第118話 曹操の南征と劉表の死

劉琦が江夏太守として赴任して間もなく、劉表の背中に悪性の腫物ができる。それからというもの、寝台から起き上がることができない日々が続いた。

さすがにこの状況の劉表に呼ばれれば、襄陽城を避けていた劉備も赴かない訳にはいかない。


護衛に関羽、その他には諸葛亮と簡雍を伴って、久しぶりに劉表と対面する。

腫物は背中と聞いていたが、全身に回っているのか、着衣の隙間から痣のようなものが見えた。

やはり、病状は思わしくないらしい。


「配下を抑えることができず、劉皇叔には迷惑をかけた。申し訳ない」

「それは過ぎたことです。そのきっかけで、孔明という大賢者を迎えることが出来ました。私としては、もう気にしていませんよ」


劉表は劉備に感謝すると諸葛亮を顧みた。

その表情は柔和にして、穏やかな笑みがある。


「私の誘いには興味を示さなかったというのに、まったく、お前という奴は」

「申し訳ございません」

「冗談だ。英雄は英雄を知るということだろう」


劉表と諸葛亮は義理ではあるが叔父と甥という関係だった。

親族ということもあり、以前から諸葛亮の才覚には劉表も目をつけていたようだが、結局、招聘には応じずじまい。

しかし、それも致し方ないことと、劉表は既に割り切っていた。


「劉皇叔、恐らく私は余命いくばくもない。君のことだから、荊州を代わりに治めてくれと言っても了承しないだろう」

劉備はかつて、陶謙が徐州を譲ろうとしたときも固辞していた。そのことも踏まえて、劉表は話している。


「そこでだ。我が息子らの後見人となって、どうか、この荊州を守ってくれないか」

「それでしたら、承りますよ」


劉備の返答に安堵したのか、劉表は寝台に身を任せると、そのまま目を閉じた。

眠りについたかと思っていると、おもむろに口が開く。


「ときに孔明。お前の相棒は、今、どこにいる?」

「相棒ということはありませんが、士元のことでしたら、私にも分かりかねます」


荊州に多くの賢人を招いていた劉表は、やはり、水鏡の弟子で諸葛亮と双璧と言われる鳳雛こと龐統士元のことを知っていたようだ。

諸葛亮の返答に、短く、「そうか」とだけ、答えた。


「しかし、荊州の危機となれば、どこぞより現れるかもしれません」

一瞬、劉表の口元が綻んだように見えたが、そのまま本当に寝入ってしまったようだ。

劉備たちは、そのまま襄陽城を後にする。しばらくは劉表の急変に備えて、近くの樊城に留まることにするのだった。



劉備たちが襄陽城を後にすると、間もなくして劉表の病状が悪化した。

それは、後事を劉備に託したことで、気が緩んだせいかもしれない。

その報せは、江夏にも届き、劉琦は慌てて襄陽城に向かうのだった。


ところが、襄陽城の門は劉琦のためには開かない。

蔡瑁と張允が共謀して、劉表との面会を阻止したのである。

蔡瑁は病気で気が弱くなっている劉表が、劉琦に会った際に、まかり間違って後を継がせると言い出すのを恐れたのだ。


「劉琦さま。貴方は父君より、大切な江夏の守備を任されたのです。貴方が戻られたと劉表さまが知ったら、さぞかしご立腹されることでしょう。容体にも関わります。どうか、国家の大事を優先なさいませ」

門の内から、蔡瑁は劉琦に話しかける。


父の容体に関わると言われれば、無理を通して、押し通るわけにもいかない。

どうあっても襄陽城の門は開きそうもないと悟ると、劉琦は断腸の思いで江夏へと引き返すのだった。

その後、間もなくして劉表は亡くなるのだが、劉琦は江夏に赴任してから、一度も劉表と会うことが叶わないのだった。



時がいささかさかのぼった許都。

博望坡で敗れた夏侯惇が許都に生還すると、縄目姿のまま、曹操に謁見するのだった。

この異様な姿に、曹操は夏侯惇を問いただす。


「その姿は、どういうつもりだ?まさか、流行りの装いというわけではあるまい」

敗戦を苦にした夏侯惇の行動だと理解していた曹操は、問題にしていないと冗談を交えて強調したのだが、夏侯惇は、尚更、窮してしまった。

叱責した方が良かったか?と軽く反省すると、曹操は夏侯惇の縄を周りの者に解かせる。


「それで、敵の軍師、諸葛亮はどうであった?」

「私ごとき凡才では、推し量ることはできませんが・・・不世出の奇才というのは、あながち虚言ではないかと」

「・・・うむ」


戦前の勢いは完全に鳴りを潜めている。あの猛将夏侯惇の心をここまで折るということは、かなり警戒してあたらなければならないことを物語っていた。

劉備が新野に入ってから、三万、十万と小出しにした兵が、いずれも返り討ちにあっている。


これらの結果から、自ら大軍を率いて攻め込む必要性があると、曹操は感じるのだった。

そこで、曹操は三十万の軍勢をもって、南征に赴くことを決断する。


まずは、先鋒に曹仁、曹洪を指名した。二人に十万の兵を与えると、襄陽城ではなく新野を攻めるよう指示する。

曹操自身は、二十万の軍勢を率いて宛城に向けて出発した。

いよいよ、本気を出した曹操の荊州征伐が始まろうとしていた。



襄陽城では二つの大きな事変に周章狼狽しゅうしょうろうばいする。

まず、一つ目は、曹操自身、率いた軍勢が荊州に押し寄せてきていること。


そして、もう一つは、荊州牧である劉表がついに亡くなったことだった。

曹操軍襲来という国難を目前に、身罷ったのは本人、さぞ無念だったであろうが、跡継ぎを正式に決めていなかったという点、袁家が滅亡したことと酷似している。


荊州の人々は、劉表の死を惜しむと同時に、今後に不安を残すのだった。

襄陽城内では、曹操への対策より、まず、荊州牧の継承について話し合われる。

足場を固めてからでないと、動き出すこともままならないのだ。


当然、この話し合い、主導権は蔡瑁を筆頭とした劉琮側が握る。

そもそも、父の訃報を劉琦に、まだ、伝えていない時点で、劉琮が後を継ぐのは既定路線。

後は、どうやって劉琦を納得させるかが話題の中心だった。


襄陽城にいれば、有無を言わさず暗殺するということも蔡瑁は考えていたが、江夏の太守として一軍を持つ相手となれば、そう簡単にはいかない。

諸葛亮が授けた策は、本当に劉琦の命を救ったことになる。


「荊州牧は劉琮さまが継ぎ、爵位は劉琦さまが継ぐということにしては?」

結局、この張允の提案が一番、無難であり、採用されることになった。


主君の座についた劉琮。

荊州の主となり、いきなりの難題が彼に突きつけられる。

迫る曹操軍への対応だった。


「私は父より、受け継いだこの荊州の地を守りたいと思う」

劉琮は、徹底抗戦を主張するが、周りの家臣たちは、一斉に反対する。

参謀の筆頭格、蒯越が劉琮の前に進み出た。


「失礼ですが、劉琮さまと劉備殿を比べると、ご自身ではどう評価されますか?」

「私の方が及ばないと思う」


その問いに、劉琮が正直に答えると、蒯越は続けた。

「では、劉備殿と曹操を比べてみては、どうでしょうか?」


その質問に劉琮は、口に出して答えることができない。

劉琮の頭の中では、曹操の方が上という答えが出ているのだが、それを口にすると自分の抗戦という主張が無謀なたわごとということになるからだ。


「劉琮さまの高い志は敬服いたしますが、領民を守るのも荊州牧の務めと考えていただければと思います」

主君となってすぐに、降伏という辛酸をなめることに抵抗があった劉琮だが、最終的にもっとも頼りとしている叔父、蔡瑁から、

「曹操と私は旧知の間柄。抵抗なく降伏したことを功と認めていただき、何とか劉琮さまが引き続き荊州牧となれるよう働きかけます」

という言葉に折れるのだった。


劉琮は、宛城に迫った曹操へ降伏の使者を送ると同時に、このことを劉備、劉琦にも告げる使者を送る。

荊州に立てられるべき旗の色が、目まぐるしく変わるのだった。



諸葛亮が出廬した草庵の前に一人の男が立っている。

「何だ、あの小僧、さぼっていやがるな」


いつもなら、柴門あたりで掃除をしている童子の姿がないことに、男は文句をつけた。

仕方なく、案内を待たずに草庵に入ると、軽くしかめっ面を見せて、頭をかく。


「何だ、孔明ちゃん。もしかして、どこかに仕官したのか?」

空き家となっている草庵を見て、その男がそう推測した。

しばらく草庵の周りを探索していると、垣根の一部が広げられていることに気づく。


「おいおい、その仕官先の家人の仕業か?二人・・・いや、三人か。その内の一人だろうが、不調法にもほどがあるな」

それから、一周するも、他にこの男が興味を示すものは何もなかった。

それに肝心の諸葛亮がいないのであれば、いつまでもここに留まっても仕方ない。


男は草庵を出ると、北方の空を見上げた。

鼻を軽くこすり上げると、「何となく、戦の匂いがするねぇ」と呟く。


「荊州にこの龐統士元さまが、久しぶりに帰って来たというのに・・・」

龐統は、やれやれと肩をすくめると、ゆっくりと歩き出した。

口笛を吹きながら、飄々とした態度。

鳳雛と呼ばれる男は、軽い足取りで襄陽城の方角へと進んでいくのだった。

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