、的盧のような名馬に乗ってみたいと龐統に言われて、劉備と馬の交換をしていたのだ。


その的盧を失ったことを謝罪する龐統だが、そんなことは劉備にとって、些末な事。

龐統の身の方が何より大切なのだ。


「そんなことはどうでもいい。士元、お前は大丈夫なのか?」

「ご覧の通りですよ」


その言葉を聞いて劉備は、安心する。

但し、あまりにも龐統に注目していたばかりに、この時の黄忠と法正の表情が暗いことを見落としていた。

劉備は、そのことを後で後悔するが、これも悲しい運命だったのかもしれない・・・


全軍、揃ったところで、雒城の攻略に取りかかる

ここで、頼りとされた龐統は、いつものようにその明晰な頭脳を持って、知恵を絞った。


帰順してきた蜀将が、口を酸っぱくするほど語るのは、張任は名将で、彼がいる限り雒城を落とすのは容易ではないということ。

やはり、鍵は張任をどのようにして、始末するかにかかっているようだ。


では、何としても張任をおびきき出し、雒城から引き離す必要があるだろう。

龐統は、張松からもらった『西蜀四十一州図せいしょくしじゅういっしゅうず』をジッと眺める。


そこで目をつけたのは、金雁橋きんがんきょうだった。

この橋を張任に渡らせることができれば、彼の退路を断つことができると踏む。


そして、張任を引き寄せる罠は、もう決まっていた。

ともに北回りで移動してきた黄忠に作戦を伝える。


黄忠は、何か言いたそうなところをぐっと堪えて、その指示に従うのだった。

手勢は率いた黄忠は、雒城前で大音声を響かせる。


「我こそは、黄忠漢升なり。張任殿、いざ尋常に勝負されよ」

「それは、李厳殿を搦めとった作戦と同じではないか?そのような二番煎じ、私に通用すると思っているのか?」

黄忠の挑戦を張任は軽くいなした。しかし、ここで黄忠は、しつこく食い下がる。


「同じわけがあるまい。私と勝負すれば、きっと面白いものが見られるぞ」

「何をたわけたことを・・・ん?」

張任は言葉を途中で切った。目の錯覚かと疑う、信じられないものを見たような気がしたのである。


『一瞬、黄忠の影に見えたのは、的盧ではなかったか?しかし、的盧は毒矢で・・・』


黄忠が言う面白いものというのに、少し興味が湧いた張任は、あえて誘いに乗り、雒城から飛び出して行った。

それを待ってましたとばかりに、黄忠が襲い掛かる。

両者の闘いは一歩も譲らないのだが、張任は、どうしても黄忠の後方が気になってしまうのだった。


「集中せぬと、その首落ちるぞ」

「分かっておる」


張任のその様子に、黄忠はニヤリと笑うと、「見たくば見るがいい」

そう言いながら、体を退けて視界を空けるのである。

そこで、張任が目にしたのは、的盧に騎乗する龐統だった。


「お、お前は龐統か?私は毒矢に倒れるお前を見たぞ」

「さぁて、お化けかどうか、その目で確かめてみるんだな」


龐統は、馬を走らせて張任から距離を取るのだが、思わず、追ってしまう。

張任は間違いなく見たのだ。山道で毒矢に倒れる的盧。更に、馬が倒れたことで陣形が乱れ、生じた盾の僅かな隙間を一矢、毒矢が通り抜けたのを。


そして、「軍師」と周囲が叫ぶ声まで、聞いている。

その時は、劉備ではなかったことを悔しがったが、軍師と呼ばれた男が毒矢を受けたことに間違いはないのだ。

劉備軍の軍師となれば、この遠征では龐統以外にあり得ない。


張任は、この事実をどうしても確かめたくなったのだ。

そこで、らしくなく深追いをしてしまう。


張任が龐統を追って、金雁橋を越えると、それを見計らった劉備軍は橋を渡れなくするために破壊した。

退路を断たれたことに気づいた張任だったが、後の祭り、行く手を黄忠、魏延、呉懿、李厳、雷銅、呉蘭に塞がれる。


囲んだ張任に向かって、龐統は上着を脱いで見せた。

遠目にも着衣に血がにじんでいるのが確認できる。


「張任殿、あんたの策は見事だったよ。私はご覧の通り。馬も的盧に似た馬だ」

「いや、あの矢を喰らって、ここまで動けるあなたの精神力には感服する」

「やられっぱなしは性に合わないのでね。悪いがこのまま、生け捕らせてもらう」


抵抗しようにも多勢に無勢、結果は目に見えていた。張任は潔く、武器をその場に捨てるのである。

ここに名将・張任を捕らえることが叶ったのだ。


しかし、劉備はそんなことよりも龐統が怪我を負っていることを初めて知り、動揺を隠せずにいる。

矢傷を受けていたという報告は、まったく寝耳に水の話だ。


「士元、無理をするな。後は他の者に任せて、手当をするんだ」

そんな劉備の言葉に龐統は微笑み返す。


「いや、残念ながら、私はここまでのようだ。どうも受けた矢に毒が塗ってあったようでね」

そう言うと次の瞬間、龐統の口から血があふれ出した。


大量の吐血で、龐統の顔が青ざめる。

劉備は、龐統を抱きかかえ自らの衣服の袖で、龐統の口元を拭うと、涙ながらに訴えた。


「馬鹿野郎。どうして、もっと早く手当を受けなかったんだ」

「申し訳ない。助からないことは分かっていた。だから、士気を下げないために隠した」


一緒に同行していた黄忠や法正は、知っていたのだろう。

黙っていたことを劉備に謝罪するが、龐統に咎めることはしないでくれと頼まれた。

劉備も龐統が口止めしていたことを、十分、理解している。


「そんなことで怒りゃしない。俺が怒っているのは、士元の様子に気づかない自分の間抜けさにだ」

「・・・これでも天下の大軍師だ。・・騙し合いで負けるわけがないだろ」

「それは、そうだな」


劉備は無理矢理にでも笑おうとするが、駄目だった。

抱きかかえる龐統の体から、徐々に力が抜けて行くことに、どうしても気持ちを保てないのである。


「最後に何か言い残すことはあるか?」

「・・・孔明ちゃんが、やって来る。ここまで、・・つゆ払いをしておけば、後は、・・・任せても大丈夫だ」


これは、恐らく関平を使者に出した時点で、諸葛亮に言伝ことづてていたのだろう。

『一得一失』の一失が自分のことだと予測していたのかもしれない。


いや、もしかしたら、劉備の可能性を考えて、自分があえて的盧に乗ったのか?

だとしたら、劉備は何をもって、龐統に報いればよいのか。


涙目で龐統を見つめていると、微かに口元が動いているのに気がつく。

天才軍師の最後の言葉だ。

一言残さず、聞き漏らすまいと劉備は耳を澄ます。


「・・・益州は、何としても手にしてほしい。・・・そして、皇帝まで登りつめてくれ・・その覇業に加われたと思えば・・・」

「そいつは、間違いなく約束する。天下の名軍師の力添えがあって、劉備玄徳は覇を唱えることができた。このことを、必ず明言する」

「・・・その姿を一目、見たかったよ」


その言葉を最後に龐統は息をひきとった。

享年三十六歳。

天才のあまりにも早い死に、将兵の涙は止まらない。


龐統の命と引き換えに捕らえた張任だが、戦場に毒矢を使用した件を、劉備はどうしても許せなかった。

張任、本人の意向もあり、帰順を進めずに打首にする。

劉備は深い悲しみと新たな決意を胸に秘めて、益州攻略を諸将の前で誓うのだった。

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