第119話 新野、空城の計

樊城にいた劉備は、自分の耳を疑った。

襄陽城からの使者、宋忠そうちゅうの言葉をそのまま受け取ると、曹操軍が攻めてきており、間もなく宛城に到達するとのこと。

更には、劉表が既に亡くなっており、その跡を継いだのが劉琮ということだった。


ここまで、情報が遮断されるとは、劉備も呆れかえるしかない。

そして、極めつけは、その劉琮が一戦も交えることなく、曹操に降伏の使者を出したというのだから、理解の範疇を大きく越える。


「一言も相談なしってことは、俺とは袂を分かつということでいいんだな?」

「そこまでは、私の権限ではお答えできません」


それは聞くまでもないことだった。日頃の蔡瑁や蒯越の態度を考えれば、劉備のことは早々に切り捨てていることだろう。

捕らえて、曹操に差出さないところが、劉備を擁護していた劉表への、せめてもの義理立てなのかもしれない。


「ここで、あんたを斬ってもいいんだが、俺も劉表殿には世話になった。その臣を感情に任せて、殺めたとなれば顔向けができない。とっとと帰りな」

劉備の迫力に押されて、宋忠は逃げるように帰って行った。


宋忠を見送った劉備だが、そうゆっくりとはしていられない。

ここは樊城で、劉備の居城ではないのだ。

この城で自由にできる兵数は、新野から連れてきている千人程度しかいない。


「益徳さんに使者を出しました。後で合流できると思います」

宋忠と対談途中、簡雍が退席していたが、その間に新野に使いを出していたのだろう。

さすが簡雍、仕事が早い。


この樊城には劉備の他、諸葛亮、関羽、簡雍しかおらず主だった劉備の配下は新野にいた。

曹操の大軍がやってくるというのであれば、襄陽からの援護がない新野で対抗するのは難しい。

態勢を立て直すためにも、一度、南下する必要があるのだ。


「我が君、我らは退却するとして、新野をそのまま明渡すわけにまいりません。住民を襄陽に避難させることになりますが、よろしいでしょうか?」

「ああ、任せる」

「良かった。既に手をうった後でしたので」


それで、先ほど簡雍と、何やら打ち合わせをしていたのかと合点がいった。

益徳に出した早馬には、その指示の内容も含まれているのだろう。


これで、今、打てる手は全て討った。後は新野から避難してくる住民を待って、南に逃げるだけ。

劉備は樊城に残る自分の兵をまとめて、急ぎ南下の準備をするのだった。



「急げ。逃げ遅れれば、皆、曹操に殺されるぞ」

新野城で、張飛、趙雲、陳到の三将が大声を上げて、住民を避難させる。

諸葛亮の策では、まず、この新野城を空城にしないことには始まらないのだ。


この住民移動に際して、諸葛亮が作った戸籍票が非常に役立つ。

元々、納税や兵役のために作ったのだが、逃げ遅れがいないことの確認にも利用できるのだった。


「なぁ、虎髯の兄ちゃん。俺たちは、一体、どこに連れていかれるんだ?」

「ん?向こうの門の外で、指示するから、早く行け」


年のころは三十前後、どこか飄然とした男が張飛に話しかける。

時間が惜しい張飛は、その男を雑に扱った。


張飛としては、いちいち住民の相手などしていられないのだ。

対応としては当然と言えば当然なのだが、この男、指示には従わず、ジッと張飛を見つめて動かない。


「分かった。あんただろ、あの垣根を壊したのは」

「垣根?何のことだ?」

「孔明ちゃんの家の垣根だよ」


待て、待て、待て。

張飛は、色々整理しなければ、頭が追い付かない。

確かに諸葛亮の草庵の垣根を壊して、覗き穴を広げたのは張飛だが、何故、この男は、そのことを知っている。

いや、それよりも軍師のことを『孔明ちゃん』と呼ぶ、この男は、一体何者だ?


「どうした、益徳殿」

張飛が固まっているところに趙雲もやって来た。住民の避難は、ほぼ完了したようだった。


「いや、この男、どうやら、軍師の知り合いのようなんだ。」

張飛に紹介され、趙雲が男をまじまじと見る。そこで、一人の知者の名が浮かんだ。


「もしや、貴方は鳳雛殿ですか?」

「お、あんた、こっちの虎髯の兄ちゃんと違って、顔も良ければ頭もいいんだな」

趙雲のことを褒めるのがいいが、余計な一言が紛れている。暴れそうになる張飛を趙雲は何とか抑えるのだった。


龐統といえば、諸葛亮と肩を並べるほどの賢者と聞いている。

その龐統が新野で、一体、何をしているのだろうか?


「孔明ちゃんに会おうと思って草庵を訪れたが不在、それで新野に来たのだが、ここでもすれ違いとは、俺は嫌われているのかねぇ?」

「さぁ、それは私では、何とも分かりかねます」


生真面目に答える趙雲だが、こちらの都合を優先させなければならない。

張飛と同じく趙雲も龐統に避難するように促した。


「諸葛軍師の指示です。どうか城を出て下さい」

「孔明ちゃんの指示ねぇ。一体、どんな作戦なんだい?」


そんなことを気にもとめない龐統は、諸葛亮が授けたという策の確認を行った。

諸葛亮の知人となれば、無下に扱うこともできない。

仕方なく張飛がぶっきらぼうに書簡を渡すと、目を通していた龐統の顔が渋く変わった。


「うん。さすがの孔明ちゃんも時間がなかったのと、書簡一つじゃ細かい指示はできないと諦めたか」

「どういうことでしょうか?」


その言葉に趙雲が食いつくと、龐統は、

「主だった将を集められるかい?」と聞くのだった。



ほどなくして、新野城外に張飛、趙雲、陳到、劉封、関平、糜芳、周倉などの武官が集められる。

そして、龐統は、それぞれの将に詳細な指示を与えるのだった。

諸葛亮の策から大きな変更はないが、陳到にだけ新たな役割が与えられる。


その様子を見ていた文官の孫乾が、勝手に作戦変更をしていいものか、不安を覚えた。

それは実際に実行する将たちを代表しての言葉でもある。


「大丈夫だ。責任は俺がとる」

その不安を張飛が解消した。

劉備の義弟であり、この中では趙雲と並んで、格上の張飛が認めるというのならば、作戦実行する者たちの不安など、どこ吹く風へと変わる。


「さすがは中華最強の漢。張飛将軍、あなたの器はとてつもなく大きい」

龐統は、手放しに張飛を褒める。同じく、趙雲も賛辞を送った。


「俺は諸葛軍師に会うまでは、どこか知者というのを軽く見ていた。しかし、博望坡で間違いに気づかされ、一度目は必ず信用することにしたんだ。まぁ、二度目は、結果次第だがな。」

「一度目だけは必ずね。・・・うん、軍師と将軍は、それくらいの緊張感があった方が丁度いい」


諸将は、納得し龐統が指示する持ち場につく。

諸葛亮の書簡では、記載がない細かい時刻に合わせた待機位置までも言いつけた。


そして、孫乾、麋竺と麋夫人の警護のため趙雲が新野の住民を連れて出発する。

ここで趙雲を欠くのは戦力的に厳しい。


しかし、警護対象は麋夫人だけではなく生まれて間もない劉備の嫡男、阿斗君あとぎみもいたため、万が一でも曹操の手に渡るわけにいかない事情があったのだ。

諸葛亮の書簡にも、そのように指示があったので、張飛も納得して趙雲を送り出す。


「子龍、頼んだぞ」

「命に替えても奥方と若君をお守りします。益徳殿もご武運を」

「ああ、分かった」


出発前、二人の間には、こんなやり取りがあった。

型通りの挨拶だが、認め合う勇将同士、通じるものがしっかりとある。

そこにお互いの任務達成を疑う余地はなかった。


趙雲たちが出発してから二日後の黄昏時、曹仁と曹洪の軍が新野城に到着する。

見るからにもぬけの殻に見える状況に二人は、劉備の逃げ足の早さをあざけ笑った。


「まぁ、邪魔者がいないというのであれば、ここで一休みするか」

「それも良かろう」


曹仁と曹洪は、長い行軍を強いて来た兵馬を休ませることにする。

劉備が新野の住民まで連れ出しているのであれば、その足取りは重いはず。

翌朝からでも、十分に追いつけると算段したのだ。


それから、時が過ぎた宵の口、曹仁と曹洪が酒を酌み交わしているところに、兵たちの火事だと騒ぐ声が耳に入る。

二人が確認すると、確かに城内、至る所から火が上がり始めていた。


「罠か」

曹仁が叫ぶと、曹洪も続いて城からの退避を指示する。

しかし、北門、南門、東門は封鎖され火の海へと変わると、残されたのは西門のみだった。

導かれた曹仁、曹洪軍は西門で待ち構えていた劉封、関平軍に手ひどい攻撃を受ける。


何とか逃げる両軍の前に、今度は張飛が登場した。

混乱した状況で、まともにこの猛将に対抗できるわけもなく、張飛に追い立てられると水深浅い川が目の前に現れる。

この川を横切って、窮地を脱しよう試みた。先頭の曹仁と曹洪が渡り切った矢先、何かが爆発したような音とともに激流が曹操軍を襲う。


川の上流で止めていた水を陳到が、張飛の合図とともに、その堰を切ったのだ。

曹操軍はこの水流に飲み込まれ、ほぼ壊滅状態へとなる。

諸葛亮の策、この空城の計では、主に足止めを目的としていたが、そこに龐統が手を加えたことにより、曹操軍の先鋒部隊を討ち破ることができたのだった。


張飛は龐統の差配に感服し、礼を述べようとしたのだが、その本人の姿は、どこにもいない。

何とも最後まで捉えどころのない男だったが、張飛たちとしてはすぐに劉備を追いかけなければならなかった。

軍をまとめると、新野城から出立していく。


「劉皇叔ねぇ。なかなか優秀な連中を揃えているな」

木陰から張飛たちを見送る龐統は、寸分たがわず指示通り動いた諸将と、今も隊列乱れずに行軍する劉備軍に高評価を下した。


「これに孔明ちゃんと俺まで加わったとしたら、何とも贅沢なことだわな。・・・まぁ、何時のことになるか分かりゃしないがね」

龐統は高笑いをすると、林の中に紛れていくのだった。

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