第5章 孫家悠久編

第26話 冀州強奪

反董卓連合解散後、袁紹は兵糧不足に難儀していた。

今のままでは、領地の渤海ぼっかいに戻ることもままならない。


軍を進めることもできず、司隷河内郡しれいかだいぐんで立ち往生をしていると、その噂を聞きつけた冀州刺史きしゅうしし韓馥かんふくから兵糧を援助する旨の書簡が届いた。


その報せに袁紹は大層、喜んだが部下の逢紀ほうきが進言する。

「袁紹さまは袁家の当主たるお方。韓馥ごときの施しに喜んではいけません」

「だが、兵糧を拒んでは、国へ帰れぬぞ」

「拒む必要はありません。奪うのです」


袁紹は奪うという言葉に難色を示した。

そのような盗人のようなまねは、袁家として断じて行えないという。

しかし、逢紀は袁紹に将来の展望と合わせてことの重要性を説いた。


「奪うのは兵糧ではございません。冀州のことです」

「冀州?領土か?」

「はい。冀州は肥沃な土地。人材も豊富にそろっております。この地を基盤とすれば、董卓に対抗するに十分な力となるでしょう」


確かに冀州は袁紹にとって、魅力的だが、連合軍としてともに戦った同志の領土を、武力をもって制するのは、世間からのそしりを受けるのではないかと心配する。

それではと、進み出たのは荀諶じゅんしんだった。


「私は韓馥と同郷です。利をもって冀州を袁紹さまに譲るよう説き伏せてまいりましょう」

「そんなことが可能なのか?」

「はい」


荀諶と逢紀が同時に頷く。

この提案は二人のはかりごとのようだ。


何にせよ、向こうから譲るというのであれば、拒む理由はない。

自分の名前が傷つくこともなく、逆に世間に袁紹の威光を示すことになるかもしれない。

早速、荀諶を韓馥のもとへ送るのだった。



「兵糧の件、袁紹さまはいたく感謝しておりました」

「そうか。連合軍は解散したが、袁紹殿はともに戦った同志。窮地は見捨てられんからな」

あまりにも人のいい返答をする韓馥に、荀諶は与しやすいと内心ほくそ笑むのだった。


「窮地と言えば、袁紹さまは韓馥殿のことを、いたくご心配なされていました」

「私の心配?」

思い当たることが何もない韓馥は、何かあったかと荀諶に尋ねる。


「実は、この冀州を公孫瓚が狙っているという噂がございます」

「公孫瓚殿が?・・・・いや、それはないであろう」


公孫瓚も同じく反董卓連合で戦った仲間。

特別、親交があるわけではないが、そのようなことをする人物には見えなかった。


「いえ、韓馥殿が連合軍に参加中、離反した麹義きくぎと公孫瓚が連絡をとりあっているとのことです」

「それはまことか?」


麹義は韓馥の配下の中でも名うての将だったが、董卓と同郷だったため、諸侯に無用な疑心を持たれぬよう、反董卓連合の際には領地で待機を命じた。


しかし、それが冷遇されていると感じた麹義が謀反を起こしてしまったのである。

その討伐が、まだ済んでいない。

もし、公孫瓚と組まれるようなことがあれば厄介なことになるだろう。


「確かな情報なれば、袁紹さまもご心配されております」

「袁紹殿がそう申すのであれば・・・では、どうしたらよいと思われるか?」

荀諶は、その言葉を待っていたので、身を乗り出して韓馥に説明をする。


「公孫瓚のもとには、あの劉備兄弟がおります。呂布をも撤退させる強者。まともに戦っては、厳しいでしょう」

「・・・確かに・・」

連合軍内おける関羽と張飛の闘いぶりは語り草になるほど有名である。

それが自分に向けられるとなると、韓馥は想像するだけで恐ろしくなった。


「しかし、そう心配なさらなくても結構」

「と、言うと?」

「袁紹さまのもとには、くだんの関羽、張飛にも引けを取らない文醜、顔良という猛者がおります」

おおお、と韓馥は膝を叩く。


「つまり、袁紹殿が助太刀してくださるということか」

「はい。つきまして、袁紹さまの軍が領内に入ることの許可をいただければと思います」

「それは、もちろん。認めようではないか」

これで第一段階を越えた。荀諶が次なる一手を考えていると、長史ちょうし耿武こうぶが韓馥の前に進み出る。


「お待ちください。袁紹をこの国に入れるなど、狼を警戒し虎を招き入れるようなもの。袁紹に冀州を奪われてしまいます」

耿武の諫言に、得たりと荀諶が反論する。


「耿武殿は、今、奪われるとおっしゃいましたが、土地とはそもそも天下のもの。奪われるという言い方は傲慢ではありませんか?」

「殿。こやつらの本性を現しました。今のは、暗に冀州を自分たちのものにするという発言です」


耿武は激しく荀諶をののしり、韓馥に再考を願う。

しかし、韓馥は考え込んだ後に、

「実は麹義の離反があって、私はずっと考えていたのだ。・・・良かれと思った行動が裏目に出てしまう」と弱気な発言をする。


「それは、麹義に忠義心がなかっただけのこと」

「いや、私には冀州を治めるだけの器がないのかもしれん」


それをどう切り出そうかと考えていた荀諶は、内心、笑いが止まらなかった。

自ら言い出してくれるとは大助かりだ。

そのようなことはありませんと、耿武は引き下がらないが、韓馥の意思は固い。


策が成就したと思ったとき、沮授そじゅが手を挙げた。

「まずは、公孫瓚の件が事実かどうか確認してからの方がよろしいのではないでしょうか」

荀諶は舌打ちをする。


韓馥の配下で注意すべきは、この沮授と田豊でんほうの二人と見ていた。

田豊は自身が重用されていないことから、韓馥を見限っているはず。

先ほどから、部屋の隅でこちらをジッと睨んでいるが介入する素振りはない。


問題は別駕べつがに取り立てられている沮授。

厄介な人物が出てきたと警戒する。


ところが、その言葉も韓馥が簡単に退けた。

「いや、善は急げとも言う。袁紹殿を招き入れよう」

韓馥が高らかに宣言した。


『それが本当に善ならね』

沮授と田豊が同じことを考える。


この瞬間、沮授も韓馥を見限るのだった。

耿武だけは床に額を打ちつけるほどに悔しがっている。

こうして、冀州に袁紹が入り、冀州牧を襲名することになった。


袁紹が冀州に入る前日、韓馥の本拠地、魏郡鄴県ぎぐんぎょうけんから去る人影がある。

文若ぶんじゃく、行ってしまうのかい?」

荀諶が声をかけた若者は、弟の荀彧じゅんいくだった。


「ええ。今回は、はかりごと知りつつ殿をお諫めできませんでした。孝と忠の間に挟まれ、何もできなかったのです」

「お前が黙っていてくれて、助かったよ」

荀彧は乾いた笑いを見せると、兄に礼をして歩き出す。


「袁紹さまに仕える気は、本当にないんだな?」

「ええ。申し訳ありませんが」

見送る荀諶は肩をすくめた。


「落ち着いたら、便りをよこせよ」

それが今、兄としてできる精一杯の手向けだった。


荀彧が歩き出すとほぼ同時に、同じく鄴県を出ていく男を見つけた。

身の丈八尺に槍を背にする、なかなかの美丈夫だった。


「あなたも冀州を離れるのですか?」

「はい。袁紹は仕えるに足りません」


同意と荀彧は大いに頷いた。

「では、どちらに行かれるのですか?」

「北平に行こうと思っています」

「・・・公孫瓚・・ですか」


荀彧からしてみれば、公孫瓚は袁紹以下の人物だった。

見る目があると共感を抱いた青年の行動にがっかりする。

「いや、公孫瓚には期待していませんよ。袁紹と大して変わらない」

青年が荀彧の心情を察したかのように答えた。


「では、なぜ、北平に行くのですか?」

「・・・馬鹿な話と笑われるかもしれませんが、北平に行くことに意味がある」

青年は照れたように、はにかむと、

「運命の人がそこにいる。・・・そんな気がするのです」と自信を持って告げる。


不思議なことを言う青年だと荀彧は思った。

しかも、その言葉には虚言、妄想だと言いきれない、力強い意志を感じる。

「なるほど。失礼しました。私は荀彧文若と申します。あなたの名は?」

「私は、趙雲子龍ちょううんしりゅうと言います」


名乗った後、お互いの様子を眺め合う。

互いに只者ではないと感じとった。

とはいえ、いつまでも立ち話をしている時間はない。

それではと、それぞれ別の道を歩き出す。


荀彧は振り返り、趙雲と名乗った青年の背中を見送った。

はにかむ笑顔が、頭の中をちらつくのだ。

不確かなものに対しての、あのゆるぎない自信。


果たして、自分の運命の人物はどこにいるのだろうか。

これから会いに行く曹操孟徳が、そうなのか・・・

荀彧は、不安と期待を抱え、曹操が拠点としている兗州東郡えんしゅうとうぐんへと向かうのだった。

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