第198話 成都陥落、そして・・・
成都城の前にある武将が立ち、降伏を促した。
それは劉璋にとって、まさに青天の
当然だが、何度見返そうとも、城外に立つ将の姿が変わることはなかった。
しかも、このような事は、これで二度目。
一度目は、重臣たちの反対を押し切り劉備を荊州から招いて裏切られた。
そして、今回は重臣たちの意見に従い、在野の馬超に救援を求めたのだが、同様の結果となる。
劉璋は、もう、何を信用していいか、分からなくなってしまった。
成都を取囲んだ劉備軍は、ついに十万にまで膨れ上がる。
率いる将の顔ぶれも、張飛、趙雲、黄忠、魏延、陳到、李厳、厳顔、呉懿。
極めつけに馬超である。
重臣たちが必死に知恵を絞り、意見を出し合っているが有効な意見は何も出なかった。
どう考えても、反撃の糸口すら見出せないのである。
夜になれば、人目を盗んで成都から脱走し、劉備に寝返る者が日に日に増える一方だった。
もはや、成都は沈没寸前の船と化す。
「成都を落とすのに、もう武力はいりません。私が行ってきますよ」
この状況に簡雍が、劉璋を説得すると名乗り出た。
周りからは、危険ではないかと心配する声が上がるが、劉備は簡雍にこの任務を任せる。
思えば、今までも重要な局面を簡雍に任せ、その交渉術で乗り切って来たのだ。
劉備玄徳の人生で、最大の山場。
託す人物は、この人しかいなかった。
簡雍は護衛に陳到を伴って、成都の門をくぐる。
通された城主の間には、やつれた表情の劉璋が肩を落として座っていた。
それは、そうだろう。
やる事なす事、全てが裏目に出ている。
もう何も考えられなくなっているといった感じだった。
簡雍は、こんな劉璋を早く楽にしてあげるべきだと
「お初にお目にかかります。私、従事中郎の簡雍と申します」
「私が劉璋である。簡雍殿の用向きはいかに?」
「劉璋殿とゆっくり、お話がしたいのですが、よろしいか?」
一応、確認をしたものの、降伏するよう説き伏せに来たことは明白だった。
いきなりではなく、その対話の中で切り出そうというのか?
劉璋はそう勘ぐるが、簡雍と話がしやすいようにと、お酒と多少の料理を用意させる。
「いや、ここまで、していただくつもりはありませんでした。感謝いたします」
簡雍は
酒は五臓六腑に染みわたり、劉璋は一息つくのだった。
思えば、この一年、ゆっくりと酒を味わう機会もなかったのである。
「失礼」
「何、気になさらずに」
少々、気持ちがほぐれ、ちょっと油断した表情を見せた。
その点を謝罪する劉璋だが、簡雍は気にも留めない。
そもそも腹を割って話しがしたいがために、この状況を作るよう仕向けたのだ。
堅苦しくない雰囲気の方がいいのである。
何気ない世間話しで、多少、盛り上がった後、不意に簡雍は劉璋に頭を下げた。
「焦土作戦を採用されなかったこと、感謝の気持ちでいっぱいです」
「自国の民を苦しめる作戦をとりたくなかった。ただ、それだけです」
「それこそが聡明な判断と言えるのです」
簡雍は劉璋を褒めるが、よく考えれば劉備陣営に称賛されるというのも変な話である。
ただ、劉璋は不思議と悪い気はしない。
とった作戦、全てが上手くいかなかったのだが、無益に民を疲弊させる策は取らなかった。
それは、親子二代にわたって益州を支えてくれた民に対して、感謝の気持ちがあったからである。
その民たちのことを考えれば、この後、どうすればいいのだろうか?
劉備との戦。その
この成都には三万の兵と一年分の兵糧があることから、今暫くの抵抗は可能だが、果たして、それは何のためになるというのか?
劉璋は自問を繰り返していた。
その間、簡雍はゆっくりと待つ。一国の君主に降伏を突きつけるより、自身で答えを導き出した方が、納得もするし自尊心も傷つけないはずだ。
そして、劉璋は答えを出す。
「簡雍殿。玄徳殿とお引き合わせ願えないだろうか?」
自ら、劉備と会い、降伏を伝えると言うのだ。劉璋のこの発言に、どこかホッとした空気が会場に流れる。
多くの臣たちは、やはり、もう諦めていたのだ。
そんな空気とは関係なく、簡雍は、劉璋を立派な君主だと褒めたたえる。
この決断は、誰にでもできるものではないからだ。
「それでは、私とともに参りましょう」
簡雍は劉璋の手を取る。誘われるまま、劉璋が立ち上がろうとしたその時・・・
「益州は、渡さんぞ」
背中に痛みを感じて、簡雍が振り返ると、そこには短剣を突き刺す劉巴がいた。
余りにも突然の出来事に、劉璋は腰を抜かしてしまう。
護衛の陳到が慌てて、劉巴を突き飛ばし、短剣を抜き取った。
「この城に、誰か医者はいないのか」
陳到の言葉にすぐ反応する者はおらず、仕方なく自ら、必死に簡雍の背中を抑えつける。
だが、思ったより傷が深く、血が止まる様子はなかった。
暫くして、ようやく医療の心得がある者が登場し、簡雍の治療にあたる。
しかし、あまりにも血を流し過ぎていた。
最悪の事態を思い浮かべた陳到は、護衛の任を達成できなかった自分を責める。
ただ、この変事を劉備に伝えなければならない。急いで使者を送るのだった。
程なくして、劉備がやって来る。よほど慌てていたのだろう。
まだ、降伏も占領もしていない敵の城内で、剣すら帯びずに駆けつけたのだ。
もちろん、張飛と趙雲も一緒に来ているため、劉備に危険が及ぶ心配はなかったが・・・
自分の身の心配より、劉備にとっては簡雍の方が大切なことが十分に伝わった。
「憲和。おい、返事しろ」
血の気が失せて、青白くなった簡雍を劉備は抱きかかえる。
手の中で、徐々に簡雍の体温が下がっていくのを劉備は感じた。
「おい、まだ、約束を守っていないぞ。これから、まだまだ、お前の力が必要なんだよ」
劉備は叫ぶが、簡雍からの返事は一切ない。張飛は涙を浮かべ、趙雲は口を一文字に固く閉じた。
必死に歯を食いしばっているようである。
簡雍の手がだらりと床に落ちると、劉備の慟哭が響きわたるのだった。
その後、
益州を手に入れた劉備は、曹操との決戦を制し、高祖・劉邦にとって運命の地、漢中を所領とする。
既に曹操は魏王に就任しており、その野心を天下に包み隠すことをしていなかった。劉備は、対抗するように王への就任を漢室に上奏し、漢中王を名乗る。
劉姓の漢中王誕生に、劉邦と重ねる人々が多く、世間の劉備への期待は高まるのだった。
そんな中、西暦220年。
劉備が危惧していた出来事が、ついに起こった。
曹操の跡を継いだ息子、曹丕が漢室に
帝位を簒奪して、漢を滅ぼすのだった。
当然、そのような暴挙を劉備は認めることなく、蜀の地に新たな漢王朝を建てる。
翌年、万民の支持を得て、蜀漢の初代皇帝に即位した。
故郷の楼桑村を出て、おおよそ四十年後のことである。
ただ、欠けていることが一つ。
この即位を促した
帝位に就いた劉備は、成都城中の民に、その姿をお披露目するため御車へと向かう。
今回のために作らせた天蓋付きの車は、遠くから見ると故郷の桑の木にそっくりだった。
これは偶然ではなく、劉備がそう注文して造らせたのである。
いざ、乗り込もうと車に手を伸ばすと、先客がいることに笑みを浮かべた。
「何だ、先に乗っていたのか?」
「ええ、そういう約束だったでしょ。大将。・・・いや、陛下ですか」
劉備はご機嫌な表情を崩さずに首を振る。
「いや、調子が狂うから、前のままでいいぜ。・・・憲和」
新しい御車に劉備より先に乗っていたのは、あの簡雍憲和であった。
簡雍は、あの大怪我の後、奇跡的に命をとりとめる。
しかし、半身不随となる障害が残ってしまった。
これでは、政務につけないと官職を持して、一時は劉備の元を去ろうとするのだが、そんなことを許す劉備ではなかった。
これからは、友人として残り、今まで通り相談事に乗ってほしいと懇願する。
そう願うのは劉備だけではなく、劉備に仕える臣、一堂から請われるに至って、簡雍は残る決心をしたのだ。
立場は、もう臣下でないため、軍議等に参加することはない。ただ、諸葛亮に頼まれて、意見を述べる機会はあった。
そんな時は、体が不自由であったため、長椅子に身を委ねての軍議への参加だったが、当然、咎める者は誰もいない。
劉備が漢中を制し、皇帝にまで昇りつけた陰に簡雍の助言もあったのだ。
「体の調子どうだ?」
「変わらずですよ。今日は、気分がいいから、ましな方ですね」
「そうか」
簡雍の視線は遠くを見つめるようである。それは、劉備も同じだった。
遠い昔、子供のころの約束が、本当に果たされる日が来るとは、正直、思ってもいなかったのである。
幾多の苦労があり、いつ死んでもおかしくない状況を経て、今があった。
万感の思いが、二人を襲う。
熱いものが頬を伝うのだが、お互い恥ずかしく、すぐに隠した。
「どうだ、乗り心地は最高だろ?」
照れながら、満面の笑みを浮かべる劉備に、子供のころの台詞が重なる。
『この人は、やっぱり稀代の人たらしだ。・・・でも、この人と一緒だから、今まで、やって来られた』
簡雍は、楼桑村で、初めて出会ったあの時の情景を思い起こした。
破顔一笑。
そこには、当時と同じく大きく頷く簡雍がいるのだった。
完
矛先を折る!【完結】 おーぷにんぐ☆あうと @openingout
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