番外、足跡 (1)

 前の夕べに降り始めた雪は、朝まで降り続けた。


 高比古と狭霧のもとに朝餉を届けにやってきたのはいつもの侍女ではなくて、下男だった。


 その若い下男は、袴に毛皮の脛当てを巻いていた。雪沓ゆきぐつを履くために一緒に使うもので、その下男は、西宮へ辿りつくために雪に埋もれた庭を歩いてきたのだ。


 雪の上の道なき道を進むのは骨が折れる。下男の顔はほんのりと火照っていて、額に汗をかいていた。


「雪のせいで、雲宮はまだ眠っておりますよ。意宇へ戻るなどもってのほか。今日はお二人でお休みください。一日かけて雪をよかして、まずは雲宮を目覚めさせなくてはいけませんからね。少し騒がしいですが、お許しください」


「気にするな。頼んだぞ」


「はい」


 高比古とのやり取りを済ませて、下男が武王の休み処――雲宮の西宮から去った後、運ばれた朝餉を二人で食べているうちに、周りに大勢が集まる物音がした。


 やり取りも聞こえてくる。


「まずはこの屋根から雪を落とそう。雪の重みで渡殿を潰すわけにはいかないぞ」


「大宮はどうするのですか。西宮と東宮も――」


「あっちの大屋根ははじめから傾きがつけてあるから、雪は勝手に滑ってくれるんだ。世話をしてやらんとまずいのは、この渡殿と――」


「しぃ! 声を小さくしないか。武王の寝所のそばだぞ」


 話し声に耳をそばだてながら、高比古はぼんやりと宙を見た。


「武王、か」


 大神事の後、高比古が武王と呼ばれるようになってから、初めての冬だった。


 高比古は、大国主亡き後の変わり続ける杵築を司り、狭霧は高比古のそばにいることもあれば、意宇に戻ることもあった。狭霧のほうは、高比古が大国主のもとで軍務を習ったように、意宇にいる間は現王の彦名のそばに仕える時間も増えている。


 高比古は、かつての主のことを尋ねた。


「彦名様はお元気か」


「うん。今は八雲さんが戻ってきているから、意宇も賑やかだよ」


「あ、そうか。雪が溶けたら、八雲はまたどこかに出かけるのか」


「うーん、しばらくは出雲にいるようなことを話してたかなあ。今ね、八雲さんの代わりに別の人が阿多と宗像にいるんだって。あまり早く戻ると、その人たちが八雲さんに気を使うから、しばらくは任せるんだって」


「ふうん、八雲のほうでも代が変わるのか。目まぐるしいな。――今の意宇も、おれがいた頃とは変わってるんだろうな」


「たぶん、変わってると思うよ。高比古の次の策士がまだ決まっていないし、決まっても、もしかしたら策士って呼び方はしなくなるかもしれないって――」


「そういう話が出てるのか?」


「ううん、彦名様がそういっていらしたの。まだお考え中みたいだけれど」


「ふうん――策士も、なくなるのか」


 高比古は小さく笑った。


「そういえば、おれ、あんたのことが大嫌いだったんだよなあ」


 狭霧は目を丸くした。


「なによ、いきなり」


「自分が策士になった頃のことを思い出したら、なんとなく懐かしくなって――。でも、どうしてあんなにあんたを見るたびに苛々してたのか、もう思い出せもしないや」


 高比古はくすくすと笑って、手にしていた朝餉の椀を置いた。


 昔ってどんなだっけ――そう思って、蘇ったのは巻向まきむくにいた時の記憶だった。



   ◆ ◇       ◆ ◇




 大国主が大軍を率いて巻向に向かったおり、大国主をはじめ、高比古や安曇、軍を為すすべての者に彦名から与えられた命令は、一つ。


 伊邪那いさなを潰せ。


 あの国を残す意味はもはや失われ、放っておけば、次なる敵国の温床となる。


 その先に潰せ――。


 高比古が就いた策士という地位は、意宇の王の名代で、その全権を預かる。責任は重く、その頃の高比古は苛立っていたが、その苛立ちも責任の重さも心地よく、高比古に不満は一切なかった。


 巻向の王宮に着いてから二日目の晩のこと。


 高比古のもとに、若い武人が訪れた。高比古の世話役として杵築から付けられた武人の一人で、齢は二十で高比古より三つ上。名前を三穂みほといった。


「高比古様、意宇から参じられました種王の部下、丹埜矢にのや様がいらっしゃいまして、お会いしたいとのことですが」


「種王のところの丹埜矢? 用はなんだ」


「まずはお目通りと、この後の過ごし方をお尋ねしたいと――」


「は? なぜおれに尋ねるんだ」


「それは……おそらく、あなたが意宇の策士だからではないかと――」


「あいつが意宇の出だから、同郷の者を探しているというわけか? ――鬱陶しいな。帰れと伝えろ」


「帰れと?」


「ああ、軍に参じるからには、自分には何かができると考えてしかるべきだろうが。何もなく、ただ手助けの恩を売りたくてのこのこ来たのかと、そういってやれよ」


「し、しかし――」


「そもそもが、尋ねる相手を間違えている。杵築の軍に混じるからには杵築の部下になるんだ。おれもそうで、意宇の出だろうがそんなことは関係ないね。つまりは、尋ねる前に、こうすればよいのではないかと考えもしない脳なしってことだ。そんな奴ならおれは要らないし、いれば手がかかって、よけいに邪魔だ」


「しかし――」


「おまえもおまえだ。そんな奴、おれに取り次ぐ前に追い払えよ。おれの手間を増やさないことがなによりおれの役に立つと、そんな簡単なことも気づかない馬鹿だ。――これ以上話すことはない。行けよ」


「はい……」


 肩を落とした三穂が去ると、高比古は、床に広げていた絵地図に目を戻した。そこには、巻向の淡海あわうみと周囲の山や野が墨で描かれている。


(どこから攻めて、どこから守るか――。次は――)


 戦況に応じた戦術を考えることは、高比古の急務だった。


 その日の昼、高比古は大国主と共に馬を駆って、戦が原を訪れていた。


 そこはちょうど巻向と伊邪那の国の境で、しょっちゅう戦が起きる場所だ。たび重なる戦の跡が残っていて、一面に生い茂った草の隙間には、古い武具のかけらが散乱している。出雲軍の砦に上って原っぱの奥を眺めると、彼方の敵陣には、新しく造られたばかりの砦が見えていた。


「見ろよ、高比古。焼いても焼いても造られる、稀有な砦だ。おれはこの手で、あの砦を何度焼いたか知れんのに。――だが、質は落ちているな。あれは、その場しのぎの見せかけの砦だ」


 大国主はくつと笑んで、高比古を向いた。


「あの砦を焼け」


「はい」


「蹂躙して、余裕を見せるな。何かあると思わせるな。――まあ、勝つだろう」


「はい」


「今回の戦は、ここにはいないが、彦名が仕切ることになった。おれにはようわからん話だが、戦にもいろいろあって、剣で攻める戦と、思惑で攻める戦があるのだそうだ。時に戦は、剣ではなく農具でおこなうんだとよ。彦名がいうには、伊邪那を完全に潰すには里を広げねばならんらしい。桂木かつらぎと彦名の役だ。――ああ、おまえもか。おまえも意宇の者だったな」


「はい」


「今回、杵築の役目は、次に来た時にいい畑が開けるように野を焼くことだ。次に来た時のために、どうすれば田畑を広げて、人の住まう場所を広げていけるかを考えておけ。よく地の利を覚えておけ」


「はい」


 出雲の血が一滴も流れておらず、出雲にやって来てから三年というわずかな間に策士という地位までのぼりつめた高比古を、よく思わない人は多かった。その中で、大国主は高比古を「策士」として扱い、それ以下にもそれ以上にも見なかった。大国主はしがらみや過去をかえって疎む人で、そういうさっぱりした気性も、高比古が大国主に憧れる一つの理由だった。


 戦はその三日後に始まったが、結果は圧勝。


 高比古が練った策は戦が原を駆け巡る武人たちの手でつつがなく実行され、敵の砦はその日のうちに燃えた。


 高比古はその様子を出雲軍の砦の上から眺めていたが、感嘆の息をつかずにはいられなかった。


 高い場所から見下ろすので、そこからは戦が原の全景を視界におさめることができた。


 彼方まで続く草原へと砦を飛び出していった出雲軍は、見事なまでの動きで陣形を守り、大勢で一匹の大蛇を地に描くようだった。そうかと思えば、戦況の変化に応じて一匹の大蛇だったものは二匹、三匹に分かれていき、それぞれが頭と尾をいきいきと動かして地を這い、敵地を目指す。その大蛇を操る指令を出すのは、先駆けを務める安曇とその部下たちで、高比古を含めた、戦に関わるすべての男は、出雲の武王、大国主に従って動いている。


 戦の光景を眺めて、高比古は思わず胸でつぶやいた。


(美しい――)


 大国主のする戦ほど美しいものを、高比古は見たことがなかったのだ。


 結局、その日の戦では、出雲軍側にもわずかに犠牲者は出たものの、大敗したのは敵、伊邪那側だった。


 戦が済むと、砦に一部の軍を残して、高比古たちは王宮へ戻ることになった。


 勝利に酔って高揚する軍列で、高比古は大国主と安曇のそばで馬を歩かせていたが、大国主は隣を進む安曇を向いて、高比古が思ってもいなかった話を始めた。


「安曇。明日、狭霧を連れて丘でも登ってこい。この分では、どうせ明日におまえの出番はないだろう」


「そのようですね、はい」


 二人で笑い合うのを耳にすると、高比古は驚き、失望した。


 その娘は、軍に忍び込んで巻向までやって来ていたが、高比古はそれを疎ましく思っていた。それなのに――。


(狭霧って、あいつだろう。戦の後に、なんであいつの話になるんだ。なんであんな小娘の――)


 大国主と安曇は忍び笑いを洩らしつつ、その娘の話を続けた。


「しかし、まさか狭霧が軍に忍び込むとはなぁ。さすがは須勢理の娘か――いや、勝手についてくるなんぞ、もしかしたら、見た目によらず須勢理より奔放かもしれないな。安曇、おまえはどう思う?」


「いえ、穴持様。狭霧はまだ幼いのですよ。須勢理様も、今の狭霧の齢の頃は同じことをしたかもしれませんよ」


「たしかにそうだ。おれがあいつに初めて会った時、あいつは十七だった」


 大国主は肩を震わせて笑い、微笑んだ。それは、高比古が見たことのない優しい笑顔だった。


「須勢理は、須佐なんぞにおらずに意宇か杵築で暮らせばよかったんだ。そうしたら、おれはあいつがもっと若い頃に出会えた。おれは若い頃のあいつと過ごせたし、あいつを一の后にすることもできたのに――惜しいな」


「そうでしょうか。それはそれで喧嘩なさっていたと思いますよ?」


「そういうなよ」


 須勢理の話が始まると、大国主と安曇は戦の勝利よりも懐かしい思い出話に酔う風で、次は狭霧が小さかった頃の話を始めた。


「そういえば、狭霧は幼い頃、木の剣を振り回していましたね」


「あいつが? そんなことがあったか」


「あのですね、穴持様、ありましたよ……。見ていなかったんですか? 須勢理様の真似をするといって、五年は肌身離さずもっていましたよ。今でも、須勢理様と一緒にやっていた弓の稽古は毎日続けていますよ」


「ふうん、そうなのか」


 話に耳をそばだてながら、高比古は苛立った。


(なんだよ、それ。戦の後にする話じゃないだろう)


 顔をしかめる高比古を、安曇はふと振り返った。


「ああ、高比古。おまえも明日、丘にいくか」


 安曇は苦笑していた。その笑顔が、心を盗み見されたかのようで高比古は気に食わなかった。


「丘に? ……なぜ」


「景色がいいからだろう。狭霧を連れていくつもりだから、おまえも一緒にどうだ。ここまで来る間、狭霧はおまえに世話になったしな」


「――景色がよかったら、わざわざいくものなのか」


「そりゃあ、絶景を見れば、心が洗われてすっとするものだろう」


「心を洗うってなんだ? 想像がつかない」


「どうしてそう渋るんだ。一緒に行こう」


 最後には子供をたしなめるようないい方をされるので、高比古は目を逸らした。


「結構です、おれには必要ありません。どうしてそんな場所にいくのかもわからないから、いきたいとは思いません。時間の無駄です」


 安曇は肩をすくめて、話を終わらせた。


「まあ、非番の日に無理に付き合うことはないよ。――穴持様、私は明日、狭霧を連れて宮を出ますね。きっと狭霧は喜びます」


「ああ。連れていってやれ」


 大国主は微笑んで、高比古からも安曇からも目を逸らして前を向いた。






(昔話に思い出話、絶景? ――興味ないね)


 王宮に着くまでの間、高比古は苛立っていた。


 高比古が美しいと感じるものは、人の気配のしないものだった。


 風の通り道や、海の上をあまねく覆う潮の道。茂っては朽ち、朽ちては次の芽吹きのための苗床になる木々の葉――。


 それら、自然にあるものは、人の世にあるものより冷静で、子孫を増やして栄えていくことに冷徹だ。大国主のする戦はそういう自然の理に近くて、勝つためにもっとも単純な方法をとろうとする。そのうえ、大国主がその手で操る兵の士気は、木々や風の世界には足りない唯一のものだと、高比古は思っていた。だから、大国主のする戦は、高比古にとってこの世で何より完全で美しいものなのだ。


(絶景なんて――。その場限りの目の錯覚じゃないのかよ。馬鹿馬鹿しい)


 王宮を目指す軍列は、小高い丘にさしかかっていた。


 ふと振り返ると、眼下に大きな湖――淡海が広がっているのが見える。午後の強い光を跳ね返して湖面はきらきらと輝き、水平線の向こう側に見える山々もいきいきと初夏の色に色づいていた。


 思わず、高比古はそのまま目を離せなくなった。


(美しい――)


 それから、はっとして目を逸らすと、手綱を握り直した。



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