第20章 皇叔逃走編

第117話 孔明の助言

曹操の南征が始まろうかという時期に、許都で名士の一人が命を落とした。

その名は孔融。かの有名な聖人孔子の二十世孫にあたる人物である。


孔融は直言居士ちょくげんこじで、概ね正論を述べるのだが、言葉選びに融通が利かず、時には過激な言葉をもって、相手を諫めた。

故にいくら正しいことを諭されても、それ以前に孔融の言葉を受け入れるのを拒否する人物も多い。

時の権力者、曹操もその一人だった。


丞相という立場になった曹操にも孔融は容赦しない。

曹操が打ち出す施策で、理に適っていると思われるものは陰で褒め、納得いかない場合は公然と抗議した。

全てを否定しているわけではないが、これでは曹操も面白くない。


ついには、孫権の使者に対して、曹操を誹謗し、あまつさえ劉備が天下を扶けるべきだと吹聴したという不敬罪に孔融が問われることになった。

但し、これは日ごろから孔融と仲が悪い郗慮ちりょという人物の捏造が大きく影響する。


鷙鳥百しちょうひゃくかさぬるも、一鶚いちがくかず。天下に備えたるは卯金刀うきんとうのみ』

孔融が孫権の使者に語ったというのがこの内容。


鷙鳥とは、猛禽もうきんのことだが、ここでは性質の荒い無能者を指し、鶚とは、天空を翔ぶ大鳥で、有能な人物を指した。

卯金刀とは、劉の文字を分解したもので劉姓を意味して、天下に備えたるの意味は分からなかったが、要は『備』の文字を使いたかっただけだろう。


要は劉備が優秀だから、天下を任せろと言いたいのかもしれないが、文才の誉れ高い孔融が口にしたという言葉にしては、かなり程度が低い。

それに前半部分は、以前に禰衡でいこうという奇人を孔融が称賛した際の過去の言葉を引用していた。


一目で捏造と分かる代物だが、あえて曹操は乗ることにする。

政治的な判断と個人的な恨みが重なって、この機会に孔融を死罪へと追いやることに決めたのだった。


孔融には二人の子がおり、父親が捕まったことをきっかけに他家に預けられることになる。

九つの兄と七つの妹だったが、預けられた家でも平然と碁に興じる二人の姿に家人の者が、

「父上が捕まったのによく平気でいられるね?」と聞いた。

すると、兄妹は、「巣が壊されて、卵だけ残ることがありますか?既に覚悟の上です」と答える。


そして、孔融の刑が執行された後、ついに捕縛の手がこの兄妹にも及ぶと妹が、兄に、

「もし死んでも知覚があるのならば、お父さまとお母さまに会えますね。楽しみではございませんか?」と話しかけた。

「そうだね」


兄は笑顔で頷くと、揃って首を差出すのである。兄妹は、その場で処刑されるのだった。

この情景に涙せぬ者は、いなかったという。


しかし、孔融一家の不幸に同情する者はいても、実際に孔融の遺体を引き取って、弔おうという者は、なかなか出てこない。

許都には生前孔融と親交があった者も多くいたのだが、やはり、曹操の目を恐れているのだ。


そんな中、ただ一人、脂習ししゅうという者だけが孔融の亡骸にすがりつく。

文挙ぶんきょ殿よ。私を見捨てて死んでしまうとは・・・これから、私は誰と語らえばいいというのだ」


この様子を曹操に報告する者がいたが、脂習を咎めることはしなかった。

曹操自身も張邈や袁紹など、生前は諍いがあった友に対して、死後は許して弔う気持ちを忘れなかったからである。

孔融の死後まで、罪に問う気はなく、逆に脂習の行動を称賛したのだった。



一方、曹操に攻め込まれるでろう荊州では、二人の息子の後継者争いが続いており、まとまりに、いまいち欠けていた。

但し、劉琦の頼みは嫡男であるという一点だけで、次男の劉琮には蔡瑁をはじめとした地元の有力者がついており、旗色は完全に劉琮が上である。


蔡瑁に命を狙われてからは、劉備も襄陽に立ち寄ることがほぼなくなり、劉琦の後ろ盾と見られていたのも過去のものとなっていた。

そんな日々に不安を覚える劉琦は、思い切って新野を訪れたのである。


「これは琦君、いかがなされた?」

「劉皇叔、この劉琦、一生のお願いがあって参りました」

「一生とは、これまた、ただ事ではないな」


劉備は心配になり、劉琦の手を取るのだが、左右に侍立していた諸葛亮と簡雍は怪訝な表情をする。

「最近では、継母の手によって、食事に毒を入れられることもあり、安穏と暮らすことができません」

そう言われると睡眠不足のためか、すでに幾ばくかの毒を服してしまったのか、やや瘦せたようにも見え、表情にやつれた感じがある。


しかし、劉備も事が事だけに迂闊な事が言えない。

家督争いに巻き込まれたために、的盧で檀溪を翔ぶはめになったのだ。


「劉皇叔の身に危険が及んだことは知っておりますが、今の私の境遇を憐れと思えば、何かお知恵をお借りできないでしょうか?」

「うむ・・力は貸してあげたいが、俺の頭じゃ・・・」

「諸葛亮殿は、曹軍十万を撃退した知者。何かいい方法などございませんか?」


すると、諸葛亮は劉備に頭を下げるのみで、この場を離れるのだった。

どうやら、知恵を貸す気は、まったくないらしい。


「孔明さんも複雑な立場ですから、介入は難しいのでしょう」

諸葛亮のつれない態度を簡雍が代わって、弁明する。


実は諸葛亮の妻、黄月英こうげつえいの父である黄承彦こうしゅうげんは、蔡瑁の姉を娶っていた。

つまり、蔡瑁や劉琮は、諸葛亮にとって親族なのである。


ここでその親族の不利になるようなことを公に話すのは、さすがに憚られたのだ。

かといって、劉琦をこのまま見捨てることを、劉備はできない。


「憲和、孔明の知恵を借りる方法は、ねぇかな?」

「ありますが、後で私が孔明さんに恨まれてしまいますよ」

「いや、そこは俺も、孔明に全力で謝罪する」


簡雍としても荊州における少ない劉備派の劉琦を放っておくことは忍びない。

折れて、諸葛亮から助言を得る方法を伝授するのだった。



「気が滅入ったまま、琦君を返すのは俺の気が済まない。皆で楼閣にでも上がって、酒を酌み交わそう」

劉備の提案で、諸葛亮、簡雍、劉琦は新野城の楼閣に登った。

酒の手配をすると言って、簡雍が一人で降りると、劉琦が思い切って諸葛亮に切り出す。


「諸葛亮殿、どうか私をお救い下さい」

「一家の内事。他者が口出すことではございません」


諸葛亮は、そう言って楼閣から去ろうとするが、梯子が外されており降りることが出来なかった。

先ほど、簡雍が降りた際に梯子を外したのだろう。

とすると、劉備も共謀しているということだ。


「我が君、これはどういうことでしょうか?」

「すまない。俺もどうしても放っておけなかったんだ」


主君が手を合わせて謝罪するのであれば、それ以上のことは言えない。

諸葛亮は、長い嘆息を漏らすのだった。


「今は、上は天に届かず、下は地についておりません。貴方の言葉は、私と劉皇叔が知るのみ、迷惑はかけないと誓いますので、ご教示ください」

劉琦は、一歩も退かぬという心構えで、必死に諸葛亮に懇願する。

さすがに諸葛亮も諦めると羽扇で顔を隠し、思案した結論を、ある昔話に例えた。


「琦君は、申生しんせいが国内に留まったがために危険に晒され、重耳ちょうじが国外に出たために身の安全を得たことをご存じありませんか?」

これは春秋時代のしんの太子と公子の昔話。


晋国の献公けんこうは、驪姫りきという美女を寵愛し、驪姫は自分の子である奚斉けいせいを跡継ぎにしようと陰謀を巡らす。

国内に残った太子申生は、驪姫の罠にはまり自殺へと追い込まれるが、難を逃れて国外に逃亡した公子重耳は、後に大国しんの力を借りて晋に戻ると晋公となることができた。


春秋五覇の筆頭と謳われる文公ぶんこうの逸話である。

つまり、諸葛亮は劉琦に襄陽から離れよと言っているのだ。


「それでは、どちらに行けばよろしいのでしょうか?」

「江夏の太守黄祖が孫権に討たれました。琦君は夏口に赴き、孫呉に備えると進言すれば認められることでしょう」


劉琦は、諸葛亮の金言に感謝する。

一件落着と思われた頃に、酒と肴を運んで簡雍が戻って来た。


「それでは、琦君。祝杯をあげましょう」

劉備の音頭で、ささやかな酒宴が始まる。

道が開けた劉琦は、久しぶりに楽しい時間を過ごすのだった。

宴も終わり、劉琦を見送ると、諸葛亮が簡雍に擦り寄る。


「憲和殿、人が悪いですね」

「大将と琦君に頼まれて、仕方なく悪知恵を働かせました」


頭をかく簡雍の横で、ふと諸葛亮が視線を落とした。

劉琦を助けるために授けた策には、実は欠陥がある。


「人が悪いのは私も同じですが・・・」

「仕方ありません。琦君の願いを達成することに違いはありませんから」


劉琦は、死地を離れて命こそ助かるものの、この先、跡継ぎとなることが、更に困難なものとなる。

何故なら、文公にあった大国秦のような後ろ盾が劉琦にはない。

つまり、襄陽城に戻るのが、劉琦にとって難しくなったのだ。


見方を変えれば、諸葛亮は親族の跡継ぎ争いを有利とするために、策を講じたと思われても仕方がない。

無論、そのような思惑は諸葛亮にはなく、劉琦を助けるための最善の策は、これしかなかったのだが・・・


「とりあえず、問題が一つ解決した。それにこの先、何が味方するかなんて、誰にも分からねぇだろ」

劉備は、そう慰める。気にするだけ損だと、笑い飛ばすのだった。

確かに重耳が国外逃亡した際も、初めから秦国の助力を得られるとは思ってはいなかっただろう。

将来のことは、誰にも分からないのだ。


「大将といると、悩むだけ無駄だと思っちゃうことが多いから、嫌になりますね」

「まったくもって、然り」

簡雍と諸葛亮は、遠くの劉琦に手を振る劉備の後ろ姿を見つめるのだった。

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