第28章 桑木の約編
第190話 荊州騒然
龐統からの手紙を受け取り、内容を読んだ諸葛亮は、大きな溜息を漏らす。
何度、読み返しても、その内容を信じられなかった。
しかし、あの龐統が冗談で、このような手紙を自分に送るわけがない。
諸葛亮は、立ち上がるとすぐに諸将を集めた。
軍師の招集に、関羽、張飛、趙雲、陳到ら歴戦の面々がすぐに応じる。
「皆さん、緊急の招集に応じていただき感謝します」
「そんなことより、長兄の身に何かあったのだろうか?」
皆の疑問を関羽が代表して、諸葛亮にぶつけた。
劉備の身については、大丈夫だと即座に回答する諸葛亮だが、その後で、変事が起きる可能性については、正直に告げる。
「もしかすると士元の身に、何か良からぬことが起きるやもしれません」
その告白には、一堂、驚いた。
龐統の智謀の高さは、天才軍師、諸葛亮と比肩することを皆が認めるところ。
その龐統の身に何か起こるなど、想定の範囲外のことだった。
「孔明さん、蜀兵が手強いということですか?」
「大きな戦を経験していないとはいえ、それでも一国を維持してきた軍です。侮りがたいことは、確かでしょうね」
簡雍が頷いた後、堰を切ったように諸将から声が上がる。
その中身の大半は、今、この場に集められた理由を問うものだった。
勿論、諸葛亮が諸将を集めたのは、戦略の変更が余儀なくされたためである。
皆の質問に答える形で、新しく練り直した戦略を発表した。
「まず、我らはこれから選抜隊を編成し、我が君の援軍に向かいます」
おおおっという声が諸将から洩れる。正直、曹操軍との小競り合いはあったにせよ、荊州で留守を預かることに体を持て余していた者が多いのだ。
では、この中で、誰が選ばれるのか。
諸葛亮の次の言葉を皆、待つのだった。
「まず、関羽将軍」
真っ先に呼ばれたのは、将軍の中の筆頭ともいえる関羽である。
誰もが納得する人選に、呼ばれた関羽は一歩、前に出た。
ところが、「関羽将軍には、荊州の守護をお願いしたい」と、予想に反する言葉が諸葛亮から出る。
「な、私は長兄の危機に助けに行けないというのか?」
「我が君の危機なればこそ、将軍に頼んでいるのです」
今や劉備は荊州七郡の内、五郡を有していた。
この地を曹操や孫権から守り抜くことを考えれば、適任者は関羽しかいないのである。
劉備の危機だからこそ、その地盤はしっかりと守り固めなければならないのだ。
「私の見るところ、貴方の器はいち将軍をとうに越えています。一州を守り抜けるのは、関羽将軍しかいないのです」
「・・・しかし」
「かつて、結ばれた桃園結義は、何も生死を共にすることだけの誓いではないでしょう。この乱世に終止符を打つためのものだと思います。どうか、ご理解を」
諸葛亮が拱手とともに深々と頭を下げる。
その姿に関羽は言葉を詰まらせると、ついに折れた。
「桃園結義を持ち出されては、私も従うしかない。荊州はお任せ下さい」
その言葉を聞いて、諸葛亮は安心する。
荊州の防衛に関羽が残ることが定まらなければ、戦略を練り直さなければならなかったからだ。
これで、ようやく、次の話に進むことができる。
関羽に続いて、呼ばれたのはやはり、張飛だった。
「張飛将軍は、一万を率いて
「おう、分かったぜ」
張飛の次は、趙雲の番。
「趙雲将軍は、同じく一万を持って
「承知した」
そして、諸葛亮自らは、陳到とともに長江の支流を通って涪城に達し、そこから雒城へ向かう経路を取ることにした。
三方向、都合、三万の軍勢で劉備の救援に向かうことになる。
ここで、諸葛亮から入蜀に当たっての注意事項が言い渡された。
「皆さんにお願いがあります。通過する都市は、できるだけ制圧しながら進んで下さい。但し、必要以上の殺生は避けるようお願いします」
最終目的地は成都となるが、そこに至るまでは益州のかなり奥まで突き進むことになる。
進んだ
劉備を助けたいと逸る気持ちが、軍を急がせることも考えられる。
しかし、険しい山岳によって守られる益州では、険阻な道も多く、急いては大きな痛手をこうむることを諸葛亮は懸念していた。
何より、後で劉備が統治することを考えれば、大きな恨みを買うことは、損でしかないのである。
張飛、趙雲は勿論のこと、他の将も諸葛亮の言葉を肝に銘じた。
諸将が準備に入る中、諸葛亮は解決しなければならない、もう一つの問題に取りかかる。
それは、劉備の妻、孫尚香の存在だった。
彼女は、今、非常に苦しい立場に立たされている。
諸葛亮には、孫尚香の元に頻繁に孫呉の使者が訪れているという情報が入っていた。
恐らく、孫権から何らかの指示が飛んでいるのだろうが、彼女には劉備の良妻たらんとする矜持がある。
兄弟の情との板挟みで、心を悩ませているようだった。
しかも、そんな彼女に呉国太からの手紙も届いたと聞く。
無論、その内容までは検めてはいないが、孫尚香の出国の際の経緯を考えれば、おおよその察しはついた。
呉国太を怒らせてしまったのは、諸葛亮自身の失敗だったと認めている。そのため、何とか孫尚香には、手を差し伸べてあげたいと考えていた。
諸葛亮は、簡雍を伴って彼女に会うことにする。
「奥方さま、失礼いたします」
「これは諸葛亮殿に、簡雍殿。お二人、そろってどうしたのです?」
「いえ、呉国太さまから手紙が届いたと聞きまして・・・」
孫呉の将には啖呵を切った女傑も、今は憂いのある表情を見せた。
やはり、諸葛亮の予想通りの内容だったのだろう。
「親不孝、親子の縁を切ると言われましたわ」
「そうですか・・・」
想定していたとはいえ、諸葛亮も絶句した。この状況で、どのように声をかければいいのか分からない。
本来、相談、頼りとすべき夫の劉備は、益州へと遠征中であり、彼女は一人でこの問題に立ち向かわなければならないのだ。
沈黙の空気が流れた中、破ったのは簡雍である。
「一旦、里帰りされてはどうですか?」
解決困難な問題に、あっさりと解を出した。
手紙ではなく、きちんと会って話し合った方がいい。
しかし、孫尚香は首を横に振った。
「玄徳さまが不在で家を空けるわけにはいきません」
あくまでも妻の務めを果たそうとする姿勢を崩さない。
もしかしたら、妻としての立場を守るのと同時に、嫁に出した孫家の家名に傷かつかないように気を使っているのではないかと思われた。
それは五倫の教え、夫婦の別を気にしてのことかもしれない。
だが、そんなことなど気にする必要は、一切ないと簡雍は説いた。
「呉国太さまもご高齢です。お加減を見に行かれるという理由でしたら、世間の誹りを受けることはないと思いますよ」
「・・・でも」
「なに、益州平定が落ち着けば、大将の尻を叩いて、奥方さまを迎えに行かせます。その時こそ、堂々と出国なさればいいのです」
簡雍の説得でようやく、孫尚香も頷く。
心なしか晴れやかな表情に変わったようにも見えた。
「夫が大変な時に申し訳ございません。お二人とも、どうかあの人の手助け、よろしくお願いいたします」
「ええ、それが私たちの役目ですから。奥方さまは、呉国太さまとよく話されて、和解できることを願っております」
孫尚香は、里帰りの準備を進めて、その日の内に公安を旅立つ。
見送った諸葛亮は、問題の解決に協力してもらった簡雍に感謝した。
荊州を関羽に頼み、孫尚香の悩みも解決すると、これで後顧の憂いが完全になくなる。
諸葛亮は援軍の準備のため、自室へと入った。そこで、改めて龐統からの手紙を読み直す。
『一得一失。どうやら、俺が一失のようだ。益州と同格に見られるのは悪くないが、その通りだと、孔明ちゃんの手を煩わせることになるだろう。できるだけ露払いはしておくので、後のことは頼む』
益州を得るためのやむを得ない犠牲なのか・・・
諸葛亮は、何もできない自身を嘆いた。
もしかしたら、急げば、まだ間にあうかもしれない。
一縷の望みにかけるとともに、今は、友であり生涯の好敵手の無事を祈るのだった。
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