第66話 偽帝袁術

袁術の本拠地、寿春県。

小沛攻略に向かった紀霊将軍から、劉備との争いに関する伝達が届く。

『天意による和睦の申し出あり』


受け取った袁術陣営、特に重臣たちは、『天意による和睦』と聞きなれぬ言葉に、一体、何のことかと騒然となる。

しかし、袁術、一人だけは別のことで頭がいっぱいになってしまった。


『・・・そう、天意じゃ』

もう劉備のことなど、どうでもよくなったのか和睦に応じるという使者を紀霊将軍に返すと、袁術の中にある天意に基づく思いつきを実行しようとする。

それは、天子の僭称だった。


発端は河内かだいから流れてきた学者の張炯ちょうけいが、袁術を甘言でたらし込んだことに始まる。

張炯は、春秋識しゅんじゅうしきという予言書を持ち出すと、その中に『漢に代わるものは当塗高とうとこうである。』と記載されている解釈を、こう告げたのだ。


「当塗高とは、道に当たって高くなるという意味。高くなるというのは、つまり権力を極めるということです」

そして、道については、袁術の字が公路こうろであったことから、ずばり袁術のことを指すというのだ。


かなり強引な論説であり、主簿の閻象えんしょうなどは、いん紂王ちゅうおうしゅう文王ぶんおうの関係を引き合いに諫言をする。


しかし、張炯はさらに、

「袁氏は陳国ちんこくの出、つまりしゅんの子孫であり、舜は土徳。漢王朝は火徳であるため、五行説に則っても袁術さまが天子となるべき」と、譲らなかった。


そして、呂布から聞かされた天意という言葉。

「伝国の玉璽は、今、誰の手元にある?この儂ではないか。これが天意といわず何を天意というのだ?」

もう、袁術を止めることは不可能。


群臣の諫言は、何一つ届くことはなく、強引に寿春で祭事を執り行う。

袁術は、ついに天子を僭称し国号をちゅうと定めるのだった。

「朕は、羽毛に包まれたような心地よさじゃ」


有頂天になっているのは、袁術本人だけで、臣下はもとより周りの諸侯の反応は冷たい。

祭事の招待には、誰も応じるわけもなく、唯一、やって来たのは孫策からの絶縁を告げる使者だけだった。


それでもへこたれない袁術は、いつか諸侯の目を覚ませてやると広言する。

もはや、この件に関して語る配下は、誰もいなくなった。



諸侯が袁術の天子僭称に関わらないのは、別に許したわけでなく、相手にするのが面倒なだけ、しかし、曹操は看過できないと考える。


朝廷の権力を利用し、呂布と孫策に袁術の討伐の詔勅を発するのだった。

自身の徐州牧を正式に認めてほしい呂布と玉璽を渡した負い目がある孫策は、その勅に応じる。


ところが、孫策が準備しているところに、前揚州刺史の陳瑀ちんうが隙をついて、丹楊郡を奪い取ろうと画策したのだ。

その動きを察知した孫策は、呂範りょはん徐逸じょいつに陳瑀が潜伏する下邳国海西県を攻めるよう指示する。


先手を打たれた陳瑀軍は、まとめる将、陳牧ちんぼくが呂範に討たれると総崩れとなった。

陳瑀の野望は雲散霧消うんさんむしょうし、単騎で冀州の袁紹を頼ることになる。


ここで孫策は、丹楊郡に潜在する反乱の目を摘んでおこうと考えた。

陳瑀に加担しようとした山越さんえつと呼ばれる異民族の頭領、厳虎げんこらの殲滅である。


山越族とは、揚州を中心に生息していた先住民たちのことだ。

漢民族の進出により、多くの者たちは山奥地へと追いやられていくが、その中で、自分たちの武力を背景に漢の統治に反抗しながら土地を守る集団が生まれる。


その一つをまとめていたのが、厳虎だった。

厳虎は、陳瑀という後ろ盾をなくしたため、孫策に対して、独力では対抗できない判断すると、すぐに降伏の使者を送った。


使者に選ばれたのは弟の厳輿げんよで、素早い身のこなしを自負する豪傑だった。

矛を一度も交えずに不利とみるや、すぐに降参する厳虎の態度が気にくわない孫策は、不機嫌ながらも厳輿と会見を行う。


「この度は、陳瑀に騙されてしまい、申し訳ございません」

「それでは、騙されるたびに俺と敵対するのか?」

「い、いえ、そういうことではございません」


やはり、会うべきではなかったと孫策は後悔する。厳輿の言葉が、どうも薄っぺらいのだ。

これでは、何かあれば、また裏切ること間違いない。


どうせ、この交渉を破断とするならば、厳輿を生かしておく道理はないが、会見の席で殺すのは、今後の外交上あまりよろしくなかった。


そこで、孫策はある賭けを厳輿に持ち出す。

厳輿は山越の中では武芸者と知られ、どんな刃でも避けられるとうそぶいているらしい。

その評判を利用することにした。


「五歩の距離があれば、どんな手戟でも躱せるというのは本当か?」

「ええ、それは間違いないです」

「ならば七歩の距離で、手戟を躱すことができれば、降伏を認めよう」


孫策の提案に厳輿は大喜びする。五歩で余裕なのに七歩とは・・・

自分の得意分野で目的が達成できるのならば、こんな楽なことはない。

「それでは、太史慈、頼む」

「え?」


孫策が相手をするとばかり思っていた厳輿は、予想外の相手に驚いた。

太史慈といえば、弓の名手として有名だが手戟の腕前も達人級だと聞いたことがある。

厳輿もそこまでの相手の手戟を躱したことはない。


「ちょ、ちょっと待ってください」

「さぁ、やれ」


孫策は聞く耳を持たず、太史慈に手戟を投げるよう指示する。

素早い動作から、放たれた手戟は、見事に厳輿の眉間に突き刺さるのであった。

「なんだ、嘘ではないか」


孫策は厳輿の死体を厳虎に送り返し、降伏など認めないと伝えた。

厳輿が殺されたことで、完全に戦意を失っていた厳虎は、孫策軍にあっさり敗れると、知人である呉郡余杭県よこうけん許昭きょしょうのもとに身を寄せる。


孫策は、許昭の人となりを知っており、彼のもとにいるのであれば、もう反乱を起こすことはないだろうと追撃を止める。

実際、以降は孫策に逆らうことはなくなるのだった。



陳瑀の対応に追われたため孫策は、詔勅に従うことができなくなったが、呂布は珍しく律儀に袁術討伐に向かう。

和睦を結んで間もないというのに、それを反故にしてまで、徐州牧と認めてほしいようだ。


呂布は、まず袁術の手先となっていた韓暹と楊奉に対し、徐州の重鎮である陳珪ちんけいを遣わして懐柔する。


韓暹と楊奉は、袁術について日が浅く、忠誠心も低い。

陳珪が提示した報酬に、すぐに飛びつくと、総大将である張勲ちょうくんの兵に襲いかかった。


突然の裏切りに張勲は対処できず、被害は甚大なものとなる。

呂布軍にも追い立てられると、ほぼ壊滅状態となり、九江郡の鍾離国しょうりこくまで退却するのだった。


しかし、呂布軍の追撃の手は緩まない。

淮水わいすいという河も利用し、水陸両面で進軍すると橋蕤きょうずいという将まで生け捕りに成功する。


たまらず、袁術は自ら大軍を率いると淮水の南に布陣した。

呂布は北に布陣するが、戦果としてはもう十分であり、自分から決してけしかけることはしない。


袁術のことを大声で侮辱したり嘲笑したりと挑発しながら、渡河してくる船に矢を浴びせて撃退するのを繰り返した。

対岸で対峙すること十日、まるで戦に飽きたように呂布軍は退却する。


残された陣の跡には、橋蕤が一人残されており、その背中には、『偽帝の臣』と落書きがされていた。

それを見た袁術は、大いに怒るが、徐州を攻めるだけの戦力はもう残されていない。

仕方なく、そのまま寿春に引き上げるのだった。



下邳城に戻った呂布は、朝廷の指示通りに働き、成果もあげたことから、徐州牧に任じられるだろうと、陳珪の息子の陳登ちんとうを使者として朝廷に送る。


ところが、使者として向かった陳登は広陵太守に任命されるが、肝心の呂布の徐州牧の件は認められなかった。

呂布は怒り狂うと、方天画戟で机を叩き割る。

「お前、俺の手柄を売って、自分だけ高い地位をもらってきたな」


怒りの矛先は、使者の陳登に向けられた。

しかし、陳登は朝廷で権力を握る曹操とのやり取りを説明し、呂布の気持ちを和らげる。

「私は、『呂布将軍は猛虎のような人です。戦果をあげて、今はお腹を空かせている状態、ぜひ大量の肉をお与えください。』とお伝えしました」


大量の肉とは、つまり徐州牧のことを指す。

陳登は、暗に徐州牧に任ずるように要求したのだと言う。ところが、それに対する曹操の回答は、こうだった。


「呂布将軍とは、鷹のような人物だ。もしお腹を満腹にしては、空高く飛ぶことができなくなるだろう。高く飛べる呂布将軍だから、天下無双なのだ」


呂布は、その言葉を聞くと、曹操が自分のことを認め褒めていたと思い、それだけで満足するのだった。

何とも単純な男である。


実は、陳登が曹操と面会した際に、内通を促され呂布を見張る役目を任されたとは、露ほどにも思っていない。


使者としての報告を終えたため、陳登は呂布の前を辞すが、その時、陳宮と目が合った。

何やら言いたそうな顔をしているが、確証がないため、踏み込めないようだ。

呂布陣営の中では、この人物にだけは注意しなければならない。


お互い、腹のうちは見せずに、職務の苦労を称え合う。

そして、最後に笑うのは自分だと、頭の中で思いながら背中を向け合うのだった。

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