第63話 下邳城陥落
徐州下邳城。
張飛はいつも日課にしている城内の見回りを終えて、食事についた。
「最近では、これだけが、唯一の楽しみだな」
食事のときに飲む酒のことを張飛は言っている。一緒に見回りをしていた部下たちも同意して頷くのだった。
残って下邳城の守護を申し出た際の劉備との約束で、酒を飲むのは夕食時のみと取り決めていた。
張飛にしてみれば、酒などいくら飲んでも酔いはしないのだが、昼間っから飲んでいては、下の者に示しがつかないからだという。
劉備の領地が拡大し、張飛も城持ちとなったときのためにも、今から、そういう習慣にしておいた方がいいと、劉備、関羽、簡雍から一斉に言われては、張飛も承知するしかなかった。
但し、量については特別、指示されなかったので、気にしていない。今、張飛が口にしているのは、すでに五杯目の杯である。
そこに曹豹が酒瓶を持って、やって来た。
張飛はこの曹豹のことを直感的に毛嫌いしている。
表情はにこやかに接してくるのだが、行動の節々に何か棘があるように見えるのだ。
張飛の他の部下たちは、そう感じないと言うので、単に生理的に合わないだけなのかもしれないが・・・
「本日もご苦労様でございました」
「いや、長兄からいただいた大事な役目、苦労とは思っておりません」
嫌っていても、曹豹の方がはるかに年上で徐州古参の臣。
張飛も一応、敬う態度はとるのだ。
「張飛殿のような勇者に守っていただいて、我らも安心というものですな。」
曹豹は、そう言って微笑むのだが、張飛には、また、感情のこもっていない笑い顔に見える。
言葉では言い表せない不快な感情が込み上げてくるのだ。
早くこの場を立ち去ってほしいのだが、正直にそう告げるのもはばかられる。
「どうですか、一献」
曹豹が酒を勧めてきた。一杯、受けたら納得するのだろう。
張飛は素直に杯を差出した。
「これは、申し訳ない」
「いえ、この程度のことしかできませんので」
張飛は注がれた杯を口元に運ぶ。その様子をジッと見る曹豹の視線が気になったが、この一杯で曹豹が目の前からいなくなると思えば、安いものだ。
「?」
張飛は違和感を覚えると、口に含んだ酒を吐き捨てる。
「てめぇ。何を入れやがった」
恫喝に曹豹が青ざめた。
あの陳宮の使いの男は、この薬は無味無臭と言っていたはずだが・・・
なぜ、気づかれたのだ?
食堂が騒然としている中、見張りの者が慌てて、張飛の前に現れた。
「
許耽とは、曹豹、唯一の配下の名前である。
この時点で、曹豹が裏切ったのは明白となった。
「やりやがったな」
「ひっ」
張飛が立ちあがると、手にしていた酒瓶を落とし、曹豹は逃げ出す。
その背中に抜き身を一閃。
曹豹は床に倒れて、絶命した。
その屍を乗り越えて、張飛は、
「呂布の野郎を迎え撃つぞ」
丈八蛇矛を手にすると、城兵を鼓舞した。
恐らく、大勢の兵が城下町に入り込んでいるだろうが、呂布さえ討ってしまえば逆転は可能だろう。
ここが正念場だと、張飛は気合を入れるのだった。
「はっはっは。ここまでうまくいくとは思わなかったな」
呂布が赤兎馬に跨り、下邳城の守備兵を蹂躙していく。
この男を普通の守備兵が止めるのは無理なことだった。
「調子に乗ってるんじゃねぇ」
そこに張飛が現れて、沈んでいた空気が一気に跳ね上がる。
張飛の強さは、味方から武神と崇められるほどだった。
「何だ、生きていたのか、張飛」
「俺を倒すのに、せこい真似してるんじゃねぇよ」
これで戦うのは三度目である。
呂布自身、同じ相手と三度も一騎打ちをするのは、初めてのことだった。
そうなる前に、相手を屠ってきたからなのだが、やはり張飛はただ者ではない。
このような不利な戦況でも、心折れず、自分と互角の闘いを演じる。
だが、しかし・・・
「おい、ひどい汗だぞ。大丈夫か?」
打ち合いは互角だが、張飛の顔色が明らかにおかしくなってきた。
蒼白に近いが、汗だけが異常に流れ出ているのだ。
「・・・う、うるせい」
「お前、やはり毒薬を口にしたな?」
「すぐに吐き捨てた」
確かに吐き捨てたが、僅かに口内に残っていたのだろう。
この体調の変化は、それ以外に説明がつかない。
「く、・・くそ」
ついに力ない一撃が呂布に弾かれると、張飛は馬から転げ落ちてしまった。
「こんな結末とはな。残念だ」
呂布の方天画戟が振り下ろされる。
張飛は覚悟を決めて、目を閉じるが、不思議と痛みを感じなかった。
それもそのはず、方天画戟は陳到の槍が受け止めていたからだ。
「益徳さん、今のうちです」
そこに簡雍が張飛の脇を抱えて、起こすのを手伝い何とか立ち上がらせる。
袁術と呂布の不穏な動きを掴んだ簡雍は、急いで下邳城に戻ったのだが、一足遅く、着いたときにはすでに襲撃が始まっていたのだ。
それでも間一髪、張飛の窮地にだけは間に合ったようである。
「呂布さん、このような決着の仕方で本当にいいのですか?」
「何が言いたいのだ?」
「益徳さんに勝てないから、毒を盛った。それでやっと勝てたと世間から言われますよ」
不本意だが、結果、そう見える。
本来は、毒をあおって死んだという間抜けな結末を狙っていたのだが・・・
「ふん。その死にぞこない、どこにでも連れていけ」
簡雍の言葉に、それ以上の追撃を呂布は止める。
呂布にとって、まずはこの城さえ奪えればいいのだ。
「駄目です。ここで戦力を少しでも削っておきませぬと」
陳宮が呂布にとどめを刺すように促すが、聞き入れる様子はない。
それでは、他の者が討てと叫ぶが、張遼も高順も呂布同様、卑怯者の誹りを受けたくないのだろう。
誰も動こうとはしなかった。
唯一、陳宮の命に従ったのは
「この城、一旦、お預けします」
「ふん。負け犬の遠吠えじゃな」
もはや陳宮も討つのを諦めた様子。
せめて口撃で、簡雍を辱めようとするのだった。
「そうですね。今回は、私の失態です」
「素直に認めるのじゃな」
「結果が出てますから」
そう言いながら、陳到の手伝いで何とか張飛を馬に乗せた。
意識は朦朧としている様子だが、息は整いつつある。
命に別状はなさそうだ。
含んだ毒が僅かだったのと、張飛の生命力の強さのおかげだろう。
「それでは、いずれ、また」
敗残兵をまとめて、簡雍は劉備の元へ向かう。
命さえあれば、いくらでも再起は図れるのだ。
途中、意識が戻った張飛が悔しさをにじませる。
「・・・くそ、役目を果たせなかった」
「いつか、この借りを返しましょう」
張飛が頷いたようだが、その表情までは簡雍からは見えなかった。
どうやら、人には見せられる状態じゃなさそうだったため、簡雍は、そっとしておくことにした。
劉備は張飛を迎え入れると、
下邳城にいる呂布に背後をとられるのを嫌ったのだった。
しかし、ここで新たな問題が浮上した。
兵糧がもう少しで尽きてしまいそうなのだ。
こればかりは、簡単に解決の糸口が見つからない。
「長兄、すまない」
今後の方針について、関羽、簡雍たちと話し合っている場に張飛がやって来た。
つい先ほどまで、床に伏していたはずだ。
その張飛は、一家の窮地に、すっかり萎縮してしまっている。
だが、劉備にとっては、張飛が生きて戻って来てくれたことの方が、下邳城を取られた悔しさよりも、何倍も勝って嬉しいことだった。
「体は、もういいのか?」
「それは、もう大丈夫だがよ・・・」
「だったら、細かいことは気にすんなよ」
劉備は張飛の肩を抱えて、微笑みかける。
空元気にしても、この状況にあの笑顔を人に見せられることに簡雍は感心した。
これこそが、劉備が劉備たる所以なのだろう。
張飛は薄っすらと涙目になっていた。
「生きてりゃ、きっと何とかなる」
最悪、軍馬に手をつければ、命をつなぎとめることはできる。
それで、その先は・・・
まぁ、何とかなるだろ。
劉備は運を天に任せることに、腹を決める。
その時、天幕の外が急に騒がしくなった。
敵襲と思った、劉備たちは慌てて、外に出た。
すると、そこには、今、喉から手が出るほど欲していた物が目の前に現れるのだった。
「ほら、何とかなっただろ」
そこには食料が積んである荷台を複数、運んできた麋竺が立っている。
「皆さん、お待たせ・・」
言葉の途中で、張飛が麋竺を抱きかかえて上に持ち上げたのだ。
久しぶりに、張飛の顔に笑顔が戻る。
天は、まだ、劉備を見捨ててはいないようだった。
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