御津 (3)

 斜面は急だったので、少し登るだけで、もといた場所はすぐに足もとに遠ざかる。道よりずっと低い場所を流れる谷川の水面はさらに下方に低くなったので、水音も遠のいた。


 だから、狭霧は思った。


(これが御津? 水から離れていくのに――)


 御津とは「聖なる水辺」という意味だと聞いていた。でも、その場所を目指す一行の耳に響くのは水音ではなく、風が木立を揺らす葉擦れの音だ。


 そこは、谷川が大水を起こした時に強い水流が山肌を削り取ってできた谷の内側で、切り立った斜面があった。土は、ふんわりと積もった落ち葉と川の水が運んだ肥沃な土壌に覆われて黒々として、どんな植物の種を植えてもいきいきとした双葉を芽生えさせそうな力がある。その分土は柔らかく、少し足に力をかけるだけで、かかとまでがずぶりと沈む。沓は、たちまち泥だらけになった。


「狭霧様、こっちに足跡が」


 風景には、葉の緑と土の黒しか色がなかった。黒色をした斜面には、高比古の足跡が点々と続いている。


 足跡は上を目指していて、斜面の中でも、少し段がついた場所や、固さのある倒木の上など、歩きやすそうな道筋を通っていた。でも、見渡す限り、足跡のそばに高比古の姿はない。


「どこまでいったの、高比古……」


 狭霧は、泣きじゃくりたいのを懸命にこらえた。


 登るにつれて、壁のように立ちそびえる斜面はしだいになだらかになる。高比古の足跡は、斜面の上のほうに隠れた小さな尾根に沿って続いていた。


 人の手が入らない手つかずの山らしく、地面にはおおばこや羊歯しだがいたるところに生えている。でも、ふしぎなことに、長い時をかけて育つ大木は見当たらず、樹と呼べるものは若々しい梢ばかりだ。


 少し上のほうで、梢がかさかさと音を立てて揺れていた。その枝を揺らす人が探している相手だ。そう、狭霧は直感した。


「高比古」


 それは丘の頂きに近い場所で、目と鼻の先だ。だが、そこにはちょうど行き止まりのようにせり立つ泥の壁があった。狭霧たちがたどった足跡は、その壁を登ろうと、つま先を柔らかな壁に突き刺すようにして上へ上へと続いていた。


「こんなところを登ったの!」


 同じ道をいこうとした狭霧を、八重比古やえひこが止めた。


「後ろから回れます。こちらへ」


 八重比古は背後を指していた。そこには、岩や倒木が重なってできた坂道があった。


 壁のように立つきつい斜面をわざわざ登らなくても、その道をいけば、裏から回って高比古と同じ場所にたどりつくことができそうだった。


 振り返ると、狭霧は泣きたくなった。


「すこし見渡せばわかるのに、こんな壁みたいな道を選ぶなんて……。やっぱり、今の高比古は、目の前のことが見えていないのかな」


 血の気がひいていく思いだった。それに――。


「高比古、高比古――!」


 いくら呼んでも、返事は返って来ない。


 見ようとして姿を探せば、狭霧からは高比古の白い衣が見えていた。それほど近い場所にいるというのに――。


(いま、そこにいくから)


 一息でも早く高比古のもとにたどり着いて「戻ってきて」と叫びたかった。


 その一心で、狭霧はぬかるみに足が取られそうになるのを懸命にこらえて、八重比古が指さした坂道の根元へと向かい、駆けあがった。


「高比古!」


 狭霧が駆けるなだらかな坂道の先は、ちょうど高比古が登った泥の壁の上に行きあたった。だから、真正面に高比古の姿を見ることができた。高比古は、坂の奥にある行き止まりで、狭霧に背中を向けてしゃがみ込んでいた。


 すり鉢のような形をした自然の窪みで、人が一人座りこめるだけの狭い場所だ。


「高比……」


 高比古のいる場所は、ほんの少し先。でも、近づこうとすると、ふいに足もとがぐにゃりと揺れる。この丘の土は柔らかくて、ここまで登って来るまでも、梅雨明けのぬかるみや、沼のそばを歩く時のように何度も足が土に沈みこんでうまく進めなかった。でも、今は、沈み方が尋常ではなかった。


 一歩踏み出しただけで、膝がしらまでがずぶりと土に埋まるので、狭霧は背後にいる八重比古たちへ悲鳴をあげた。


「来ないで! 底なし沼かも――」


 でも、すぐに違うと気づいた。


 狭霧の足は土に沈んでいるわけではなかった。山の斜面にいたはずなのに、その地面は黒々とした土ではなく、真っ黒い闇に代わっていた。


「ええ?」


 ぞっと背筋が凍って、沈みゆく足を引き抜こうとした。


 でも、行く手に高比古の背中が見えていると思うと、後ろへ戻ろうとは思えなかった。


「高比古。ここ、危ないの。戻って!」


 前へ向かって進み続ける狭霧の背後で、八重比古が大声をあげた。


「狭霧様、おやめください! ――誰か、事代をいますぐ抱えてここまで運んで来い!」


 八重比古は下方の部下へ叫んで、狭霧を救おうと踵を返した。


「みな、戻れ。この道は通れない! 戻って、向こうの壁をよじ登れ! 高比古様の足跡がある道だ」


 深い闇色をした沼に足が飲み込まれてしまう前に先へ先へと脚を動かしながら、狭霧は、高比古が座り込む窪地を目指した。


 幸い、奇妙な沼地はそう広くなく、必死に足掻いて十歩も歩けばどうにか草地へと抜けることができた。


 まるで、海の上を歩いたような不気味な気分だった。


 脅えと疲れで、脚も腕もくたくただった。


「高比古、帰ろう……」


 足に力が入らなくなって、がくりと膝が地面に着く。


 どうせ倒れるなら高比古のそばに――と、どうにか背中に手を伸ばした。手のひらが背中に触れても高比古はぴくりとも動かず、背後にいる狭霧を振り返ることもない。


 高比古がいたのは狭い草地で、真っ黒な沼の奥に浮く小さな島のような場所だった。泥の壁に囲まれた窪みにしゃがみ込んで微動だにせず、高比古は自分の手をじっと見下ろしている。


(いったい、何を――)


 最後の力を振り絞って背を伸ばすと、高比古の肩の上から彼の手もとを覗きこんだ。すると――。


 高比古の真正面には小さな泉があって、ほとほととひそかな水音を立てて地中から湧き出ていた。泉の色は、真っ黒だった。


 狭霧は、自分が越えてきた沼地の正体に気づいた。高比古が手を浸している黒い泉の水が、草地の窪みを通って奇妙な沼地へと浸みていたのだ、と。


「高比古」


 両肩に手を置いて、思い切り揺さぶった。顔を覗きこむと、高比古はようやくはっと目を見開いた。まるで、死にかけていた人が突然息を吹き返したような仕草だ。


 もともと白い高比古の肌の色は、蒼白になっていた。


 高比古は呆然として、ぶるっと肩を震えさせ、一度吐き気をもよおしたように頬を膨らませた。でも、何かを吐くわけでもない。ただ苦しそうに、何度も頬の内側を膨らませた。


「大丈夫?」


 狭霧は、高比古の背中をさすろうとした。でも――。それ以上手を動かすことができなくなった。


 高比古の腰のあたりが、氷のように冷えていた。


 そこには真っ黒い闇色をしたものがべったりとついていて、そのうえ、水たまりを広げるように高比古の衣をじわじわと濡らしている。見れば、袖や袴はすでに真っ黒に染まっていた。


「これ、なに。高比古、ここから離れて」


 狭霧は手のひらを振って、高比古の腰から黒い水を振り払おうとした。


 触れてみるとそれは、ただの水とは比べ物にならないほど粘っこくて、べたべたとしていた。


 それ以上染みていくのを食い止めることはできたが、ぬぐい去ることはできない。いくら振り払っても、黒い水は下のほうからじわじわと上ってくる。その水の源を、高比古の膝が踏んでいたからだ。


「ここは駄目。場所をずれて。高比古……」


 高比古がしゃがんでいた場所は、黒い泉の真上だった。


 動こうとしない高比古の身体を黒い泉の上からどかそうと、狭霧は脇の下に腕をさし込んで力一杯運んだ。


 すると、ようやく高比古が声を取り戻した。彼は叫んだ。でも、いっていることは奇妙だった。


「あああ、来るな! ……狭霧、どこだ」


「ここにいる! 抱いてるよ!」


「狭霧、どこだ。おれを繋ぎとめてくれ。引きこまれる。狭霧……」


 高比古の手が、狭霧を探し始めた。高比古の手は袴や背中と同じように真っ黒に染まって、氷のように冷えていた。その手から黒の水を落とそうと、狭霧は何度も手のひらで拭った。べたべたとした黒い水は刺すように冷たくて、そのうえ気味が悪いほど重いと感じた。


「戻ろう、高比古。ここは駄目」


 狭霧は、高比古の身体を動かそうとした。


「少し転がれば高比古が登ってきた壁があるよ。そこまでいこう。あなたを突き落として、わたしも転がり落ちる。高いところから転がって少しくらい怪我をするより、ここを離れるほうが先よ」


 狭霧は精一杯高比古の身体を倒した。でも、高比古の身体は鉄のように硬くてろくに動かない。


 血の気が引いて紫色になった唇を、高比古は小さく震わせた。


「でも――おれは、呼ばれた」


「呼ばれた? 誰に――」


「ずっと昔から――生まれる前からおれのそばにいたものに。そいつがここで、おれを待っていた」


 高比古の言い方は、彼をここに誘い出した相手を庇うようだった。


 そこまでいうと、高比古のまぶたが下りていく。眠っていくというよりは、失神するようだった。


「あ、来る。引きこまれる。……狭霧、早くおれを抱いて」


 そばにいるのに。思い切り抱きしめているのに。それすらも彼は感じていないのか。


 狭霧は叫んだ。


「もう抱いてる!」


 狭霧の腕の中で一度高比古はびくんと跳ねて、気を失った。それから、何度も頬を膨らませた。頬だけでなく、腹のあたりもよじれるように動く。まるで、何か巨大なものを食べたか、腹の中に飼っているような奇妙な動き方だ。


 狭霧の悲鳴が割れた。


「高比古――! 紫蘭、来て! 高比古が――。助けて、お願い」


 もしかしたら、高比古が怖がっている何かはすでに彼の身体の中に入っているのかもしれない。


 不安は頭をよぎったが、狭霧は、黒い水を振り払う手を止められなかった。


 そうしないと……。なぜだか、高比古が白い骨の山の上にしゃがみ込んでいる気がした。奇妙な幻を感じるほど、腕の中の高比古が遠のいていく気がして、怖くてたまらなかった。


 狂ったように手を動かしたが、ある時、その手はぴたりと動きを止める。


 来る、来る――引きずり込まれる――そう脅えていた高比古と同じ恐怖を味わった。


 突然、身体の下のほうから冷たい風が吹きあがり、風が連れてきた闇に四方を包まれた。闇色の沼に沈むというよりは、暗い海に放り込まれた気分で、あたり一面が闇になる。そこには、明るいと感じるものが何一つなかった。


 身体が、凍るように冷えた。


 そして、声を聞いた。低い低い場所から呼びかけてくる暗い声だった。


 声は低かった。でも、なんとなく女の声だと感じた。


『来たね、我がみこと――』


 声を聞きつけた瞬間、狭霧は首を横に振った。


(嘘よ。来ていない。高比古はそっちへいっていない)


 その声は、狭霧の腕の中にいる高比古を見つめて微笑んでいるような気配で、時おり高比古に向かってふふっと笑い声をこぼした。


『我らの声をその耳で聞く〈我が子〉が、なんと、初めて命となられた――。巫女を通さずとも、いとし文句を伝えられる、この嬉しさたるや。……我が声を、お聞きなさいませ』


(いったいなんの声? 我らの声をその耳で聞く〈我が子〉? みことって、どこかで聞いた言葉――)


 息を飲んで、狭霧は声に聞き入った。しかし、次の瞬間、高比古を向いていた声の主が、狭霧を睨んだ。


『出雲を生かしてください、我が君。新たな贄をお出しなさいませ。そして、共に祭りをひらきましょう。――そう、我が君のお心を奪ったその娘の命を、贄に』


「えっ?」


 狭霧の肌が、総毛立った。


 自分を包み込むすべての闇が突然目を得て、その目を見開き、無数にあるその目で睨まれたと思った。それだけではなく、命を狙われたと。凄腕の刺客に取り囲まれた気分で、逃げ場など残されておらず、必ずや殺されてしまうだろうと、嘆く間もなく諦めなくてはいけないと思った。


(わたし、死んじゃうんだ)


 なぜ殺されなければいけないのか。


 どうして自分なのか。


 なぜ、今なのか。


 理由を考える間もなく、狭霧は諦めて目をつむった。


 やり残したことへの未練や死の意味を考える隙も与えられずに、必ず死を与えるものに囲まれてしまったと、そう信じて疑わなかった。


 でも、ある時。自分を囲んでいた視えない壁の一部が、突然取り除かれた。


 突然現れた隙間の向こうには、生きているものの気配がした。選択するすべを一切与えられなかった狭霧に視えた、唯一の選択肢だった。


 その隙間をつくった何かが、狭霧にいった。


『お逃げ、狭霧』


 闇しかない世界に飛び込んで、周りにあるのは闇だけ。そこにあるものは一切が暗かった。


 でも、姿も形もないが、そこには何かがいた。影すらなかったが、そこにある声や気配は、忘れきったと思っても、胸の奥で必ず覚えているものだった。それは――。


(かあさま)


 大きく膨れあがった泡が、ぱちんと大きな音を立てて弾けた。そう思ってはっと気づくと、周りから闇が消えていた。


 黒い水をたたえる泉は、依然としてそこにあった。でも、さっき見た時よりは怖いものと感じなかった。高比古の脚を濡らす黒い水など、つい今しがた闇の世界で視たもっと濃くて巨大で分厚い闇に比べれば、どうということはなかった。


(この水はさっきの暗闇の一部なんだ。さっきは逃げるすべがなかったけれど、ここなら――。逃げる場所ならたくさんあるわ)


 金縛りが解けたように、狭霧の視界に緑の林が広がる景色が蘇った。


 ぐったりと自分にもたれかかる高比古の身体の重さも思い出した。


 高比古の身体を精一杯押して、黒い水が雫をつくる緑の草の上を転がした。そして、壁のようにせり立つ泥の崖の上から、高比古の身体を下の地面へ向かって突き落とすと、自分もそこから転げ落ちた。


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