第107話 徐庶との別れ

曹仁撃退の報せに、新野だけではなく襄陽城でも民衆が沸き立つ。

まさしく劉備を新野に配置した意味、劉表の狙いが達せられたのだ。


そして、称賛は劉備だけに留まらず、新軍師の徐庶にも集まる。

その結果に蔡瑁は、苛立ちを隠さなかった。


「徐庶とは、あの徐福ではないか。・・・我が一族を手にかけておきながら、英雄気取りとは、片腹痛い」

巷では、荊州の次の盟主は劉備こそ相応しいのでは、というのも小さい声だが聞こえている。


劉備が劉琦と一定の距離をとるようになり、安心していた矢先・・・

これでは劉琮を跡取りにする計画に狂いが生じてしまう。


かといって、劉備に手を出すことは、簡単ではなかった。

やはり、前回の失敗が響いている。

劉表にきつく、止められているのだ。これ以上の勝手は、もう許されない


確かに曹操と対決することを考えれば、劉備の力は荊州にとって不可欠である。

害することは、損しかない。

但し、あくまでも対決するという前提があってのことだ。

曹操への外交手段として、対決以外の方法がないかと、蔡瑁は考える。


実は蔡瑁は曹操とは旧知の間柄だった。立ち回りさえ間違えなければ、劉琮を荊州牧に取り立ててくれるという目があるのではないか?

今から、恩を売っておけば、後々の交渉に好影響が出る可能性があるが、さて、どうしたものか。

しばらく考え込んだ蔡瑁が、にやりと笑う。


「たしかあいつは、評判の孝行息子。こいつは使わない手はないな」

笑い声が徐々に大きくなる。下卑た笑いが、蔡瑁の自室の中で響きわたった。



曹操の前で、曹仁が平伏する。

先の新野での敗戦報告を行っていたのだ。


「ただの一敗ごときで、いちいち咎めはしないが、汝南で劉備を手玉にとった君が、こうも簡単に敗れ去るのは理解しがたい」

接戦の末、敗れるならば分かる。勝負は時の運も関係するのだ。

だが、今回のような鎧袖一触がいしゅういっしょくは、これまでの戦績を鑑みても解せない。


曹仁に限って、油断があったとは考えにくいため、尚更だった。

では、新野で一体、何が起こったのだろうか?曹操は不思議でならない。

曹仁も劉備など軽く一蹴し、襄陽城攻略の足掛かりとしたかったところの躓き、自分の中でも、なかなか消化しきれないでいた。


「どうやら、劉備は新たな軍師を迎えたようでございます」

「ほう。力任せが主流だった劉備に知者がついたか」


これは少々、厄介かもしれないと曹操は思う。

劉備が擁する関羽、張飛、趙雲は、曹操がよだれが出るほどに欲しい武勇の逸材だ。

ただ、惜しむらくは、今まで彼らを使いこなす人材がいないがために、劉備は現在の境遇に甘んじていると考えられている。


ここで、三将の能力をいかんなく発揮させることができる軍師が劉備についたのならば、それは虎に翼を与えたようなものだった。

曹操は、その新たな軍師に俄然、興味が湧く。


「誰かその軍師の正体、心当たりのある者はいないか?」

すると、程昱が進み出て、曹仁にいくつか質問した。

曹仁も記憶にある限りの情報を伝える。


「まだ、確かなことは言えませんが、もしや以前、単福と名乗っていた者かもしれません」

「単福?聞いたことがない名だな。何者だ?」


曹操の問いに、程昱は、

「単福とは、以前、友人の敵討ちを手伝ったがために牢に入ることとなり、その後、何とか脱獄いたしました。ゆえの変名でございます」と、回答する。


続けて、「本名は徐福。彼の能力の前では、私など、その足元にもおよぶことができません」

「それほどか」

程昱の発言に驚くとともに、その徐福とやらを配下に迎え入れたいと考える曹操だった。


しかし、彼の武勇伝を聞く限り、義理堅い人物に思える。寝返りは難しいだろう。

「そのような知者がいるのであれば、迂闊には攻められない。南征は、準備が万全に整ってから行うことにする」


荊州攻略の方針を、曹操が決定した三日後、許都にある人物が届けられた。

曹操は、その人物の取り扱いを慎重に考慮する。


「ご母堂は、どのような理由でこちらに?」

「それは、私が聞きたいです。家にいたところを無理矢理、連れてこられ、気が付けばこのようなところにいるという次第です」

「う・・・む」


曹操の前にいるのは徐福の母親らしかった。荊州の臣、蔡瑁の手の者が、こちらに連れてきたという。

一体、蔡瑁は何の目的で、こんな高齢の母親を曹操に引き渡したのだろうか?


「荊州も一枚岩ではないということでとでしょう」

「どういう意味だ?」


程昱は、劉表の息子が二人いて、後継者争いをしていると説明する。

蔡瑁は政敵である劉琦に近い、劉備の弱体化を狙って、徐福の母親を拉致したのではないかと推察した。


それが本当ならば、何と愚かな発想だろうか。

あの名門、袁家がどうして滅んだのかをまるで学習していないようだ。

逆を言えば、このような馬鹿ばかりだから、曹操が勝ちを拾えて、ここまで勢力が大きくなったといえるのだが・・・


いずれにせよ、この母親が徐福の急所だとすれば、利用しない手はない。

不穏な空気を察した徐福の母親は、家に帰してくれるように嘆願するが、曹操は聞き入れなかった。

すると、曹操の非道を罵る。


「そうやって、私を怒らせようとしても無駄ですよ。間違っても、貴方を手にかければ、息子さんが復讐の念に燃えて、ますます厄介な敵になる」

自分の狙いを曹操に見透かされると、徐福の母親は大粒の涙を流す。


「私が長生きをしたばかりに、息子の足を引っ張るようなことが起きるなんて・・・」

親子の情を利用して申し訳ないが、徐福が指揮を取れば味方の兵が多く死ぬ。

その味方の兵にも家族はいるのだ。そう考えれば、非情になるしかない。


「徐福に、母親を丁重に預かっていることを報せるんだ」

曹操の使いが新野へと走るのだった。



手紙を受け取った徐庶の手が震える。

とてもではないが信じられない。いや、信じたくなかった。


その手紙には、

『徐福殿、あなたの御母堂が一人、許都で暮らしている。賢者を愛する私としては丁寧に扱っているつもりだが、やはり息子に会いたいと思う気持ちは抑えらないらしい。どうか、許都に赴いて、親孝行をなされては、いかがだろうか?』と、曹操の直筆で書かれた文章があった。


内容は丁寧な文章だが、要は人質をとっていますよという、曹操からの申告である。

ようやく理想の主君に巡り合えたというのに・・・

徐庶は忠と考の板挟みとなり、揺れ動く。


しかし、一人で、悩んでいても解決しない。

徐庶は、劉備に相談するのだった。


「まさか、曹操さんがこんな手でくるとは思いませんでしたね」

「きたねぇな、あの野郎」


簡雍と張飛が、率直な感想を漏らす。その他の者は、言葉がないようだ。

重苦しい雰囲気の中、劉備は徐庶に笑顔を向ける。


「お袋さんのところに行ってあげな」

「ですが、それでは・・・」


そう劉備は徐庶という大きな戦力を失うことになるのだ。だが、そんなことは劉備も十分承知している。

そこを理解して話しているのだ。


「ご命令とあらば、私はここに残ります。・・・そうすれば、きっと、曹操は・・・」

「それ以上は言うな。そいつを言っちまったら、徐庶、お前はお袋さんに会わせる顔がなくなってしまう」


徐庶が言おうとしていたのは、曹操は利用価値のないと知れば、母親をきっと殺す。そうすれば、曹操打倒に、徐庶は全精力を注ぎこむとになるということだった。


だがしかし、それは親子の情を利用するよりたちが悪い、情を切り裂くもの。

劉備の選択肢の中には、初めからない。


「・・・申し訳ございません」

徐庶は、そう言うしかなかった。


「徐庶殿が悪いわけではない。こうなれば、笑って、皆で見送ろうではないか」

「そうですね」


関羽の意見に趙雲が同意する。その他の者も一様に頷くのだった。

「笑顔でお別れか・・・難しい注文だが、それが一番だな」



翌日、劉備以下、関羽、張飛、趙雲、簡雍ら主だった者が総出で、徐庶を城外まで見送った。

一緒に五里ほど進むと、いよいよその時がやってくる。


「いつまでも一緒にいると別れがたくなってしまう。徐庶、ここでお別れだ」

「はい。どうか、皆さま、ご壮健で」

小さくなる徐庶の騎影を見つめ、約束通り笑って見送れただろうかと自問する劉備。

涙をぐっと堪えるのだった。


「兄者、そろそろ戻りましょう」

関羽に促されると、新野城に戻ることにする。

徐庶と別れた場所から、二里ばかり進んだところで、後方より、呼ぶ声が聞こえた。

振り返ると、そこには徐庶の姿がある。


「どうした?」

「惜別の念にかられて、大切なことを伝え忘れました」

「大切なこと?」


徐庶は、劉備と出会った折り、師の水鏡から『伏竜』と『鳳雛』の人物について話があったことを思い出してほしいと言った。

最後にその人物について、伝えようと思っていたのを失念していたらしい。


「伏竜とは、諸葛亮孔明しょかつりょうこうめいという者のこと。襄陽より西に二十里、隆中りゅうちゅうという村落に庵を構えております」

「そんな近くに大賢者がいたのか・・・それで、鳳雛とは?」

「鳳雛とは、龐統士元ほうとうしげん。彼の所在は、今のところ分かりません。訪ねるならば、隆中です」


貴重な情報を徐庶が伝えてくれた。ただ、気になることも付け加える。

「彼にとっては、迷惑なことだったかもしれませんが・・・」

「迷惑というのは?」

「俗世を離れて生活しているのです。今さら、世に出ようという想いは、ないかもしれません」


もしかしたら、気難しい人物なのかもしれないが、要は劉備が、その気にさせればいいということだろう。

「簡単にはいかないかもしれませんが、後事を託せるのは彼しかおりません」

「分かった。何とかしてみるさ」

「はい。の力を、存分に発揮して下さい」


どうやら、短い期間だったが徐庶は簡雍に毒されたらしい。

劉備が簡雍を睨むと、そっぽを向いた。


「任せておきな。俺は、徐庶に与えられた試練、全て乗り越えてみせただろう。今度もきっと応えてみせる」

「おお、そうでした」

二人は出会ったときのことを思い出す。

劉備は、約束通り、笑顔で徐庶と別れることができるのだった。

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