若い策士 (2)
雲宮のほど近く。えんえんと広がる稲田の端には、小さな藪が茂っていた。そこで足を止めた亥月が、木立の中に分け入ったと思ったら、そこから馬を二頭も連れて出てくるので、輝矢は驚いた。
「こんなところに、馬が」
「出雲に忍び込んだ伊邪那の窺見は、私以外にもおりますから。すべてあなたのためです」
輝矢を思いやる
狭い館に閉じ込められていたせいで、輝矢は走ったり動いたりすることに慣れていない。すでに輝矢の息は上がっていたので、彼はそれを悔しがった。
「……恥ずかしい。見咎められない程度には、身体を鍛えていたんだけど」
「じゅうぶんです。よくここまで駆けていらっしゃいました。さあ、母君がお待ちです」
そういってひらりと鞍にまたがった亥月が向かった先は、月が向かうのと同じ方角、西だった。それで、輝矢は目を丸くした。
「
「いいえ。母君は、舟ですぐそばまでお越しなのです」
「舟? 出雲の……武王の宮のすぐそばへ? なんて恐ろしい真似を――」
「大国主の目が光っているということは、それさえ潜り抜けてしまえばほかに難はないということです。海を荒らしてまわる賊も野盗も、このあたりには近づかないのですから」
「それは、そうだけど」
いいくるめられたものの、輝矢は言葉を濁した。
なぜか、不安が拭いきれなかった。
いまでも大国主に見張られている気がして、つい、輝矢は背後で暗い影になる雲宮を振り返った。平らに整えられた広大な農地の中央に、それは小さな黒山のようにそびえていた。
でも、それを目にするなり、輝矢は大国主への怯えを忘れてしまった。
(ごめんね、狭霧)
胸にこみ上げたのは、大好きな少女への想いだった。
(巻向へいってから、きみは変わったよ。希望にあふれていて、希望なんてものを持てない僕にはまぶしすぎる。……でも、狭霧は狭霧だから。きっとわかってくれるよね)
目を閉じて狭霧の笑顔を思い浮かべると、輝矢は心を込めて胸で唱えた。
(……元気で。僕も後でちゃんと泣くから)
無理やり別れを告げると、輝矢は二重の愛らしい瞳に凛とした輝きを戻した。
(いくんだ、伊邪那へ)
そして、決意もあらたに手綱を握り直した。彼が馬に乗るのはずいぶん久しぶりだった。はじめこそ仕草はおぼつかなかったが、しだいに慣れてくる。何度も輝矢を振り返って無事をたしかめていた亥月は、そのたびに舌を巻いた。
「聡明な方です。慣れるのがそんなに早いなんて」
「それくらいは取り柄がないと。なにもできないから」
輝矢は苦笑したが、その仕草も、見た目の幼さとは不似合いなほど大人びている。
亥月はますます柔和に目を細めた。
「五佐波(いさなみ)姫が喜ぶお顔が目に浮かびます。凛々しい王子に育ったと」
「……そんな」
輝矢は照れ臭くていい含んだ。狭霧以外の人間からこんなに褒められたことなどなかったのだから。
ひそやかにではあるが、亥月は急いでいた。輝矢が馬に慣れてきたのを悟ると、彼はじわじわと馬足を速めていった。
頬をすり抜けていく闇には、冷ややかな空気と生暖かい海風が混じっている。天を横切る灰色の雲は、時たま月を隠したが、雲間からは星空が覗いていた。見渡す限りの夜空には、数え切れないほどの星がまたたいて……。輝矢は見惚れてしまった。
(広い……。空ってこんなに広かったんだ。僕はそんなことまで忘れていたんだ。長いあいだ、閉じ込められて――)
吸い込まれていきそうなほど夜空は雄大で、大地を吹き荒らす風も爽快だ。いつのまにか、輝矢の頬には一筋の涙が落ちていた。
(外だ……。僕は外に出たんだ)
狭い牢屋を出て、夜空のもとを駆け、しかも、いき先では母が待っている。
でも――。感傷にふけっていたいのに、なぜか輝矢の胸騒ぎは拭えなかった。
そのたびに背後を振り返るが、目が届く場所には人影などない。ただ、黒山のようになった雲宮の陰がどんどん遠ざかるだけだった。
(僕が脅えているせいか?)
輝矢は胸でいい聞かせるが、それでも不安は消えなかった。
先を駆ける亥月は、何度も輝矢を振り返って笑顔を見せ、「大丈夫です。落ち着いて」と諭してくれていたが……。
「!」
あるとき、輝矢は背後になにかを見つけてしまった。
なにかはわからない。でも、自分を見張ろうとする鋭い視線をたしかに感じた。
(気のせいか?)
輝矢は、目や耳や、恐ろしい気配を感じた身体のすべてをひとつひとつ疑った。
本当なら馬を飛び降りて、恐怖を与えたものが背後にないかとしばらく見張りたい気分だったが、心の底にいる誰かが、振り返るなと命じている。輝矢の本能が、それをしてはいけないと懸命にいい聞かせていた。
唇をきゅっと噛んで真顔をする輝矢を振り返り、亥月が心配げに呼びかけた。
「輝矢様?」
「……亥月。誰かがついてきてる」
「そんな、考えすぎです」
苦笑するものの、亥月はちらっと背後をたしかめた。
輝矢もわずかな動きで背後を気にするが、そこにあるのはやはり暗闇だけ。でも、輝矢は納得できなかった。冷や汗を感じながら、深刻な真顔をつくった。
「亥月。僕は一度馬の足を止めます。手綱の操り方をしくじって。あなたは後ろの気配をたしかめていてください」
「では、一度」
亥月は苦笑していたが、すぐに話を飲んだ。
そして、輝矢の馬はあるとき前脚を上げて足踏みをした。ヒイン! と大きくいななき、輝矢はわざと悲鳴をあげる。
「うわっ、助けて!」
「輝矢様……」
すぐに亥月は応えて、輝矢を助けるふりをするが……二人の耳には、そこにないはずのものが届いた。はるか後方で同じようにいなないた馬の声だ。鳴き声は小さくて、なにかべつの音を聞き間違えたようにも思える程度だったが、敏感に周囲の気配を窺っていた輝矢と亥月には、二人が恐れていたものとしか思えなかった。
(追っ手がいる)
頬を引きつらせて目配せを交わすものの、あまり長いあいだ動かずにいると、背後の追手に怪しまれてしまう。
二人は何事もなかったように馬の腹を蹴り、これまでどおりに野道を駆けるが。虚空を見つめる輝矢の大きな瞳は、しだいに歪んでいった。
「僕たちが雲宮を出たことを知ったうえで追っているということは、連中の狙いは僕ではなく、僕の行方です。連中は、母上なり誰かなり伊邪那の者が僕の手引をしていると気づいているんだ。母上が連中の手に落ちるなんてことが起きたら、僕は……!」
「……別の道をいきましょう。私たちを追っているということは、連中は五佐波姫の居場所を知らないのでしょう。私たちが五佐波姫のもとへいかなければ、連中はあの方が出雲のどこにいるかと窺い知ることはできず、あの方も、私たちがたどり着かなければ、何事かあったと気づいて浜を出るでしょう」
亥月の頬はしだいに強張っていった。しかし、苦しげに歪んだ顔で輝矢を見つめると、彼は涙ぐんでいった。
「あなたは、私が必ずや母君のもとへお連れします。山を越えていきましょう。伊邪那へ」
「ありがとう、亥月」
輝矢は、泣き笑いをするようにして笑った。そして、手綱を握る指先にじっと力を込めた。
星明りを浴びてほのかに輝く、見渡す限りの水田畑を貫く一本の野道。その先には、左右に枝分かれをする場所があった。伊邪那の王子、輝矢とその従者の駆る馬影が海とは逆の方角へ向かって曲がるので、高比古は鼻で笑った。
「気づかれた。目くらましのつもりか」
海の方角からは、生暖かい風が夜の冷たい空気を裂いて吹き込んでいる。それらは、高比古に報せるいくつもの言葉を運んでいた。
『あなたの友達が舟に乗ったよ』
『あなたの友達がたくさん浜辺に着いたよ』
『あなたが探していた女が、驚いたよ。びっくりしたよ』
高比古が遣った武人は命令どおりに漁民の船を駆り、浜辺へたどり着いた名椎王とともに、伊邪那の王妃を包囲したのだ。
高比古はくくっと笑いを海風にこぼす。
(ありがとう。最高の話だった)
それから、高比古は背後を振り返る。
軍馬を巧みに操って、物音を立てないようにひっそりと駆けさせていた武人たちを見渡すと、誇りに溢れた声で呼びかけた。
「名椎王が王妃を囲んだ。おれたちがこそこそする理由は消えた。かがり火を焚け! 早駆けて、王子を捕らえろ!」
それは、いずれも目に視えないものの声がゆえんの神託じみた言葉だったが、高比古の声にはそれが真実だと認めさせるだけの凄みがあった。高比古が発した言葉自体が、人を従わせる力をもつ言霊となった。
実のところ、高比古のそばを駆ける武人たちは半信半疑だった。だが、高比古の事代(ことしろ)としての力の凄まじさを、彼らは数々の戦を経て知っている。彼らは信じた。
「わかった」
箕淡(みたみ)たちは、一人が起こした火を分け合ってそれぞれの手に松明をつくると、それを掲げて武具を構える。そして馬足を速めて、これまでとは比べ物にならないほどの怒涛の足音を響かせた。
先をいく輝矢と亥月は、振り返って脅えた。
……なぜ。いま。
脅えた目はそう語り合った。彼らは、出雲の事代の力を知らないのだから。
光のない夜に馬を走らせるのは難しい。しかも、慣れない道などは。
輝矢たちは懸命に逃げるが、出雲の者にとっていき慣れた道では、それにかなわない。あっというまに追いつかれて囲まれると、二人は馬を下りた。
大勢の屈強な武人に取り囲まれたというのに、亥月は果敢にも王子を背に庇って身構えた。だが、彼も……。野の果てにそびえる山陰の向こうに白い煙がうっすらと立ち上ったのを見つけると、愕然として身体から力を抜いた。それは、狼煙だ。重要な報せを伝えるために焚かれるものだが、その煙がまっすぐに夜空を切り裂いたのは、ちょうど伊邪那の王妃が潜んでいる方角だった。亥月は、すぐさま悟った。
「なぜ……」
うなだれるようにして彼は吐き、みずからの身を壁にして庇った王子の前で、その身体を震わせた。
武人の群れに囲まれても、大の男がそばで泣きだしても、輝矢は微動だにしなかった。星明りのもとで、彼は背を伸ばしてすっくと立ったが、その姿は異様なほど高貴なものに見えた。
童顔とも呼べる愛らしい顔立ちに浮かぶのは落胆だったが、目には強い力が宿ったままだった。
馬上にまたがる武人の群れの中に年若い少年の姿を探すと、輝矢はその少年をじっと見上げた。
(彼が、高比古)
高比古もまた、輝矢を見つめていた。
鋭い目元は笹の葉先や剣の刃先に似ていたが。目の奥には、にわかに迷いのようなものが揺らいだ。
(こいつが、伊邪那の王子)
急に詰まって苦しくなった喉を訝しみながら、高比古はこみ上げた想いを胸で噛み殺した。
(恨むならおれを恨めよ、狭霧。大国主じゃない)
それから、馬上から武具を見せつける武人たちを見回すと、命じた。
「連れていけ」
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