火の御子 (3)

 その日。大地を黄昏の光が覆う頃。


 杵築きつきの雲宮を出た三つの馬影は、出雲の東の王宮の門をくぐった。


 名実ともに出雲一の名を誇る王宮は、茜色の光を浴びて、赤い影になってもなお豪奢だ。王門を成す幾本もの柱も、宮の大屋根を支える宮柱も逞しく立派で、それぞれの館を飾る白い垂れ布を赤く染め上げる夕焼けのもとでは、その宮は炎でできた神の居場所にも見えた。


 門から続く大路を駆けて奥宮まで乗りつけ、そこで馬を下りたのは、大国主その人とその側近の安曇、それから高比古の三人だ。


 奥宮の入り口には、出迎えの姿もある。一連に束ねられた五色の玉で首を飾り、腰の高さまで垂れる長い袖のついた優雅な衣をまとった小柄な男。出雲王、彦名ひこなだった。


 姿を見つけるなり、大国主は声をかけた。


「わざわざ出迎えか、出雲王」


「武王様がじきじきにお出ましになられるのであれば、と」


「よくいうよ。この狐が」


 挨拶は皮肉のいい合いじみていたが、何度もともに戦を切り抜けた戦友同士という間柄ならではの冗談だ。狐と呼ばれても、細い目をさらに細めて彦名は笑う。


彦名は、大国主と安曇の背後にひっそりと従う高比古にも声をかけた。


「元気そうでなによりだ。雲宮の居心地はどうだ」


「上々です。ご無沙汰しております、彦名様」


 高比古はゆっくりと頭を下げるが、彼の真剣な真顔が崩れることはない。


 彦名は苦笑するが、駆け寄ってきた馬番にそれぞれが手綱を預けるのを見届けると、先に一歩を踏み出して、いざなうように振り返った。


石玖王いしくおう名椎王なづちおうもお揃いだ」


 奥へまいろう、という意味だった。


 




 彦名がみずから案内したのは、奥宮のなかでもさらに奥まった場所にある小部屋だ。入り口には分厚い薦が掛かり、戸口の脇には矛を構えた番兵が片膝をついて守っている。


 薦をよけて中へ入ると、窓もない小部屋は薄暗く、火皿の上で舞う炎がちらちらと部屋をいろどっているだけだった。そこには、すでに二人の武人がいた。


 一人は、四十過ぎの大男、石玖王。


 もう一人は、五十過ぎの初老の男、名椎王だ。顎から垂らしたひげは白く、大きな肩や広い背中は若い頃の面影を残すものの、年相応に老いた名椎王の身体は、石玖王や大国主にくらべると細く見えた。だが、王の黒い瞳にはどこまでも続く穴のような、掴みどころのない印象がある。まるで、見つめ合えばすぐさま心のうちを読まれてしまいそうだった。


 名椎王の姿をたしかめるものの、高比古はすぐに目を逸らした。


(出雲一と呼ばれる豪傑、石玖王と、文武両道で名高い名椎王。……どちらも出雲連国を成す小国の主だ)


 心のなかで記憶を反芻すると、高比古は再びここに集った面々の顔を見渡した。


(出雲の表の王、彦名様に、武王の大国主、そして杵築の王添えとも呼べる安曇)


 この暗い部屋に集ったのは、出雲という大国を動かすなかでも選りすぐりの男たちだ。


 用意されていた敷布にあぐらをかき、ひと呼吸するなり、高比古に声をかける者がいた。ずば抜けて大きな体躯を持つ武将、石玖王だ。獣じみた太い眉をひそめて、石玖王はけしかけるようないい方をした。


「それで。ここへおれたちを集めたのはおまえなんだってな。小僧が、いい根性をしてるもんだ」


 それは、男所帯に慣れている武人ならではの手厳しい冗談つきだった。


 屈強な大男の風体をする石玖王に凄まれても、高比古は顔色一つ変えなかった。


「お呼びするにふさわしい時と判断したまでです。好機をみすみす逃すのは、ただの間抜けですから」


「口が減らないガキだな」


 石玖王は大きな肩をすくめてみせた。


 石玖王がいうとおり、この顔ぶれがここに揃ったのは高比古が声をかけたせいだった。いや、集めるべきだと伝えられた大国主が、彼らの住む宮へ早馬を向かわせたのだ。


 なぜなら。高比古はある秘密を掴んでいたからだ。


 それは――伊邪那いさなの王妃は隣国に在り、というものだった。


 身じろぎひとつせずに、まっすぐに前を睨む高比古の目は真剣そのものだ。


 高比古は、策士という立場にいる。高比古にとっては、いまが次なる戦の要。戦のゆくえを占う大事な場だった。


 だが石玖王は、ぴんと緊張の糸を張ったかのような高比古の姿に不審を隠せない。


「伊邪那の王妃が伯耆ほうきへねえ……。雲宮に囚われてる王子を助けるために……」


 あぐらを崩す石玖王のいい方は、高比古を疑っていた。口添えをしたのは大国主だった。


「あの王子の母親は、かつて戦装束をまとった女だ。独りで出歩こうが、なんら不思議はなかろう?」


「かつて戦装束をまとった女? 須勢理すせりみたいにか?」


 石玖王に尋ねられると、大国主は肩を揺らして笑う。


「ああ、そうだ。女はときどき男以上に無鉄砲で勇ましいからな。それに、伊邪那はいまや滅びのさなかだ。その王妃にも、いろんな思惑があるのだろう。輝矢を取り戻したあかつきには、例えば、離宮で伊邪那を立て直すとか」


「だが……」


 石玖王はまだ納得がいかないようで、よく陽に焼けた丸い顎を怪訝にかたむける。


「王妃のネタを、その小僧はどこで仕入れたんだ。……いつものアレなんだろ? 死者に聞いたとか、精霊に聞いたとか。そんな夢のような話に頼って、大戦を仕掛けるのか」


 すると、含み笑いが起きる。口を挟んだのは彦名だった。


「信じないのか、信心深い石玖王。出雲の表の顔は呪術の国。事代が得た神託が戦を動かすことは、そう珍しくは……」


「そうじゃねえ。おれは事代も巫女連中も信じてるさ。ただ、そいつのお告げはどうも……。だって、死人から聞く話なんだろう? 気味悪いというか」


 石玖王はぶるっと身体を震わせてみせた。


(……死人から聞く話。気味悪い)


 高比古は姿勢をぴくりとも崩さないが、真顔の奥で石玖王の困惑する姿を睨んでいた。


(そんなことは自分だって知っている。そりゃ気味が悪いさ。死霊に寄ってこられるなんて)


 物心つく前から、高比古は人のしない妙な経験をいくつもした。


 風に話しかけられたり、花に笑いかけられたり、岩に慰められたり。


 そして……恐ろしい死霊に助けてくれとせがまれたり。


 どうやら自分は、精霊とか死霊とかいうものから見ると、ほかの人間とは少し違って見えるようなのだ。とはいえ、他愛のない話をするだけの精霊はともかく、死霊は高比古にとっても気味悪いものでしかない。なにより、それに目をつけられると、とんでもない思いをする。そいつらが死んだ瞬間の出来事を、無理やり味わせられる羽目になるのだから。


 死霊になって大地をさまようほどの人間など、たいていろくな死に方をしていないのだ。


 幻のなかで高比古は何度も殴られて、切り刻まれた。


 そして、死霊は苦しみを高比古に押し付けることで怨念から解き放たれる。そして、美しい光に姿を変えて、それらは「ありがとう」と高比古に囁いて去っていく。そのとき、高比古は切り刻まれて幻の死に瀕しているというのに。


 ……冗談じゃない。ふざけるな。


 幸せそうに去っていく霊の姿に、高比古はいつも暴言を吐いていた。


 その力のことも、ずっと高比古は呪って過ごしてきた。


 そして、その力を忌々しく思っていたのは、高比古本人だけではなかった。彼の親も兄妹も同じ里に暮らす人たちも、高比古を呪われた子と呼んで遠ざけた。だから、暮らしていた里に賊が押し寄せて、彼を遠ざけていた知り合いたちが皆殺しの目にあったとき、高比古は心のどこかでこう思った。ざまあみろ、と。


 でも、あるとき、その力を褒め称えられることになった。


 賊の船から逃げ出した高比古を海で拾ったのは、出雲王の彦名だった。そのとき、彦名は異国から戻る船旅の途中だったが、船へと引き上げたびしょ濡れの少年の青ざめた顔を覗きこみ、彼の力に気づくなり、微笑んでこういった。


「私についておいで。おまえはきっといい事代になる」


 それから四年が過ぎ。高比古は死霊を恐れなくなった。


 死霊がもたらす幻の死は苦しいが、それらはいつも、高比古に記憶のすべてを置いていくからだ。


 戦の国、出雲の策士となった高比古にとって、それはなににも変えがたいものだった。出雲にいながら知り得ないことを知り、あちこちの国々で長年を過ごす窺見の役ができるのだから。


 すでに何度もその恩恵を受けた高比古に、いまさら迷いはない。


 信じようとしない石玖王には、むしろ挑みかかるようにいい返した。


「では石玖王、いまの話は聞かなかったことにしてください。すぐに有能な巫女を呼び、その巫女の口からふたたび言告ことつげをさせましょう。そうすればきっとお信じになるでしょうから」


「……なんだと」


「だって、そうでしょう? 伊邪那の王妃が、ほんのわずかな兵とすぐそこにいるのです。真なり偽りなり、捕らえに向かうはずです。おれがいった話でさえなければ」


 喧嘩腰で皮肉を口にする高比古に、石玖王はたちまち顔を赤くする。


 だが、暗い部屋には失笑も起きた。隅に座していた名椎王と、大国主だ。


「いい加減にしろ、高比古。幼稚な真似はやめろと何度いわせる気だ」


 大国主は呆れたように薄笑いを浮かべている。


石玖いしくも。死は恐ろしいが、不吉なものでは決してないよ。命とはもともと死の中に宿るものだ」


 それから大国主は、隣に座す安曇に顔を向けて目配せを送る。すると安曇は、うつむいたまま神妙に唇を開いた。


「裏は取りました。ひと探り入れましたが……ひと月前に雲宮にやってきた四尾という名のひじりは、どうやら窺見の修練を積んだもののようです。四尾は輝矢様の館に出入りしています。輝矢様を連れ出す手引きをする気なのでしょう」


「そのために王妃がそこにいるなら、まあ、間違いないな。……高比古、いま一度話せ。おまえが死霊から受けた話を、詳しくな」


 そう命じられるので、高比古は意識して背筋を伸ばした。


(幼稚な真似はやめろ、か) 


 実は、まだその言葉に打ちのめされていたので、ため息をつきたいのをこらえようとしたのだ。


「おれに記憶を置いていったのは、伯耆の武人でした。彼は王妃と数人の武人の隠れ家を見つけて、報せに戻ろうとしたところを追捕され殺されたようです。彼が見たのは伊邪那の身なりをした女と、男三人。彼が盗み聞いた話によると、王妃本人とその側近に間違いありません。囚われの王子のもとへ忍ばせた窺見がどうとか話していたようです」


 そこまで聞くと、大国主は苦笑したままでふうと息を吐く。


「いいネタだよ。丸呑みにせずとも、信じないわけにもいくまい」


 渋々というふうではあったが、石玖王も認めたようだ。 


「それで、その隠れ家とはどこに」


「場所はわかりますが、いまもそこに居るとは……」


「なら、どうする気だ。王妃をどう捕らえる。どこに潜んでいるかも知れないのに」


 話が核心へ近づいていくと、高比古は一度すうっと息を吸う。


「伊邪那の王子を泳がせます。わざと逃がして後を追います。王妃のもとへ案内してくれるでしょう」


「王子を使うだ?」


 たちまち石玖王は気色ばむ。そして彼は責めるように大国主に食いかかった。


「その王子ってあれだろ。おまえんとこのお嬢ちゃんと恋仲の……、そいつと王妃の親子の情をダシに使うってのか?」


 それから石玖王は、非難するように高比古を睨んだ。彦名も。


「腹黒い策を立てやがって。おまえも彦名も、策士ってのはいつもそうだ。おまえたちは人の情でもなんでも利用したがる。戦の相手は、剣を持ってるやつだけでいいじゃねえかよ。子供にはなんの罪もないってのに――。大乱に煽られた哀れな子だ」


 鼻息荒く、石玖王は怒鳴り散らした。


 思わず、高比古は頬をぴくりとさせてしまった。人でなし、と罵られたようなものなのだから。


 でも、同じ責めを受けたはずの彦名は、苦笑をぴくりとも崩さなかった。高比古の隣に座る彦名は、「だが、それは仕方がない」と、無言のうちに告げていた。


 石玖王を諌めたのは大国主だ。


「まあ落ち着けよ、石玖」


 大国主の顔にあるのも、いまは彦名と似た寂しい笑みだった。


「いまはとにかく王妃が欲しい。それに、輝矢と引き換えに伊邪那へ渡った遠比古は、五年も前に殺されている。遠比古のいない今、あの王子になんの価値がある。遠比古の報復に殺されてもおかしくない命だった。そうしなかったのは、おれの娘のためだ。……おれのわがままだった」


 静まり返った暗い部屋の中。淡々といい切った大国主は、わずかに目線を上げて宙を睨んだ。


「構わん。王子を餌にして王妃を引きずり出せ。……王子の生死は問わん。いずれ奪う」


 それは決定だった。


 石玖王は舌打ちしたが、ついに黙り込み、それ以上は反論をしなかった。


 苛々と唇を結んだ石玖王とは裏腹に、高比古はほっと胸を撫で下ろしていた。


 それに気づくと、大国主は鼻で笑った。


「なにが嬉しい、高比古。おれが親ではなく、王としての決断を下したからか。出雲の力の掟にのっとって」


「いえ、その……」


 高比古は、答えることができなかった。実のところいわれたとおりだったが、大国主がいうそれが、正直にうなずくには少々分が悪いことだと感じてしまったのだ。


 高比古の胸の内を見透かしたように、大国主は呆れ顔をしてみせた。


「おまえは一度、親になってみろよ。王であり続けることがどれほど苦しいかわかるさ。そのぶん得るものもあるがな」


「得るもの? ……安堵ですか? 家族の」


 おずおずとしながら、高比古は答えてみる。大国主は一笑に付した。


「違うな。理解できるものが増える。親や子や兄弟や、血のえにしをいとしむものたちの胸の内がわかってやれる。それから……それを利用できるようになる」


 大国主は高比古を見定めたままにやりと笑うが、高比古は戸惑ってしまった。


(前と違う。巻向でのこの人は、こんないい方をしなかった。好きな女もその女とのあいだの娘も、ほかのなににも変えられないと、そういっていたのに)


 高比古がじっと黙り込むのを見届けると、大国主は「はは!」と豪快に笑い出した。


「と、そういえば満足するはずだろうが? それとも、さっき家族の情うんぬんと答えたということは、ただ刺々しいだけのやんちゃ坊主ではなくなったか」


それで、高比古の頭にはたちまち血がのぼる。彼は大国主の真意を悟ったのだ。


(……やられた。おれを試していただけだ)


 大国主は高比古へ本気で応えたわけではなく、からかっただけだった。


 それにしても、ずいぶん呆気なくばかされてしまった。唇を噛んで恥ずかしさに耐えていると、いきなり、周りの目が気になりはじめた。


 高比古がいるこの部屋に集うのは、幾多の戦も困難もくぐりぬけてきた出雲の重鎮たちだ。自分はほかと違う、ここにいて当たり前の力を持っている。高比古はそのようにいきがっていたが、なぜだか急に、その自信は潰えていった。ひどく場違いな場所に居る気がしてたまらなくなった。


 見回すと、まず目がいった先には部屋の隅の暗い影がある。その手前には、気配を消しているかのように静かにあぐらをかく壮年の王、名椎王がいた。彼は、子供扱いに悔しがって赤面した高比古を、目を閉じたまま小さく笑っていた。


 名椎王の隣には、高比古に策士という役を与えた主、彦名があぐらをかいている。彦名は、弟子の無様な姿を嗤うふうに苦笑していた。


 さきほど、高比古と喧嘩まがいのやり合いをした相手、石玖王の顔にも、いまや高比古に対するさきほどまでの疑念は見えない。小山のような頑丈な体躯を誇る武将、石玖王は大仰に吹き出していた。……見かけと同じく、気性も豪快な人なのだ。


 だが、高比古の視線の先が同じ部屋に集うもう一人、安曇にいき着くと、胸にあった照れは冷めていった。


 安曇は、暗い木床を見つめて苦笑いを浮かべていたが、それはじっとこらえている笑みで、高比古を笑っているようではなかった。


 高比古は、すぐさま悟った。


(そうか、狭霧が……)


 安曇は、狭霧の父親役ともいうべき人だ。さっきの大国主の命令は、輝矢はいずれ死ぬと予言したようなものだった。


 そんなことになろうものなら、狭霧は二度と今までのように笑わなくなるかもしれない。


(……ばかなやつ。泣くだろうな)


 能天気すぎて鬱陶しい、あの無邪気な笑顔はもう見られなくなるかもしれない。


 高比古の脳裏には狭霧の笑顔が浮かび上がるが、虫唾が走るほど鬱陶しい笑顔とは、いまは感じなかった。そのうえ、それがもうすぐ消え去ると思うと、妙に寂しくなった。


 ぼんやりと虚空を見つめて感傷に浸っていると、あるとき、自分を射とおすような眼光を感じた。はっとして前を見ると、そこにいたのは大国主だ。


 自分を見ていたのは、何度となく高比古がひれ伏してきた武王の目だった。


 大蛇や竜などといった人とかけ離れたものを想像させるほどに鋭く、誰がどう見たところで、その人はただ者に見えない。少なくとも大国主の黒目には、安曇が浮かべているような父親の迷いじみたものはなかった。


(この人だって、娘の泣き顔を思えば寂しいはずなのに)


 刃の切っ先に似たその黒い瞳を、高比古はじっと見つめ返した。


 はっきりいって、この大国主という男は、高比古の理解をはるかに超えていた。


(どれがこの人の本当なんだ? 狭霧を泣かせるなといったり、その恋仲の王子の命を奪っても構わないと命じたり。いや、この人は前からなにも変わっていない。ただ、おれにはかり知れないだけだ)


 高比古の無言の問いを、大国主は無視した。そして武王はゆっくりと暗い部屋を見渡して、厳かに告げた。


「輝矢と、伊邪那の窺見うかみを見張らせろ。追捕の指揮は高比古に任せる。ともに追う武人、それと伝令役数人を選んで、声をかけておけ」


 大国主が口にしたのは、そのときのためのより細かな命令だった。


「あと、名椎王。高比古の世話を任せる。頭は切れるが、このとおりまだ幼いのでな、面倒を頼むよ。杵築近くの離宮で合図を待て」


 名椎王は、名指しされるとわずかに顎を引く。了承という意味だ。焦り出したのは石玖王だった。


「名椎王だけか? 大国主、おれは? 呼び出しておいて」


「迷ったが、やめた。あんたは優しすぎるからな。あんたに任せたら、あの哀れな王子を見逃してしまいそうだ」


 大国主は冗談でぼかしつつ、本意を告げる。石玖王は大きく口を開けて抗った。


「はあ?」


「あんたは大戦向きなんだ。こういう暗い仕事は向かない。だが……こいつは」


 そこまでいうと、大国主は高比古たった一人をまっすぐに見つめた。男盛りの顔には笑みがあったが、その笑顔は知らずのうちに背を冷たい汗が落ちるほど、高比古を怯えさせた。それは、目の奥まではけっして笑うことのない、冷たい笑みだった。


「高比古は、冷酷になれるやつだ。彦名と同じく、おれと同じく、須佐乃男とも。……棟梁として育て甲斐のある、有能なガキだよ」


 恐ろしいと感じたものがなにかは、よくわからなかった。


 だが、高比古は偉大な神託を授かった気分だった。この先の人生すべてを、いまの神託と引き換えに捧げろと命じられたような。


 高比古は両手を木床につくと、うやうやしく平伏した。






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