第37話 魏武の強

兗州東郡に瑞鳥ずいちょうが舞い降りる。

若くして『王佐の才』と称えられる荀彧じゅんいくが曹操を訪れたのだ。


曹操は前評判に囚われことなく荀彧と面談するが、その見識の深さや判断力。兵法への精通具合から、会話での言葉選びなど、至る所に感心させられる。

やはり、世間の認識は正しいと感じた。


最終的には、荀彧に傾倒し、

「君こそが我が子房しぼうだ」

と、漢の高祖・劉邦りゅうほうの覇業達成に大きく貢献した天才軍師、張良子房ちょうりょうしぼうになぞらえて賛辞を贈る。

曹操は、軍師にして最高の相談相手を手に入れたのである。


その荀彧は、早速、曹操に献策を始める。

「先日、兗州刺史の劉岱りゅうたいが黄巾党の残党、青州黄巾党に敗れ殺されております」

「それは知っている。優秀とはいいがたいが、残念な結果だ」


劉岱は、反董卓連合で曹操の檄に応じてくれた同志。

彼の死については、曹操も気にかけていた。


「その青州黄巾党を打ち破り、その勢いに乗じて兗州を手に入れるのです。兗州を我らの地盤としましょう」

「言うのは簡単だが、青州黄巾党を我らで討てるか?」


青州黄巾党は、黄巾党の残党として、今まで生き残ってきた集団らしく戦に長け、かなり精強と聞く。

曹操、単独では勝つ見込みが薄いのではないかと考えられた。


「完全に打ち破る必要はありません。我らは武を示せばいいのです」

「・・武をか」

はいと、頷くと荀彧は、青州黄巾党の本質について話し出す。


「確かに戦上手であることは認めます。しかし、彼らは流浪の民の一面もあります」

「そこを懐柔する?」

「はい」


黄巾党とは、そもそも張角を教祖とした太平道の信者で構成された集団である。

青州黄巾党は、何かとその戦闘力に注目されるが、戦闘部隊の兵士だけではなく、太平道の信者である女子供も含まれていた。


いわば母体は、荀彧が話すように流民なのである。

その流民を養うために略奪行為を繰り返しているのが、青州黄巾党だった。

しかし、略奪で生活するのも限界があるはずだと、荀彧は説く。


「ですが、懐柔するにも彼らを養える、守っていけることの証明をしなければなりません」

「それが、武を示すということか」

「そうです」


そして、青州黄巾党を丸ごと支配下に組み入れることができれば、兗州の地と合わせて、一大強国を作り上げることが可能となると説明する。

この荀彧の献策に、曹操は大いに喜んだ。


早速、青州黄巾党と対決するために軍を編成に取りかかる。

夏侯惇、夏侯淵を先鋒として、一族の曹仁そうじん曹洪そうこうを中軍、反董卓連合で挙兵した際に仕官してきた楽進がくしん李典りてんを後軍に配置。


総勢、二万の兵で青州黄巾党がいる山陽郡昌邑県さんようぐんしょうゆうけんを目指した。

途中、連合軍でともに戦った済北せいほくの相・鮑信ほうしんが加わり、陣容は厚くなる。



昌邑県につき、早くも青州黄巾党と対峙した曹操は、噂以上の強さに舌を巻く。

しかし、同行していた荀彧は、想定内ですと涼しい顔をしていた。


「青州黄巾党は、百万人近い民を養いながら戦闘しています。そんな彼らの悩みの種は、常に食糧問題です」

「補給がないのだから、長期戦に持ち込むか」


勝利を得るのであれば、曹操の意見も間違いではない。

ただし、それでは我らの武を示したことにならないと荀彧は言う。


「相手の自滅を待つよりも・・・」

「兵糧を餌に釣り出す」

「それがよろしいかと」

自分の話を途中で遮った曹操の回答に、荀彧は満面の笑みを浮かべる。


「私は誤っていた。君は張子房以上だよ」

「まだ、事を謀っただけでございます。成してこその策です」

曹操は、その荀彧の言葉にますます感心するのだった。



後軍の楽進、李典は輜重隊しちょうたいを指揮していた。

戦地が東平国寿張県とうへいこくじゅちょうけんに移ったため、武器や兵糧を運んでいたのだ。

量が多いためか運搬に苦労しており、曹操や荀彧がいる中軍とは大分、距離が離れてしまった。


「先陣の夏侯惇、夏侯淵の両将軍は、はるか雲の先か?」

「とっくに寿張県に着いているかもな」


楽進と李典は、はるか先を行軍しているであろう、先鋒部隊が視界から消えていることを揶揄しながら、軽口を叩いていた。


「まぁ、黄巾党どもの本陣ははるか先、ゆっくり行こうではないか。」

「そうだな」


楽進の言葉に頷くと、李典はあくびをしながら返答をする。

上司の弛緩ぶりに、部下もつられて輜重隊は緩慢な動きをするのだった。


その様子をつぶさに観察する部隊がいた。

青州黄巾党の別働部隊である。


「見ろよ。あの大量の食糧」

「ああ、運ぶ奴らも油断しているな」


手を伸ばせば、自分たちが欲するものがすぐに手に入る。

躊躇うことなく、曹操後軍に襲いかかるのだった。


不意打ちだったこと、敵兵数が多かったことなどがあり、楽進、李典は戦うことなく輜重を放棄して、その場から逃げ出す。

あまりにもうまく行き過ぎて、拍子抜けをする青州黄巾党だったが、兵糧が手に入るのであれば、そんなことはどうでもいい。


早速、輜重にかかっている布を外して、中身を確認した。

すると、

「何だ?これは藁ではないか」

楽進や李典が運んでいたのは、兵糧に見せかけた藁だったのだ。


「罠か!」

気付いたときには、すでに遅く、弓を構えた曹操軍に取り囲まれていた。


「青州黄巾党よ。抵抗するならば、一斉に矢の雨を降らせる。・・・しかし、降伏するというのであれば、食糧を与える準備がある」

囲みの中から、曹操が青州黄巾党に呼びかけた。


「我らを殺さぬのか?」

「殺すも者に、わざわざ食料など与えはしない。私は曹操孟徳。虚言で君たちをたばかるようなことはしない」


空腹の現状に士気は低下している。

曹操の甘美な言葉は罠かもしれないが、信じるしかなかった。

この場を切り抜けるのは難しそうに思え、取囲まれた青州黄巾党は武器を捨てると、みな降伏するのだった。


「ん、あれは?」

曹操が青州黄巾党の別動隊を降伏させたとき、鮑信は奥の林から人が動く気配を感じる。

手勢を率いて様子を見にいくと、青州黄巾党の別動隊の一部が林の中で待機していたのだ。


彼らは、ちょうど仲間の救出を諦めて、移動しようとしていた矢先だった。

鮑信は、相手の兵数が意外と多いことに一瞬、躊躇する。


しかし、敵の士気は高くないはずと踏んで、そのまま交戦してしまったのが失敗だった。

突進してきた大薙刀を持った将に討ち取られてしまったのだ。


「管亥さま、これから、どちらに向かいますか?」

「寿張県に行っても、曹操に攻められるだけだ。東に向かうぞ」

鮑信を倒した将は、兵をまとめて北海国を目指した。



行軍途中、鮑信の討ち死にを聞いて、曹操は心を痛める。

すぐに遺体を回収し手厚く葬るのだった。


青州黄巾党の捕虜、二万を連れての行軍は遅々としており、寿張県に着いたころには青州黄巾党の迎撃態勢も整っていた。


総勢、二十万を超える軍勢にまともに戦っては勝ち目がない。

曹操は荀彧と打ち合わせ通り、戦闘前に青州黄巾党へ呼びかけを行う。その展開に持ち込むための捕虜だった。


「青州黄巾党、この後も略奪を繰り返し、いなごのような暮らしを続けるのか?」

「先の大乱で敗れた我らは、どこにおいても認められぬ存在。いたしかたないであろう」

代表と思しき長老が返答する。更に味方を殺さず、捕虜として扱ってくれていることに感謝の言葉を述べた。


「礼には及ばぬ。何故なら、私は君たちを、その生活を認めるからだ」

「それでは、我らの教義『中黄太乙ちゅうこうたいつ』を信奉されるのか?」

曹操は太平道への入信を聞かれるが、大きく否定する。


「私は張角ではない。君たちを導くのではなく、あくまでも生活を保障するのだ。」

「それはどのようにして?」

「黄巾の民たちよ。君たち、いや君たちの先代は、どのように生活を送っていたのか忘れたのか?」


黄巾党の発端は、悪政に虐げられてきた農民たちの集団である。曹操は、そのことを思い出せと言った。


「農民に戻れというのか!」

「中黄太乙。真理は宇宙そらにあるかもしれないが、身は地上にある。大地を育むことも君たちの教義の一つだろう」

「むむむ。」


正直、ここで曹操軍を倒すことは、今の青州黄巾党にとって容易なことだった。

しかし、この略奪を繰り返す生活も限界に近いことも確か・・・。

安住の地を得たいと思うのは、皆の心の中にあったのだ。


「信者にあらず教義を理解する曹操殿。我らはその教義、中黄太乙は捨てられぬぞ」

「捨てる必要はない。私は君たちの生活を保障すると言った。人が生きていくのは、その身だけではなく、精神もともなってこそ。精神を奪うことは、当初の言に反する」

おおおと、いう歓声が青州黄巾党からわき上がった。


「我らはこれまでその精神をともにする者たちとともに生きてきた。今さら、他の者と交わることはできぬぞ」

「分かった。君たちの団結を乱すことは行わない」

青州黄巾党からの歓声が更に大きくなる。


「信者ではなく我らの教義を理解する者が、曹操殿以外にこの先も現れるとお思いか?」

「では、私の死後は自立するがいい。それだけの術をこれから与える」

その曹操の言葉に長老は満足する。


「では、我ら青州黄巾党は曹操殿のもとに降る」

長老の言葉に、喚声と中黄太乙という叫びが繰り返された。


「私の死をもって、この反乱のけじめとする。・・・曹操殿、この子らを頼みましたぞ」

「分かった。名もなき賢者よ」

こうして曹操は、青州黄巾党は掌握する。


兵力は三十万。民の数は百万を数えた。

兵士は、青州兵と呼ばれ、曹操の強大な戦力となる。

百万の民には兗州の土地を与え、富国の基礎となった。


そして、兗州を手に入れた曹操は、冀州を基盤とする袁紹と同等の力を得る。

後世に、これにより『魏武の強』の始まりとうたわれる出来事だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る