若い策士 (1)

 愛娘が恋する少年を使う暗い罠を仕掛けるよう命じたというのに、雲宮へ戻った大国主の様子は、いつもといっさい変わりがなかった。


(いや、きっと心中は穏やかではないはずだ。あんなに平然としているのは、大国主が暮らすのが雲宮だからだ。雲宮には四尾とかいう伊邪那いさなの窺見もいるから。……罠に感づかれたらおしまいなんだから)


 なぜか高比古のほうが緊張して、ことあるごとに大国主の姿を探してしまった。


 もとは意宇おうに住まう高比古だが、伊邪那に乱が起こり、出雲軍の動きが慌しくなってからは、雲宮に仮住まいをしていた。なにしろ高比古は、彦名からじきじきに命を受けた意宇の名代。出雲軍の策士という立場なのだから。


 所用で本宮へ呼ばれて兵舎を離れたとき。渡殿で、ちょうど向こうからやってくる大国主と鉢合わせた。玉飾りで首を飾り、側近の武人を引き連れて颯爽とやってくる大国主は、高比古と目が合うと小さく吹き出した。高比古の仕草が、あまりにもおずおずとしていたからだ。


 すれ違いざまに大国主はぽん、と高比古の肩を叩く。


「頼むぞ」


 言葉はたったそれだけで、足を止めることもなく彼は渡殿の向こうへと去っていくが。


 武人たちの勇猛な足音が遠ざかり、そこをいき交うのが慎ましく歩く侍女だけになり、ぬるい風がのんびりと通り過ぎるだけの静けさが訪れても、高比古は足が止まったまま、そこを動けなかった。


 目は、大国主の姿が消えた渡殿の果てを追っていた。


 なぜだか胸が熱くて仕方なかった。


(……これでいいんだ)


 身体の隅々へ染み込ませるように言葉を飲み込むと、高比古は足を浮かして再び歩き始める。目元に力があふれたのが自分でもわかった。鋭い眼差しをあたりへ送りながら、高比古は決意した。大国主へ……それから彼が守る出雲へ、人生すべてを捧げる決意を。


(血が繋がっていなくたって、おれの親はあの人だ。……おれはあの人を継ぐ)


 血筋ではなく、意思の繋がりが人を繋げるのが出雲だ。


 相変わらず理解はできないが、大国主はやはり大国主。高比古が憧れたとおりに、出雲の掟を体現する男だということが身に染みた。


 ……頼むぞ。


 いまの言葉は、「迷うな」という意味だった。


「武王としてのおれに愛娘などいない。おれは狭霧を傷つける覚悟をした。だから迷うな」、と――。


 ほんの一言だったが、それは非情な役を任された高比古への温かい後押しだ。


 もう迷いはなかった。


(大国主、あなたの覚悟を無駄にはしません。……王妃は必ず。そして伊邪那を)


 王妃を捕らえるのは、ほんのはじまりにすぎない。


 それは、長年戦ってきた敵国、伊邪那を滅ぼし、伊邪那を乗っ取って新しく生まれようとしている国にくさびを打ち込むための、単なる布石だ。


(ここでつまずくわけにいかない)


 念じると、高比古はそっと耳を澄ました。


 たちまち、周りにいたたくさんの存在が高比古を向いた。通り過ぎていく風や、それに乗って運ばれる目に見えないほど小さな種や、巻き上げられた砂粒や。


(満ちろ、おれの力。精霊も死霊も、みんなおれのもとへ来い。王妃の居場所を教えろ)


 そして、それらは高比古の望みに応えようとざわついて、しだいに動きはじめる。


「精霊に愛された子」と事代たちが呼ぶ、高比古のために。






 三日後の夜だった。


 兵舎に用意された寝床で横になっていた高比古は、ぱちりとまぶたを開けた。高比古の耳元で囁く声があったのだ。


『出ていった。出ていったよ。男の子とおじさんが館を出た』


 夜風の精霊の声だった。


(ありがとう)


 そばに置いた剣を掴むと臥所の薦を開け放ち、暗い木床を踏み歩いて外を目指す。すると、向こうから忍び足で駆けてくる若い伝令兵の姿があった。


「お呼びにまいろうと。……王子が館を出ました。四尾の手引きで」


「見張りは?」


「後をつけています。西側の壁を越えようとしているようで……」


「なら、そちらに馬でも用意しているのだろう。西の壁の向こうに見張りを潜ませろ。おれたちは門から出る。箕淡(みたみ)たちを起こせ。馬屋で待てと」


「はっ」


 口早に問答をしてすれ違ったあと、高比古に報せにやってきた伝令兵は思い出したように振り返って付け加えた。


「そういえば、離宮でお休みになっている名椎王なづちおうへの報せはどうしましょう。かがり火を使えば怪しまれますし、早馬を使いましょうか……」


「必要ない。向こうには事代ことしろを置いてある」


 いうなり、立ち止まった高比古はそっとまぶたを閉じる。


(来い、誰か速く飛べるやつ。おれの合図を待つやつに伝えてくれ)


 そう高比古が胸で唱えると、高比古の頬を撫でるような風が吹いた。


『僕、僕僕。僕いくよ。わかった。……あっちだね』


 あっというまに夜闇へ翔けた暗い風は、十も数えないうちに戻ってきた。 


『わかったって』


 無邪気に頼まれごとをやってのけた冷たい夜風に、高比古は小さく微笑んでおく。


(ありがとう。本当に速いね)


 それから、目の前でぽかんと呆ける伝令兵を見やった。


「いま伝えた。念のため高見台から離宮を見ろ。伝われば火の合図をしろといってある。向こうの高見台に火がついていれば、おれの合図に気づいている。名椎王はいずれ合流地へ発つ」


 そういい残してあっさりと背を向ける高比古を見送って、伝令役の若い武人は息を飲んだ。


 離れた場所にいる相手と、わずかなあいだに報せ合うという凄まじい芸当を、彼は目の前で見せつけられたのだから。


「……すごい。噂には聞いていたが」


 畏怖まじりの吐息を吐いた若い武人は身震いすると、再び兵舎の奥へと向かった。


 そこには、高比古が選んだ腕利きの武人たちの控え間がある。彼らの目的はただひとつ。牢屋を抜けた王子の追捕だ。


 




 馬屋には、いつもどおりの小さなかがり火が焚かれていたが、中には武人が数人集っていた。鎧は身につけていないが、腰には大ぶりの剣を佩き、手には長い柄のついた矛を持つ。いずれ劣らぬ駿馬たちにはひそやかに馬具が着けられ、走り出すときを待っていた。


 暗闇のなか、近づいてくる忍び足があった。伝令役の兵だ。


「王子が塀を越えました」


 馬屋へ集ったのは、どれも名うての武人だ。屈強な身体にも、彼らの目つきにも隙一つなく、年もみな高比古より一回り近く上。だが、年若い少年に率いられているというのに、武人たちに気色ばむ様子はない。なにしろ、ここは出雲。『強いものが上に立つ』という力の掟どおりに、年も生まれも意味を成さない国なのだ。


 何度もともに戦に出て、彼らは高比古の力を知っていた。


 ぎらりと目を光らせて高比古を見つめた武人がいた。名は箕淡。背には大弓を背負っている。彼は、大国主の御子姫、狭霧の師匠も務める弓の名手だ。


「従うよ、高比古。命令を」


 出雲の戦に出るようになってから、二年。見る見るうちに策士へ登りつめた少年、高比古に対する箕淡の態度には、感嘆というべきものも混じる。応えた高比古の声は、研ぎ澄まされて鋭い。それは、指揮を執る者としてふさわしかった。


「では、門へ向かう」


 やがて、王門をくぐり抜けた高比古たちは、暗い影になってひっそりと野道を行く。


 王宮を囲む壁沿いに西へ向かうと、野道に人影が躍り出す。先に潜ませていた見張りの兵だった。


「高比古様。賊は里へ向かいました。あと、近くの村で昨日聞いた話なのですが、匠の里の茂みで馬の声を聞いたとか。連中が、先にしのばせていた馬ではないかと思うのですが」 


「なるほど、手柄だな」


 高比古は、野道の先に目を戻した。


 雲宮を一歩出ると、そこには広々とした野原がある。そのほとんどは稲田にされ、稲田を潤す水路が、網の目のようにはりめぐらされていた。のどかな水音が夜の闇と混じり、そこには耳にまとわりつくような蛙の声も響くが、働き手が寝静まった夜の野原は穏やかだった。だが、夜の静けさに不似合いなものもそこにはある。


 高比古たちが駆る馬のブルッという鼻息や、鐙と鞍が擦れ合う金音や……。飼い慣らされた軍馬のひそやかな音とはいえ、彼らのそばには、大型の獣がここにいると示す物音があった。


 高比古は、夜の静けさにわずかに染みるほどの小声で命じた。


「こっちの音が届くとまずい。離れて追う」


 わずか先で、人影が動いていた。おそらくそれが、王子と、彼を率いる窺見の影だ。


 幸い、前をいく人影に、背後を追う影に気づいた様子はない。獣の音は、蛙の声にうまくかき消されているのかもしれない。


(この距離なら、平気ってことか)


 高比古が小さく馬の腹を蹴ると、箕淡たちもそれに倣う。逃げゆく王子たちの駆け足に合わせて、彼らはゆっくりと暗い野道を進む。


 そして、あるとき、高比古に報せる声があった。


『ねえ、女の人を見つけたよ。この人じゃないかしら。腰に剣を挿していて、熱心に祈っているの』


 それは、潮の匂いのする温かな風だった。咄嗟に高比古は、手綱を握り締めていた。


(剣を挿して? どこにいた? 誰かほかには?)


『海よ。わたしは海から来たもの。ねえ、誰かほかに見た?』


 高比古に尋ねられると海風は嬉しそうに笑って、後から吹いてくるほかの風を呼び寄せた。


『わたしも見たわ。大きな男が四人いたの』


『浜には舟があったわ。小さな舟だったけれど』


 海風は次々とやってきて報せるが。高比古は眉をひそめる。


(舟だと?)


 王妃が潜んでいるという伯耆は、出雲と伊邪那の間にある国だ。国々は山々で分けられているだけで、あいだを隔てる海はないので、王妃は馬で陸伝いにやってきたと高比古は睨んでいたのだが……舟とは。


 なぜ、わざわざ。問いを何度も唇の内側で噛んでいるうちに、彼の身を貫くように閃いた答えがあった。


(わかった。王子が伯耆へ向かうんじゃない。王妃が、出雲へ迎えにきているんだ)


 高比古は、不敵な笑みを浮かべて夜闇を見据えた。


(王妃が舟を用意しているなら、王子にわざわざ出雲を横切らせてまで伯耆へ向かわせるはずがない。逃げながらであれば、それはたやすいことじゃない。いうことは、王妃が潜んでいる場所は……)


 高比古の目の裏に、出雲の広大な大地が絵地図になって広がった。共に出雲という大国を為す小国や、その小国に囲まれた王領の、西の果てに位置する雲宮と、東の果てに位置する意宇の宮。そして、それよりなお東にある異国、伯耆。それから、潮の流れや、海に領地を持つ海人の部族……海賊と呼ばれるものたち――。絵地図に浮かんだ各勢力をつまびらかに見て、算するうちに、高比古の頭にはひとつの答えが弾けた。


(そう遠くにはいないな。出雲の力の届く場所にいる)


 高比古の両眼には、黒い翳が宿った。それは、光よりもなお鋭く闇を貫く黒い翳だった。


 その眼で前を睨んだまま、高比古は静かに命じた。


「誰か一人、集合地へ駆けてくれ。名椎王に西の海へ向かえとお伝えしてくれ。おれたちが離宮の方角へいくことはない。……いや、少し待て」


 そこで高比古は口をつぐむが、後についてくる武人の群れは静かにどよめいた。彼らは音を立てないように気を配りながら、怪訝に眉をひそめて目配せを送り合った。


(離宮の方角へいくことはないって……でも、伯耆は東の方角だ)


 高比古と同じく、彼らも、伊邪那の王子を追って向かう先は、王妃が潜んでいるという伯耆、つまり、東の方角だと考えていた。


 背後で起きた無言のざわめきを、高比古は無視した。そのとき、彼は、新たに報せにきた海風に意識のすべてを合わせていた。


『戻って、景色を覚えてきたの。わたしたちは、どの浜もおんなじに見えるんだもの。見れば、あなたなら知りたいことがわかるわよね?』


 大好きな相手の手助けをしたい一心で、高比古に寄ってきた海風の精霊は、夜の浜辺の景色を高比古に視せた。そこには、さきほどその精霊が高比古へ教えたとおりに五つの人影があったが、彼らがいたのは高比古が知っている場所だった。


 黒い影になった崖の形や、そこから見える山の影。遠くに小さく浮かび上がる雲宮のかがり火と、崖の先に建つ高見台のかがり火。そのかがり火は舟のための常夜灯だが、そんなものがある場所などそう多くない。


「引佐(いなさ)の浜の北だ。浜の果ての崖際にいるぞ。王妃は舟で王子を待っている」


 高比古の唇には、強い笑みが浮かんだ。


「浜と崖から回りこんで包囲しろと、名椎王にお伝えしろ。それから誰か、引佐の漁民の村へも駆けて、船を借りろ。漁り船でいいから、海からも囲い込め。……おれたちはこのまま、王子を追う」






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