第2話 鬼部尉
「日没だ。門を閉めよ」
洛陽の北門に大きな声というわけではないが、非常に通りのよい声が響いた。
部下の応という声とともに門は古びた音を立てながら閉められる。
「完了しました」
完全に門が閉まり報告する副官は、畏怖と尊敬の眼差しを上官に向ける。
その視線の先には洛陽北部尉、
驚くほど冷めた目をし、
曹家と言えば宦官の家系で、曹操の祖父は四帝に仕えた大宦官、
家柄から言えばもっと高い官職に就けないこともなかったが、曹操自身が敢えて部尉を選んだようだ。
都には権力を笠に着た馬鹿が大勢いる。
そいつら相手どり、名声を上げてやる。
そういった腹積もりが、曹操にはあったのだ。
そして、その機会はすぐにやってくる。
曹操が北部尉として任務に就くと北門の夜間通行を一切禁止した。
また、城中の乗馬、帯刀も認めなかった。
これが徹底され、この禁を破る者あれば身分を問わず、いかなる人間にも
いつしか北門付近を通る人間はまばらになり、日没後は水を打ったような静けさとなる。
「副官、それでは私は官舎に戻る」
「はっ」
日没後、巡回を終えると副官にそう告げ、曹操は近くの官舎の中に入って行った。
北門の禁令が徹底される分、曹操の手が
曹操がいなくなるとピンと張り詰めていた緊張感が解ける。
しかし、部下の誰もが職務を
いつ、鬼部尉が現れるともしれないからだ。
「門を開けい」
静寂の中、突然、大声が響いたので北門の官吏たちは驚いた。
いや、正確にはいまだに北門の禁令を知らない人物がいたことに驚いたのだった。
「早く開けんか」
官吏の一人が
そのことを副官に告げると慌てて門が開かれる。
天子が乗っているとばかり思い込んでいた副官が
蹇朔は門が開かれると満悦顔でよしと呟き、そのまま城内に入ろうとする。
これを見て副官は慌てて車の前に立ちはだかった。
「蹇朔様、お待ち下さい。北門の夜間通行は禁止されております」
「そんなものは知らん。大体、貴様、儂を誰だと思っている」
「いや、いかなる人物でも処罰を受けます。どうぞお戻り下さい」
「儂はこれから天子様にお会いするのだぞ。それを邪魔だてするのか」
官吏たちは逡巡するが、会ったことがない皇帝陛下よりも鬼部尉の顔がすぐに浮かんでしまう。
一丸となって車の前に立ちはだかった。
その様子に蹇朔は逆上し、供の者に北門禁令の立て札を叩き壊させる。
「最近、部尉程度の男が息巻いておるようだが、増長するではないぞ。よい、この者たちなぞ、ひいて通れ」
命令された御者は一瞬迷ったが、蹇朔に睨まれると直ぐさま手綱を扱いた。
その時である。
「待て!」
その声と同時に冷たい風が通り抜ける。
現れたのは、北部尉曹操だった。
「増長しているのは貴様の方だ」
「何だと」
「この北門を通るために、天子の名を
曹操は副官を招きよせ、明確に指示を与えた。
「早くこの者を捕らえよ」
「・・しかし・・」
副官にしては珍しく曹操の命令に渋る。
それは蹇朔の甥が朝廷を牛耳る宦官勢力、十常侍の一人、
「副官」
しかし、曹操が強くもう一度言うと意を決する。
「無礼者」
供の者はあえなく捕縛され、蹇朔自身は
北門の禁令を破った者の最大の懲罰は棒打ちだったからだ。
「離せ。貴様ら後悔しても・・・」
この状況においても語気を強める蹇朔だが、実際に打擲するための五色棒を見ると言葉を失った。
「何打でしょうか?」
副官の質問に曹操は蹇朔の犯した罪を数えていった。
軽く三十を超える。
「儂が悪かった。なあ、甥の蹇碩に言って、お主を昇級させてやる。褒美も与える。頼む助けてくれ」
「ふっ、賄賂の罪さえ重ねようというのでは、救いようがないな。罪が増え、五十打の打擲を与える」
「はっ」
数の根拠は分からないが、部下たちにとって曹操の言葉は絶対である。
素早く準備を始めた。
「ま、待ってくれ。五十打も打たれては死んでしまう。悪いようにはせんから、見逃してくれ」
「喋るな、蹇朔。罪が増えるぞ」
「うっ」
顔面蒼白で身震いする蹇朔に曹操は耳打ちする。
「ここでお前が死ぬのは決まりだ。お前の命と引き換えに名を売らせてもらう」
驚いて、見上げる蹇朔に、
「口に縄を」
歯を食いしばり、打擲に耐えるための措置だが、曹操は口封じのために利用する。
「蹇朔様、しっかりと意識を集中して下さい。そうすれば五十打とて、そう簡単に人が死ぬことはありません」
蹇朔に副官の言葉など入ってこない。
自分は、ここで殺されるのだ。
「これより五十打擲くだします」
「ひとつ」
掛け声とともに背中に一打、打たれる。
そして、二打目を打とうした矢先に、副官が異変に気付いた。
「・・・ぶ、部尉。し、死んでいます」
蹇朔は、一打打たれた衝撃のためか、心労のためか帰らぬ人となってしまった。
曹操も蹇朔の死を確認する。
「ならば、刑は終了だ。それでは各自持ち場に戻れ」
そう全員に告げると何事もなかったように官舎へと戻って行った。
翌日から、洛陽中はこの話で持ち切りとなり、十常侍の蹇碩は面目丸潰れとなった。
しかし、宮廷内において曹騰の影響力はいまだに健在で、いかに十常侍とはいえ、簡単に曹操に手を出すことはできない。
苦心して考えついたのは、強引だが宮中に呼び出して、内密裏に処断してしまうことだった。
間抜け面で登城してきたところを、自身の手勢で・・・
蹇碩が呼び出しに応じて、参上する曹操を待っていると、十常侍の筆頭ともいえる
「張譲殿、いかがなされました」
「おお、蹇碩か。曹操とかいう若造が天子様に上奏申し上げているそうだ。しかも、その内容が我々を弾劾するものと聞く」
「えっ」
「何故、北部尉程度が登城しているか疑問だが、何とかその上奏を握り潰さねばならん」
張譲はそう言うと足早に去っていった。
その姿を見送り、間抜け面をしているのは蹇碩の方だった。
自分を出し抜いて、上奏だと・・・
なんという屈辱か。
蹇碩はすぐさま張譲の後を追いかけた。
蹇碩が天子にお目通りをこい、真っ先に目にしたのは、苦々し気な表情の張譲であり、その先には上奏文を読み上げている曹操がいた。
「・・・・以上が現在、この洛陽の外で実際に起きている現状であります。また、遺憾ながら、このような状況を生み出したのは、宮中にすまう
上奏文は曹操が官舎でしたためていたものである。
丁重に上奏文を差し出すとそれを張譲が受け取った。
曹操と張譲の睨み合いが続いたが、曹操がふっと気を抜く。
「それでは陛下、本日は天顔を御拝見できまして、この曹操、本懐の極みでございます。では、これにて失礼致します」
天子の前を辞し、このまま立ち去ろうとする曹操の行く手を蹇碩がふさいだ。
もの凄い形相で曹操を睨み付けている。
しかし、曹操は気にもとめる様子がなかった。
「これは蹇碩殿、北部尉の私を宮中にお招きいただき誠に有り難うございます。運よく、天子様にお会いすることかないました」
「なっ・・・」
曹操はわざと大声でそう言うと、冷ややかに笑いながら一礼し去って行く。
残された蹇碩は張譲の顔を直視できず、うつむいたまま悔しさに歯ぎしりするのがやっとだった。
それから、数日後、曹操は洛陽から離れた
張譲、蹇碩による栄転という名の厄介払いだった。
都の中でも曹操の赴任に関する噂が広がる。
「これで、私のことを宦官の孫と軽んじる者はいなくなる」
新しく就いた頓丘においても悪徳官吏の首が、ことごとく首を刎ねられた。
その報を聞き、あの男を都に近づけるな。
十常侍の中の共通認識となるが、それがますます曹操の名声を高めることとなる。
「張譲、蹇碩。いずれ、また会えるさ。その日を楽しみに待っていろよ」
その言葉通り、洛陽で曹操を必要とする事態は、すぐそこに迫っているのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます