第85話 小覇王、夭逝す
ある明朝、呉郡呉県の城内で、孫策は考え抜いた末の決断を周瑜に告げる。
「公瑾、俺は許都へ向かうことに決めた」
曹操と袁紹の対決に話題が集中する世の中。
隙をついて、許都を攻め落とそうと言うのか。
君主が、そう決断したのならば、勝利のための策を練り上げ、全力を持って支えるのが軍師の務め。
「軍の規模はどうする?」
周瑜の頭の中では、すでに許都までを経由する進路、要所となる関や砦が浮かんでいる。
そんな天才軍師の様子に、一瞬、間をおいて、
「すまない。俺の言い方が悪かった」と、孫策が謝罪するのだった。
「言い方?どういうことだ?」
「いや、許都を攻めるのではない。玉璽の返還に行こうと思っただけだ」
今の情勢を考えると勘違いを起こしすいが、自分の早とちりに周瑜は赤面する。
確かに孫策は向かうとしか言っていない。
それでは、孫家の方針をどのように考えているのか、一度、確認しておこうと周瑜は思った。
「・・・それで、曹袁の争いでの、我らの立場はどうする?」
「結論を言えば曹操につくだが、正確に言えば、漢王朝につくだ」
「わかった。そこは張昭殿とも話を詰めよう」
華北に対する方針もほぼ、定まり、孫策は玉璽を返すため許都へ行く準備を始める。
まずは、父の墓前への報告を行うことにした。
孫堅の棺は、
孫策は譜代の臣、程普、黄蓋、韓当と周瑜を伴って、父の墳墓へと向かった。
墓前に着くと、
「すまないが、まずは、父と二人きりで話をさせてくれ。情けない姿を、あまり人に見せたくない」
孫策は、少しはにかみながら、供の者たちに、そう告げた。
「分かった」
周瑜たちは、一人、墓標に進む孫策の背中を見送る。
その間、程普、黄蓋、韓当は散開して孫策の警護にあたった。
自領とはいえ、野盗の類は出没するかもしれない。警戒するに越したことはないのだ。
そんな中、孫策は、孫堅のお墓に花を手向けると手を合わせて、心の中で念じる。
『父上から預かった玉璽を、天子さまに還しに行ってまいります。ここに至るまで、私は孝の道から外れましたが、ようやく正道に戻れます。どうか、これからの孫家を見守って下さい』
すると、不思議と暖かい風が孫策を包み込む。
それは、まるで、孫堅が返事をしているようだった。
孫策の気持ちがほぐれたのだが、その矢先、
『?』
その暖かい風に混じって、異臭が孫策の鼻をくすぐる。
その匂いは、道士が好む香のようだった。
「公瑾、賊がいるぞ」
「何っ」
孫策の声に周瑜が抜刀すると、散っていた程普、黄蓋、韓当たちも集まって来る。
前を見据えながら、孫策は白刃を片手に下がっていった。
不意に前方から飛んできた矢が、孫策の頬をかすめる。
「所在は知れたぞ。姿を現したら、どうだ」
孫策が前の林を睨みつけ、大声を上げると二人の男が現れた。
それは、一人は灰色の外套を纏った男、もう一人は弓を構えた若い男だった。
その若い男の方に、孫策は見覚えがある。
「
「そうだ、父の仇め」
孫策の刃は、揚州を制圧するために多くの血を吸ってきた。
今さら、仇と罵られても痛痒を感じない。
思い当たることが多すぎるのだ。
「もう一人は、
「我が尊師を殺めたこと、後悔させてやる」
于吉とは、太平道を究めたという年齢不詳の道士のことだった。
江南の地にあって、不可思議な呪文を唱えては、人々の病気の治療にあたっているという。
それは、まるで黄巾の乱の首魁、張角とやっていることが瓜二つ。
つい先日、江南の地で黄巾の乱の再発を恐れた、孫策が処刑したばかりだった。
これで二人の動機は割れた。しかし、大人しく二人の望みまで、叶えてやる孫策ではない。
「仇と言うが、この孫策の前に立ちはだかった者を屠っただけ、お前たちも立ちふさがるというのであれば、同じ道を辿ってもらう」
「刃でしか語れぬ狂人め」
道士の言葉と同時に、許貢の息子が弓を放つ。
孫策は、難なく打ち落とすと二つの違和感を覚えた。
一つ目は、先ほどの矢と今の矢では、矢勢が違う。そして、二つ目は、矢によって受けた、頬の傷がひりひりと痛みだしたのだ。それはただの矢ではないことを示す。
「まだ、他に仲間いるぞ。そして、毒矢を射っている」
孫策の言葉に周瑜たちは周りを見回すが、敵を捕捉できない。
他にも人を伏せているとすれば、迂闊に動くことができなくなってしまった。
「観念しろ」
許貢の息子が弓を捨てて、剣を持ち、孫策に突進してくる。
丁度、孫策が供えた花を踏みにじった。
「おのれ」
孫策も応戦して、斬り伏せると返す刀で、道士の男にも刃を突き立てた。
道士の男が血反吐とともに不気味に笑った瞬間、孫策の左肩と右足に激痛が走る。
はじめから囮になるつもりで、この道士は棒立ちでいたのだ。
別の仲間の矢は、孫策が動く前からこの道士に照準を合わせており、孫策が動いた瞬間に矢を放った様子。そのため、矢の一本は道士の体にも刺さっている。
さすがの孫策も斬る瞬間は無防備となり、毒矢の餌食となってしまったのだ。
孫策は、次第に足元がふらつくと、その場に倒れ込んでしまった。
「伯符」
周瑜が駆け寄ると、孫策から玉のような汗が流れていて、ひどい高熱も発している。
程普たちが矢を射た者たちを捕らえると、
その場で、三人の首を斬り落とし、苦しむ孫策を急いで近くの曲阿城まで、運ぶのだった。
孫策は居室の中で、三日三晩、うめき声をあげて苦しむ。
そして、四日目、静かな朝を迎えた。
不審に思った、周瑜が部屋の扉を開けると、寝台に体を起こした孫策がいる。
部屋に入ると、周瑜は孫策の変貌ぶりに驚いた。
頬はげっそりとこけ、目の下のくまもひどい。何より、これまで真っ黒だった髪の毛が白髪へと変わっているのだ。
周瑜は、心の動揺を見せまいと、平静を装って声をかける。
「もう大丈夫なのか?」
周瑜の言葉に返答はせず、孫策は、ただ微笑むのみだった。
その微笑にはかげろうのような、はかなさを感じる。それでいて、いつも以上の優しさに包まれていた。
「仲謀と張昭殿を呼んでくれ」
大きくはないが凛とした声に、何かを感じた周瑜は、熱いものが込み上げてくるのを、必死に堪える。
・・・そうなのか、伯符。
長年、ともに過ごした周瑜だからこそ分かる、孫策の機微。
孫策は間違いなく死期を悟っている。
「分かった」
間もなく、二人がやって来ると、まず、孫権に話しかけた。
「仲謀、お前には玉璽を託す。天子さまにお返しして、孫家を正道に戻してくれ」
「それは、お元気になられてから、兄上がなさればいいのでは?」
周瑜は、そんな孫権の肩を叩くと、首を振って見せた。
はじめ、その意味が分からない孫権も、その意図に気づくと、驚いた表情を孫策に向ける。
確かに昨日まで、苦しんでいたが、今は普通に話せているではないか・・・
信じられない。信じられないが、改めて、兄の目を見ると、
『そうなのですね』
孫権も覚悟を決めて、一言一句、最後の言葉を聞き漏らさぬようにした。
「仲謀、お前には二つの財産を残す。一つはこの揚州の地、もう一つは智勇揃った臣たちだ。お前は、この二つをもって、孫家を守り抜け」
「分かりました」
孫権は涙を拭きながら、承知する。
孫策は、孫権の頭に手をやると、優しい兄の表情をみせた。
「内のことは、そちらの張昭殿、外のことは公瑾に尋ねれば間違えることはない。お前は守ることに関しては、恐らく、この俺より上だ、安心しろ」
「全て、承知いたしました」
最後、声になっておらず、泣き崩れてしまったところ、周瑜が立ち上がらせる。
新しい君主として、十九歳の若者には、酷だが、最後までしっかりとしてもらわなければならないのだ。
続いて、張昭が孫策の前に立った。
「張昭殿、未熟な私をよくここまで導いて下さいました。貴方には感謝の言葉しかありません」
「馬鹿者、お主は、まだまだこれからだと言うのに・・・」
「申し訳ありません。・・・どうか、仲謀を助けてやって下さい。但し、貴方の目から見て、仲謀が君主として足りないと思われたときは、見捨てて出奔なさってもかまいません」
張昭は天を見上げて目をつぶる。それから、大きく息を吐き出すと、
「未熟者の面倒をみることには、もう慣れたわ。安心するがいい」
もともとしわの多い顔が、さらにしわくちゃになって答えた。
「お主は君主としては、まだまだだが、将としては、儂は認めている。今度は立派な君主を育ててみせるぞ」
「感謝します。・・・それにしても、将としてですが、ようやくお墨付きをいただけたのですね。よかった」
「ふん、大負けに負けてじゃがな」
最後まで、張昭の憎まれ口を聞けて、孫策の口元がほころぶ。
そして、いよいよ周瑜の番だった。
「公瑾」
「伯符。俺たちの間に言葉はいらない」
周瑜は、そう言うと孫策を抱きしめた。
「戦場でのたれ死ぬとばかり思っていたが、お前に抱かれて最後を迎えるとはな」
「絶世の美女でなく、申し訳ない」
「・・・いや、これも意外と悪くない」
そのまま、孫策は静かに息をひきとった。
享年二十六歳。
江南の地で暴れまくった小覇王の、あまりにも早い死だった。
その後、孫権は孫策の地盤を引き継ぐと、遺言通りに玉璽を持って、許都へと参内する。
その功より、討虜将軍に任じられると兄同様に会稽太守も拝命した。
また、同行した張紘の働きによって、曹操から不可侵の約束も取り付けるのだった。
代替わりしたことによる内乱の兆しは、揚州の中にもある。
孫権はしばらくの間、内政に勤しむことになり、華北の争いに参加することはなかった。
若い孫権の真価が問われる日々が続く。
これからが、孫呉の踏ん張りどころとなるのだった。
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