第83話 大戦の火種

一年ほど前、曹操が下邳城を包囲したとき、河内かだい太守の張楊ちょうようが呂布に味方し、曹操を背後から強襲するという計画を立てた。

しかし、部下の楊醜ようしゅうの謀反にあい、その野望は霧散と消える。


その後、楊醜は河内郡の兵をまとめて、そのまま曹操の陣営に与しようとするのだが、それをよしとしない人物がいた。

それは同僚の眭固すいこである。


眭固は、その昔、黒山賊の頭目をしていたことがあり、兗州東郡を根城にして付近の村を襲っては、略奪行為を繰り返していたことがあった。


そんな無法地帯の対策として、朝廷は新しい東郡太守を派遣する。新任の太守は、巧みな用兵術によって黒山賊を完膚なきまで、叩きのめすのだった。


その時、仲間だった于毒うどく白繞はくじょうは殺され、眭固は根城を放棄する。東郡から逃げだすと同時に、黒山賊からも足を洗って河内郡に流れ着いた。

その時の東郡太守が、何をかくそう曹操孟徳、その人だったのである。


ほとんど逆恨みだが、眭固は曹操に対して、強い恨みを持っていた。

曹操陣営に入り、手助けするなど考えられないこと、眭固は楊醜に詰め寄る。


「張楊を殺ったことを、どうのこうの言うつもりはないが、何で曹操なんかにつこうと思うんだ?」

「曹操は天子を味方につけている。逆らう者は、みんな朝敵だ。つくなら曹操の方がいいに決まっているだろ」


眭固の質問に、楊醜は自分の考えを説明した。

十分、理にかなっているように聞こえるが、眭固には響かない。


「ふん。だったら、見解の相違ってやつだな」

眭固は懐から、短剣を取り出すと楊醜の胸を一突きした。


返り血を浴びながら、「俺は曹操って奴を信用できない。あいつにつこうって奴も信用できない。そんな奴は、俺の前から消えやがれ」と、返事が出来なくなった楊醜に罵声を浴びせるのだった。


眭固は、動機はどうあれ、楊醜を殺害し形の上では主君の仇討ちをしたことになる。

これにより、張楊の長史だった薛洪せつこう繆尚りょうしゅうの協力を取り付けることができた。河内郡の軍をまとめることに成功するのだ。


その軍を野王県やおうけん射犬聚しゃけんように駐屯させると、袁紹の傘下に入ることを表明する。

薛洪や繆尚には、射犬聚に待機を命じて、自身は袁紹との合流を目指した。


この一連の流れに、当初は張楊討伐の準備をしていた曹操は、そのまま眭固を討つと決断する。

というのも、河内郡を袁紹に抑えられると、許都と洛陽の両方を臨む形が出来上がる。

防衛の観点から、両京に対する距離が縮められることを嫌ったのだ。


曹操は、袁紹の本格的な支援が始まる前に、この地を制圧しておこうと考えた。

眭固と袁紹の合流を防ぐべく、眭固の冀州到達前に叩く。


曹仁を総大将とし、于禁、楽進、徐晃、そして、今回、客将として、史渙しかんを派遣した。

史渙は中軍校尉に就いており、いわば朝廷側の人間として、軍を監督する立場で同行する。


これは、先だって発覚した、董承の謀反計画を受けて、朝廷に対する配慮を曹操が考えていると形で示したものだ。

但し、内実は、史渙は曹操と同郷の沛国出身。

以前からの知り合いだったため、史渙は余計な口出しはしないことを心得ている。


曹仁たちは、許都から出発して、黄河を渡ると眭固軍にすぐ追いついた。

眭固は曹仁が迫ると犬城に立て籠るのだが、軍の練度の違いか、簡単に攻め落とされる。眭固はその場で打首となった。


残るは射犬聚の薛洪と繆尚だが、こちらには、以前、張楊に仕えていたことがあり、二人の知人でもある董昭とうしょうを単独で使者に送る。

董昭の説得に応じた薛洪と繆尚は、全面降伏すると、曹操は彼らを赦した。


曹操は、迅速に河内郡を平定することを達成するのだった。

但し、今回の件で、袁紹との対決がいよいよ現実味を帯びることになる。

とりわけ、袁紹の怒りを大いに買ってしまったのだ。


「孟徳が私に助けを求めた窮鳥を無惨に殺したのは、これで二度目だ。私の面子は、丸潰れだが、諸兄はどう思う?」

以前、袁術が袁紹に助けを求めた際にも、曹操は合流を阻んでいる。

袁紹は、その件も含めて、今回の曹操の対応は自分に対する挑発だと考えたのだ。


すると、沮授は袁紹の興奮を抑えるように諫めた。

「前も今回も、我らの領土を侵されたわけではございません。天子を擁する曹操を攻めれば、我らは朝敵となってしまいます。公孫瓚のような無頼漢を相手にするのとは、話が違うのです。ここは、慎重になった方がよろしいでしょう」

それは、自分の意に反する言葉だった。


そこで袁紹は、以前、許都を攻めるように進言した田豊に意見を求めた。

ところが、田豊からは、

「あの時は、張繡に呂布と曹操は難敵を抱えていました。しかし、今となっては、張繡は牙を抜かれ、呂布はこの世におりません。時期を逸してしまったのです」

今、曹操を攻めるは得策ではないと、袁紹を失望させる答えが返ってくる。


その状況に郭図が進み出た。

「沮授殿の意見は、現在の安全を維持しようという考えです。それでも確かに、この先、一、二年は安泰でしょう。しかし、五年後はどうでしょうか?曹操の暴政が肥大したとき、手に負えない相手となっている可能性があります」

袁紹が危惧していたのは、まさしく郭図の言葉だった。


下に見ていた曹操が、いつの間にか自分に対抗できるだけの力をつけて来た。

このまま成長されると、将来、自分が曹操の下につくのではないかという不安があるのだ。

それだけは、袁紹の自尊心が許さない。


「近いうち、曹操と雌雄を決する戦いを行う。諸将は、今から準備にとりかかることを命ずる」

袁紹は、郭図の意見を容れ、居並ぶ文官、武官に対して、そう宣言すると、もうそれ以上の異論は認めなかった。


自分の言葉が袁紹を動かし、主君の心の琴線にも触れたと感じた郭図は、ここぞとばかりに沮授の追い落としにかかる。


「現在、軍を総督する監軍の地位にある沮授殿ですが、安全策のみをとるばかりです。これでは、臨機応変の対応ができない可能性があります。権限を分けて、別に行動できる軍をつくるべきかと思います」


袁紹は、郭図の言葉に大いに頷くと、監軍の権限を分割し三つの都督に分けた。

都督には、沮授、郭図、淳于瓊の三人を任命し、それぞれに一軍を任せることにする。

三名は謹んで、新しい役職を拝命するのだった。



『なぜ、沮授は黙っておる。まさか、納得しているわけでもあるまいに』

その新しい人事に田豊は不満を持つが、口には出さない。


田豊の物言いは、時には言葉を選ばずに剛直となるため、主君の不興を買うことがしばしばあった。

特に今は、袁紹自身が意図する展開となり、機嫌がいいところを逆なでするような真似は控えた方がいいと判断したのである。


田豊が不満に思ったのは、単なる人選。

監軍の権限を分けることには賛成だが、その都督が郭図と淳于瓊では、役者が悪すぎる。


現在の袁紹陣営において、この田豊に匹敵する知者は、沮授のみと考えており、その沮授と同格扱いがあの二人では、今以上の足の引っ張り合いになるのは必定なのだ。


沮授もそのことに気付いているはずなのに、何も言わないのが歯がゆくてたまらない。

これは、手をこまねいていると、袁紹軍が巨大な泥船になりかねないと感じた田豊は、曹操との決戦に策をめぐらすことにした。


田豊が曹操との戦いに反対したのは、絶対に勝つ状況が、まだ、作り出せていないからだ。

では、どうすれば勝てる状況となるのか?

それは簡単なこと、張繡や呂布がいたときのように、曹操の周りに有力な敵を作り出せばいいのだ。


『さて、それでは、徐州の民を扇動するかの』

徐州の民は曹操に、心から心服しているわけではない。また、反旗を翻すに丁度いい神輿となるべき劉備も近くにいる。

曹操から徐州を切り離す条件は揃っているのだ。


曹操の神経をすり減らし軍の分散さえできれば、袁紹が勝つ確率は格段に高くなる。

戦の勝敗は何も戦場だけで決まるわけではない。

田豊の戦略は勝つべくして勝つ。

理想は戦が始まる前に勝敗が決していることだと思っている。


田豊は、手の者を集めると早速、徐州の切り崩しにかかった。

「さて、曹操も劉備も儂の掌で踊ってもらおうか」

誰もいなくなった自室で、田豊は、そううそぶくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る