天と、緑のてのひら (1)

 輝矢が、母である王妃と十年ぶりに再会した場所は、牢屋のなかだった。輝矢の館には、王妃もともに閉じ込められることになったのだ。


 頑丈な扉が開けられて、なかに愛しい御子の姿を見つけると、王妃は駆け寄り、しがみつくように抱きしめて泣き咽んだ。


「……立派になって。つらかったでしょう。どうか母を許して……」


 輝矢はその顔を覚えていなかったけれど、見れば母なのだとわかった。面立ちは自分と似ていた。


 少なくとも、これまで輝矢の周りに溢れていた出雲の顔ではなかった。異国へ放り込まれて、たった一人の伊邪那いさな者として暮らしてきた輝矢には、亥月に出会ったときと同じ親しみがこみ上げた。いや、それ以上だ。


 輝矢に取りついて泣きじゃくる王妃の姿をたしかめると、番兵は無言で館の扉を閉める。


 再び閉ざされた館。いや、ここはすでに間違いなく牢屋だ。逃げようとして捕らえられたいまとなっては、わずかな平穏もここにはない。


 でも、輝矢に浮かぶのは柔和な微笑だけだ。


 自分の肩の上で温かい涙をこぼす母を抱き返しながら、輝矢はつぶやいた。


「どうしよう、母上。僕は不遇に慣れているようで、このようなかたちであなたと出会うことになったというのに、そこまで不思議にも思いませんし、悔しくもないのです。……ただお会いできたことが嬉しくて、幸せで……」


 戸惑いつつも、淡々と本音を語る輝矢に、王妃は悲鳴じみた泣き声をあげた。


 




 その日、目が覚めても狭霧の気分は浮かないままだった。


 臥所に注ぎ込んでくる朝日はまぶしくて、それは、まぶたを開けた瞬間に狭霧の目を覚ましてしまうほど明るかった。それなのに――。


 昨日もおとといもその前の日も、狭霧の目にも耳にも、高比古の引きつった顔や恐ろしい罵声がちらついて離れなかった。それで、高比古と顔を合わせてしまうのが怖くて、狭霧はここ数日、奥宮からほとんど出なかった。


 意宇へ出かけたという紫蘭と桧扇来はとっくに戻ってきているのに、兵舎にも足が向かない。あれだけ胸を焦がした「薬師くすしになる!」という思いは、すっかり委縮して小さくなっていた。


 薬のことをどれだけ覚えたって……。高比古や紫蘭たちのように不思議な力を持たない狭霧は、事代ことしろになれない。なれるのはせいぜい下っ端の薬師だ。狭霧より能がある人などは大勢いるだろう。いや、狭霧が紫蘭たちのような事代から当たり前のように智恵を教わっているのは、狭霧が大国主の娘だからだ。狭霧がどう頑張ったところで、周りから見ればきっと遊んでいるようなものだ。とくに、高比古のような人の目から見れば。


 もと海賊……いや、海賊に浚われたという彼は、人知れずのたれ死んでいてもおかしくないほどの壮絶な過去を持ちながら、死に物狂いで今の地位を手に入れているのだから。



 でも。狭霧は唇を噛み締めると、ゆっくりと膝を立てて、立ち上がるしかなかった。


(それでも。わたしにはそれくらいしかできないもの)


 琥珀色の光が渦巻く渡殿に出て、飴色の木床を一歩一歩踏みしめて、狭霧はゆっくりと外を目指した。


(ただの道楽だって罵られたとしたって、またいつ罵られるかってこのまま隠れてるほうが、きっと恥ずかしいもの)


 むりやり自分にいい聞かせて、狭霧は奥宮の外へと向かった。そして、庭を抜けて、王宮を東西に貫く大路へと向かうが……。


 狭霧は眉をひそめてしまった。今朝にかぎって、大路には人だかりができていた。そのうえ狭霧が姿を現すと、そこにいた人々はぎょっと顔を引きつらせて青ざめる。


(なに?)


 狭霧の頬も、たちまち強張った。


 いやな予感が胸を襲う。なぜだか理由もわからないのに血の気が引いていって、足は速まる。恐ろしい予感を拭い去るために、おおもとにあるものを見極めようとして……。


 大路にあふれていた人だかりのほとんどは、侍女や下男たちだった。小走りになった狭霧が兵舎へ近づいていくと、彼らは一様に青ざめて引きとめようとした。


「姫様」


「その、この先は……」


「どうして。なにがあるの」


 きゅうに凍えた喉から必死に問いを搾り出して、狭霧は彼らが隠そうとするものを探した。


 大路のうち、一番人があふれていた場所は、兵舎の門前だった。武器庫や薬草が詰まった倉や、大小さまざまの館が並ぶ兵舎の中央、そこにある、広場のような場所。いつもなら、がらんとして見える広々とした庭には、大勢の武人が順序良く並んでいた。彼らは手には矛を構えていて、まるで戦のさなかのような勇ましい立ち方をしていた。


(なにがあったの)


 青ざめて、狭霧は人を掻き分けていく。


 雑踏のなかで、狭霧を見つけて向かってくる人と目が合った。安曇だ。彼は思いつめたような目をしていた。


「いま、狭霧を呼びにいくところでした」


「わたしを? どうして。どこへ」


 安曇の声があんまりにも低く苦しげなので、それを聞いただけで狭霧の目には涙が溢れた。とんでもないことが起きようとしている、と、誰かが狭霧のなかで危うい鐘の音を鳴らし回った。


 安曇は近づくなり、ぎゅっと狭霧の手首を掴む。そのうえ力強く引き寄せた。


「兵舎へいきます。大国主が、あなたを呼んで来いと。輝矢様の凛々しいお姿を見てやれと」


「輝矢の?」


 人ごみを掻き分けながら、ずんずんと進んでいく安曇。彼に腕を引っ張られる狭霧は、脅えながらもついていくしかなかった。だがあるとき、安曇はふいに立ち止まった。


「いえ……。もしあなたが見たくないなら、私が大国主にそう告げます。……やめよう、狭霧。そんなものを無理に見なくてもいい」


 声を振り絞っているあいだ中、安曇はずっと目を逸らしていた。


 狭霧は強張った笑みを浮かべてしまった。


「待って、安曇。なんのことをいってるの? 輝矢の凛々しい姿? 無理に見なくても?」


「……輝矢様は、処刑されます」


「ええ?」


 狭霧はわけもわからず笑ってしまった。引きつった笑みを。


 安曇は横顔を見せるだけで、もう狭霧と目を合わせようとしなかった。


「先日、輝矢様は禁を破って雲宮を抜け出しました。伊邪那からの密使が宮へ入り込んで、手引きをしたのです。輝矢様を助けにいらした母君、伊邪那の王妃とその供の者が、まとめて出雲軍の手に落ちました。……とにかく、これから輝矢様が処刑されます」


 安曇は狭霧の両肩に手のひらを置き、ぎゅっと握ると、目を逸らしたままで吐き出すようにいった。


「忘れなさい、狭霧。あなたは出雲の姫で、ここは出雲だ。伊邪那から来た王子などもともといなかったと、そう思いなさい。お願いですから、このまま奥宮へ……!」


 でも……。狭霧の耳は、安曇の声を聞き分けられなかった。


 人々のざわめきや噂声が、氾濫した川の水のように耳元に押し寄せて、狭霧の頭をめちゃくちゃにした。


「高比古様のお手柄らしいよ、輝矢様を捕えたのは」


「王妃まで……。いくら実の子のためとはいえ、十年も放った子を救おうと、のこのこ敵国へやってくるなんて」


「伊邪那はいまや滅びのさなかとか。気が触れたに違いないよ、王妃は」


(高比古が? 伊邪那が滅びのさなか?)


 狭霧の胸の中では、それらの言葉が大水のように暴れ狂う。


 でも……。知らずのうちに、狭霧はかかとを引きずって歩いていた。


「……狭霧」


 背後から涙まじりの安曇の声が聞こえた。


 すぐにその声は、狭霧を追ってやってきたけれど。






 兵舎は戦を控えた野営のような姿へ、様相を変えていた。いや……処刑場だ。


 武具を抱えた武人たちがずらりと並んで、人の身体で勇ましい壁をつくりあげている。人の壁に囲まれてできた不穏な広場には、腕を縄で縛められた五人の男たちと女性が転がされ、戦装束の武人たちに矛で押さえつけられている。その前にはぽっかりと空いた隙間ができていたが、そこにはたった一人で座る、立派な身なりをした少年の姿があった。


 空色に染められた衣と袴。腰帯は縞模様が織り込まれた綾布。袖を留める手纒には深い碧色をした玉があしらわれていた。背中にかかるかかからないかという長さの黒髪は後ろで一つに束ねられ、草色と紫色の紐を組み合わせた髪飾りで飾られている。背後に並ぶ伊邪那の男たちと比べると、輝矢の身体はずいぶん小さく見えたが、涼しげな衣装の上には、身なりの品の良さにひけをとらない高貴な顔が乗る。二重の愛らしい瞳には凛とした光が宿り、輝矢は毅然として前を見据えていた。


 さっき安曇が報せたとおり、輝矢の姿は凛々しかった。でも、狭霧は呆然とするしかない。


(なに、これ――。どうして。輝矢がなにをしたのよ。輝矢に失礼じゃないのよ。見世物みたいにそんなところへ、地べたに腰をおろさせて)


 淡々と胸にこみ上げた気味悪さは、そのまま吐き気になる。苦しくて狭霧は身をよじった。喉が凍えて悲鳴は言葉にならなかった。でも、身体は前に飛び出してくれた。


「どうして!」


 狭霧は叫んで、武人の壁を飛び越えた。


 人の壁を越えると、そこにあるのは処刑を待つ者のための妙な空き地だ。姿を隠すようなものは一切ないので、涙を散らせて躍り出た狭霧に、輝矢はすぐさま気づく。輝矢は誰とも目を合わせることなく真顔をしていたが、ゆっくりと狭霧を向くと、困ったように笑った。……輝矢のこういう笑顔は、幼い頃から何度も見た。彼の人生すべてを諦めた表情だ。あどけない顔立ちにはえらく不似合いな、大人びた顔。


 たちまち、狭霧は声を張り上げた。


「輝矢! どうして! 輝矢がなにをしたのよ!」


 涙を振り散らかして叫んだ。


 でも、そこに降り注がれる眼差しのなかに、狭霧に賛同してくれるものはひとつとしてない。禁を犯して捕らえられた敵国の王子が矛に囲まれている姿を見て、それはおかしいという人は、狭霧以外に一人としていなかった。むしろ、そこへ躍り出た狭霧が異なる存在だった。


「狭霧、下がって!」


 すぐさま狭霧は肩を掴まれる。追いかけてきた安曇だった。


 安曇は狭霧をここから遠ざけようとしているのか、ぐいと引っ張って人の輪の外まで連れ出そうとする。だが、それを拒む男の声が雷鳴のように突き抜けた。


「いい、安曇。狭霧をここへ」


 父、大国主の声だった。


(どうして、とうさま)


 狭霧は夢中で父の姿を探した。


 なぜ、どうして輝矢を。訴えたくて、狭霧は涙でぼやける目を必死に動かすが。父と目が合ったとき、狭霧は愕然とした。大国主はちょうど兵舎の奥から、こちらへ歩み寄ってくるところだった。でも、その眼差しはあまりに冷ややかで……。狭霧は、気が遠のきかけた。


 狭霧と目が合うと、ほんの一瞬寂しげな顔をしたものの、大国主はすぐに目を逸らす。仕草はまるで、「話は済んだ」といわんばかりだった。


(待って、とうさま。わたしはまだなんにも話してない)


 狭霧はぼろぼろと大粒の涙をこぼすが、もう大国主は娘を見ない。大国主は冷ややかな笑顔を浮かべたままで、狭霧の背後にいる安曇へ命をくだした。


「狭霧をここへ」


「しかし、穴持なもち様……! あまりに酷です。狭霧は……!」


 応えた安曇の声は揺れていた。だが大国主は、安曇の懇願をばっさりと切り捨てる。


「狭霧のために呼んだのではない。輝矢のためだ」


「え?」


 安曇は気が抜けたような声を出すが、大国主の言葉に小さく笑った者がいた。輝矢だ。


 地面にあぐらをかいて背を伸ばす輝矢はちらりと顔をあげて、大国主の表情を見上げる。彼の視線に気づくと、大国主も異国の少年と目を合わせた。


「そうだろう、輝矢? 死ぬときはそばにいてと、何度狭霧においいになった?」


「ご存知でしたか」


 輝矢は失笑した。


 輝矢は驚くほど落ち着いていた。だが、大国主の発した恐ろしい言葉に狭霧はおののく。


 そしてもう一人、輝矢の背後で縛められていた伊邪那の王妃も、髪を振り乱して叫び始めた。


「死ぬなどと禍言まがごとを……! 我が子に手をかければ、許さぬ! この命と引き換えにしておまえを呪う。呪い殺してやる!」


五佐波いさなみ姫、すべてはあなたが撒いた種だ。あなたが輝矢をそそのかさなければ、こうはならなかった」


「おまえは、戦で命を奪うばかりだから知らないのだ! どれほど……どれほど私がこの子に会いたかったか。この子をおまえの手から救い出し、もう一度この手で抱けるなら、あとは死んでもかまわぬと……!」


 五佐波姫は、檻をつくるように交差された出雲の矛の内側で血を吐くように叫び、怒りで身体をぶるぶると震わせる。


 それを目にするなり、狭霧の目の裏には幻が浮かんだ。それは母、須勢理(すせり)の最期だ。


(……同じだ、かあさまと。かあさまもそういって、遠比古のために命を差し出した)


 出雲と伊邪那。戦の絶えない二つの国が仲良くなるために取り替えられた二人の王子、輝矢と遠比古。しかし、時が過ぎて、再び戦が始まると、遠比古は伊邪那で命を奪われた。死霊になって出雲へ戻ってきた遠比古を慰めるために、須勢理はみずから死を選んだ。「長いあいだ寂しい思いをさせてごめんね……」と、遠比古の魂を抱きしめて。


 狭霧の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


 泣き叫ぶ五佐波姫が、自分の母の姿に重なってたまらなかった。顔も仕草もまるで違うけれど、子を奪われた母親という意味では、二人はまったく同じだった。


(わかるよ、輝矢のかあさま。子供を奪われた母親は、魂で悲鳴をあげて苦しむんだって、とうさまだって知ってるわ。とうさまはかあさまの最期を目の前で見ているんだもの)


 狭霧は父を庇いたい一心で、五佐波姫と大国主を見比べ、ほろほろと涙をこぼして泣き咽んだ。


 でも、狭霧の心中とは裏腹に、大国主が非情な笑みを絶やすことはなかった。


「ああ、わかるものか。呪うがいい。だが、おれに呪いは効かんぞ。信じていないからな。おれに死を与えられるものは、目に見える刃だけだ」


 大国主のいい方は、五佐波姫の怒りを煽るようだった。五佐波姫はかっと頬を赤らめる。


「この、出雲の死神め! おまえが呪いをものともしないというなら、それはおまえこそが呪われた悪だからだ!」


「死神か! 出雲の武王は、相手からそう呼ばれてしかるべきだ。ありがたい誉れとして受け取っておくぞ、伊邪那の女」


 渾身の叫びを軽く受け流すところといい、卑下したような言葉といい。大国主の態度は、どれも五佐波姫の怒りの火に油を注ぐものばかりだった。


 狭霧は頭がおかしくなったとまで思った。大国主が、五佐波姫のいうとおりに、悪者に見えて仕方なくなった。


(どうして、とうさま。そんな酷い真似を……)


 立ちすくむ狭霧の肩を、背後から安曇がぎゅっと抱きしめた。


「違います、狭霧。聞かないで」


 耳もとで、安曇は小声を繰り返すが、狭霧の耳には入ってこない。


 そのうちに、怒りを煮えたぎらせた五佐波姫は身を乗り出して絶叫した。


「我が御子、輝矢や! そなたを縛めるものはないのだ! 母など放って逃げおおせ! そら、そこの娘を盾にして!」


 禍々しい言葉で、五佐波姫は輝矢をけしかける。呪詛を吐くように叫びながら、五佐波姫が睨みつけたのは、狭霧だった。


(……え)


 はじめ、狭霧は意味が飲み込めなかった。


 でも、五佐波姫の絶叫につられて、輝矢が狭霧を見つめるので……。輝矢のきょとんとした目と目が合うと、狭霧はようやく五佐波姫の言葉の意味を悟った。


(輝矢が、わたしを盾にして逃げる?)


 たちまち、胸が強張った。五佐波姫は、輝矢に大国主の娘、狭霧を人質にして逃げろといったのだ。戦装束に身を包むわけでも、武具を構えるわけでもなく、場違いにこの場に飛び込んできた狭霧はいかにも弱そうで、少し手を伸ばせばたやすく盾にできるはずだから。


 狭霧は呆然とした。


 目の前の景色がぐらりと揺らいだ。


 空き地へ引きずり出された輝矢は、五佐波姫たちのように縛められることもなく、みずからの意思でそこに座していた。立派な衣を身にまとってはいるものの、大勢の武人に囲まれて見世物のような扱いを受ける姿は……敵国の王子、人質の姿に間違いない。


 涙が溢れて、狭霧が見える世界はどんどんぼやけていった。いきなり、気づいてしまったのだ。輝矢を取り囲むものは、幼い頃からずっと同じだったということに。


(輝矢はいつもこんな扱いを受けていた。輝矢の館をそう呼ぶのはわたしだけで、みんなは牢屋と呼んでいた。輝矢に失礼だとわたしがいくら訴えたって、誰も見向きもしなかった。輝矢は人質だったんだから)


 狭霧は知らずのうちに、大国主の眼差しを探した。


 父は五佐波姫の身動きを目で押さえつけていて、相変わらず狭霧を見ようとしない。


 いつか、狭霧の胸には暗い閃きが生まれた。


(輝矢のかあさまのいうとおりに、輝矢がわたしを盾にしてここを逃げれば。二人で出雲を出れば、前にわたしが願っていたとおりの幸せな暮らしができる……)


 ……二人で出雲を出れば。


 ……自分が出雲を捨てれば。そうしさえすれば。


 でもいまの狭霧は、前のようにがむしゃらには願えなかった。無我夢中で輝矢に泣きついて「わたしを連れて逃げて」とせがんだときのようには。狭霧は、それも気味悪くて仕方なかった。


(どうしてわたしはためらっているの。わたしがいまここで輝矢のそばに寄って、庇えば。出雲を出る決心をすれば、輝矢を助けられるかもしれないのに。前は、そうしたいとしか思わなかったじゃない。それなのに……いつのまにわたしは変わってしまったの?)


 狭霧は、ぼろぼろと涙をこぼした。心の半分はそれを望んでいるのに、もう半分はやめてと叫んでいて……足がすくんでしまった。


 ふと、自分を見つめていた輝矢と再び目が合った。輝矢は、困ったように微笑んだ。


 狭霧の迷いを見透かしたように、輝矢はゆっくりと首を振る。微笑みは大人びていた。


「それでいい、狭霧。僕はきみを道連れにする気はないんだ。……僕にはできない」


 だが、その言葉を聞くなり、狭霧はまた気が遠のいた。


(どうして、輝矢。大国主の娘のわたしを連れていけば、出雲の兵は手が出せないのに。二人で幸せに暮らせるのに。輝矢が望んでくれれば、わたしだって……)


 そういいたいのに、言葉は喉で詰まる。突然ひどい眩暈に襲われてふらつきもした。



「狭霧」


 背後から伸びた安曇の腕に支えてもらってようやく立てるほどに、身体がおかしくなっていた。


 目の前の景色が遠ざかっていくが、「まだだ」と殴りつけるものもそこにあった。再び大声を上げた五佐波姫の恨み言で、それは狭霧の耳元で気味悪く響きまわった。


「おのれ、大国主め! 彦名(ひこな)はどこだ! 須佐乃男(すさのお)は! 大国、伊邪那の王妃と王子を前にして、王が姿を見せぬとは何事だ! 出雲王の言葉も聞かずに、わが御子の命を奪うと決める気か! たかだか軍を預かるだけの男が!」


 散々に喚き散らす五佐波姫は、大国主や、彼女たちを取り巻く輪を端から端まで睨みつけた。そこには、深刻な真顔をして成り行きを見つめる高比古や、屈強な身体を鎧で飾る武人たちがずらりと並んでいたが、たしかに彦名や須佐乃男の姿はそこにない。


(彦名様とおじいさま? とうさまが、たかだか軍を預かる男?)


 五佐波姫の悲鳴に答える大国主のいい方は、やはり見下したようで、冷ややかだった。


「ああ、おれの独断だ。もっといえば、彦名も須佐乃男も、たかだか用無しの王子の処刑ごときに首を突っ込まん。身の程をわきまえろ」


「違います、狭霧。聞かないで」


 狭霧の耳元で安曇はつぶやくが……。もう、狭霧の頭はめちゃくちゃだった。なにがどうなっているのか。なにが正しいのか。遠のいていく意識のなかでは、すべてがひっくり返っていた。





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