御津 (2)
高比古は、武人の
四人がやってくると、高比古はまず直属の部下、事代たちに尋ねた。
「おれには御津の気配が近づいたように感じるんだが、おまえたちは、まだ何も感じないか」
「はい、まだ――」
紫蘭と桧扇来は、目配せをし合った。
「やはり、御津というものの気配は高比古様にしか感じ取れないのでしょうか。それとも……」
「山地の奥へ入るにつれて、水と石の精霊が増えております。あなたを悩ませるものの気を私たちが感じ取れないのは、山に棲む精霊の気配が壁となって隠しているからかも――」
「かもな。いまは、おれにも理由はわからないが」
高比古はため息をつく。それから、次は三穂へと顔を向けた。
「頼みがある。再び桧扇来を連れて馬を駆り、来た道を戻れ。雲宮へ繋げて、話をさせろ」
「はっ。話とは、いかなるもので――」
問われると、高比古は自分を嘲るように苦笑した。
「おれが使いものにならないと、そう伝えろ。それから、急ぎ、
「日女とは――」
「
「はっ」
三穂は慎ましく頭を下げた。しかし、一度黙ったのちおずおずと顔を上げていく。
「その、高比古様。神野の巫女と申しますと、神野の手をお借りになるお考えで? ――事が、大きくなるのでは……。その、あなたのいまの状態が神野にも伝わるということは、それは、いまに意宇や、ひいては須佐乃男様のお耳にも――」
「ああ、そうだ。仕方ないよ」
高比古は、額に指を当てて少しうつむいた。
「それでおれの不手際が広まろうが、それが事実だ。もはやおれの手には――いや、杵築と事代だけの手には負えない。神野の力がいる」
「神野の――」
三穂は、息を飲んだ。
「あの、一度お尋ねしたかったことがございます。神野の巫女には霊威ではなく神威が宿ると耳にしたことがあるのですが、その神威というものは、霊威に勝るのでしょうか」
「さあな。事代と巫女はそもそも別物だ。力の習い方も使い方も何もかもが異なっているから、比べられない。でも――」
高比古は、懐かしい記憶をたどるように目を細めた。
「そういえば、前に日女が〈力の契り〉をしろとおれにまとわりついていたことがあった。あれは、いったいなんだったんだろう――。その〈力の契り〉っていうのを済ませたら、おれは本当にあいつらの力を覚えるのかな。そうしたら――」
高比古は独り言をいうようにつぶやき、草壁を見つめて黙る。
その目が、狭霧は心配になった。心が抜け落ちたかのようで、紫蘭と桧扇来の手で眠りの術をかけられた時に似てうつろに見えた。
高比古はやれやれと首を横に振った。
「神野か。神野を味方にすればおれはもう少しましになって、大国主と肩を並べられるようになるかな」
「高比古は高比古よ。とうさまと比べなくたっていいじゃないの。それに、とうさまの齢になれば、きっと――」
「おれがいま出雲にいるのは、大国主と比べられるためなんだよ。それに『きっと』っていう言葉は、おれはあまり好きじゃない」
高比古は苦笑して、狭霧を見つめた。
「へんなことをいったな。慰めてくれてありがとう」
高比古が眠れなくなってから五日目の朝。一行の目覚めは早かった。
夜が明ける前に、八重比古たちは主の仮宿の前に集まり、山の端を見つめて光がにじむ暁の瞬間を待っていた。
「夜が明けた。山に光が入りました。いきましょう」
その日、高比古は馬を降りて歩くといい張った。
高比古は疲れていたが、四晩も寝ていない人には見えなかった。まぶたは重そうで無理やりあけているという風だが、隙間から覗く瞳は黒く、まっすぐに前を向いていた。
自分の足で立ち、高比古は、山道の行く手を見据えた。
「では、いこう。今日はおれが先頭に立つ」
一行に出発を告げると、高比古の足は颯爽と動き出す。
杵築への報せ役を命じられた二人とは、ここで別れることになった。
「では、高比古様。我々は来た道を戻ります。後で追いかけますので――」
三穂と桧扇来に背を向けて、一行は再び山道を奥へと進んだ。
高比古の様子が、罪人か病人のように馬に担がれていた昨日よりもずっと元気なので、隣を歩きながら、狭霧は何度も高比古の横顔を覗いた。
「高比古、大丈夫なの」
高比古は苦笑した。
「ああ。夜のあいだに少し扱い方を覚えたんだ。自分の手に余るものは、あえて歯向かうより、うまく波に乗ることを考えたほうがいいのを思い出した」
「うまく波に乗る?」
「説明しづらいが、そういうものだと思う。おれは幼い頃からそうしてきたし」
「幼い頃から?」
「そのうち話すよ。昔話になるから」
話を終わらせると、高比古は背後をついてくる一行を気遣った。
「紫蘭、道を覚えろ。おれは今、道を覚えていられる自信がない」
「も、もちろんです。お任せください」
「八重比古、おまえたちも道に印を付けていけ。事代はほかより細かく木や土を見るから、帰り道は紫蘭が教えてくれるはずだ。だが、山道は魔物で、気を抜けばすぐに迷う」
「はい」
八重比古はうなずき、部下の一人にその役を命じた。
ぽき、ぽき……と、武人の手で道しるべの枝が折られていく。その音を聞きながら、一行の足は山道を進んだ。
先頭をいく高比古はまっすぐ前を向いていて、行く手から目を逸らさなかった。
高比古は吹っ切れたかのように見えていたが、たびたびふっと足を止めて、しがみつくように後ろを歩く狭霧の手首を握り締めることもあった。
そのたびに、一行は主を気遣って足を止める。
列の先頭で、狭霧は高比古の背中に手を回してとんとんと撫でた。
「大丈夫」
「大丈夫だ……悪い」
高比古は気を静めるように動きを止め、しばらくするとまた先頭に立って一行の案内役をつとめる。
何度かそういうことが起き、ちょうど太陽が天頂まで昇りきった頃、高比古は肩を落として、狭霧のすぐ後ろを歩く八重比古を振り返って、命じた。
「八重比古。もしもこの先で何か起きたら、おれに構うな。おれを置いて、狭霧を連れて逃げろ。いいか?」
強張った声を聞くと、狭霧は思わず高比古の袖に手を伸ばした。
「高比古、それって――」
「万が一の時の話だ。おれにはわかる。御津に近づいているよ。水音に呼ばれていると頭の中が真っ白になって、何も感じなくなるんだ。何か起きても、おれは役に立たないと思ってくれ。自分の身は自分で守れ。何かあってもおれをあてにするな。おれを置いて逃げろ。いいな?」
「でも――」
「本当は、ここにあんたを連れてきていること自体が馬鹿なんだ。でも、頼む――。いけるところまででいいから、ついてきてくれ。おれ一人ではいけない。怖い」
「いくよ、いく!」
狭霧は、高比古の袖を思い切り掴んだ。
今の高比古を一人にはしたくなかったし、道が険しいからとか、何が起きるかわからないからという理由で手を引くのは絶対にいやだった。それに――。阿伊に来てからというもの、高比古は「怖い」と何度か口にしていた。それは、狭霧にとって少々違和感を覚えることだった。
高比古は、どちらかといえば怖いもの知らずのほうだ。阿多で窺見となって敵に会いにいく時も、父に婚姻の許しを請いにいく時も、高比古はほとんど焦りを見せなかった。
狭霧の頭上で、高比古は照れ臭そうに苦笑した。
「あんたがいてくれてよかった。――いこう」
そして、一向に道筋を示すように再び先頭に立ち、歩き始めた。
御津に近づいているせいなのか、高比古が自分でいったように昨日より扱いに慣れたせいか。その日、高比古の足取りは力強かった。
傾斜のある坂道でも躊躇なく登っていき、狭霧が話しかけても耳に入っていないように進み続ける時もあった。そうかと思えば、突然立ち止まってそばの梢に手をつき、うなだれる時もあった。
「腹の底が、気味悪い」
いまにも胃の腑の中のものを吐き出すような仕草で、そういう時の高比古の顔は、血の気が引いて真っ白になっていた。
でも、そうして足を止めるのは、わずかな間。何度か深く息を吸い、顔を上げると、高比古の足は再び歩き始める。
「高比古……」
「平気だ。いこう」
昨日までとは打って変わって、その日、高比古は元気に見えた。でも、狭霧はそれが不安だった。
その日、高比古が狭霧を振り返ることはそう多くなく、二人はあまり目を合わせることがなかった。
高比古はまっすぐ前を向いて歩き続けたが、その目が、どうしても狭霧には不安だった。
高比古は前を見ていたが、狭霧や八重比古や、彼以外の人と同じ景色を見ているようには見えなかった。普通の目には視えないものを見て、人の耳に聞こえないものを聴いて、その〈御津〉という聖地を探しているような――。芽吹きの季節を迎えた山の景色ではなく、もっと別のものを視ているような――。
(高比古は、事代なんだ――)
事代がどんなものかは、まだ狭霧によくわからなかった。でも、高比古が遠のいていく気がしてたまらず、「自分はここにいるよ」と伝えたくて仕方なくなった。
「ねえ、高比古。どんな感じ? もっと近づいても平気なの?」
高比古は、狭霧ではないものに集中していて、片手間に答えているという風だった。
「ん、ああ。向こうも、おれに気づいた」
「向こうって? 水の音がするの?」
「違う、御津だ。おれを向いて、呼んでる。手招きをしてる。――幸せそうに笑ってる」
「笑ってる? ――誰かがそこにいるの?」
「そういう気配がするだけだ。おれを、呼んでる」
高比古はしだいに、道を選ばなくなった。
山道を逸れて雑木林に入ろうとすることもあったし、目の前に川が現れた時に、すぐそばに橋が架かっているにも関わらず、じゃぶんと水に飛び込み、はっと我に返って後ろを振り返ることもあった。
だから、狭霧は確信した。
(高比古は今、わたしと同じ景色を見ていないんだ。道も橋も水も見ていないんだもの)
高比古が道を選ばなくなったのは、御津という場所にたどり着くために最も手っ取り早い道をいこうとしているせいだ。
夢中で歩き続ける高比古が怖くなって、狭霧は何度か呼びとめた。
「高比古、少し休もう? わたし、なんだか怖い……」
でも、太陽が真昼の高さに上った頃まで道を進むと、いくら声をかけようが高比古の足は止まらなくなる。いつも通りの歩幅で歩いていては追いつけなくなり、狭霧は小走りになって追いかけた。
高比古は走っていた。そして、ある時ぴたりと足を止めた。
その時、道は大川と谷の斜面に囲まれていた。雪解けの季節を過ぎていたせいで、川の水面は道よりずっと低い位置にあったが、ざあざあという水音はあたり一帯に轟いている。
でも、『水が……』と何度も口にしていたくせに、やはり高比古は川の音に見向きもしない。
往来した人の足が草を踏んでできた小道の真ん中で立ち止まると、高比古は川とは真逆の方角を向いた。そこには、川と向かい合ってそびえ立つ小さな山がある。傾斜がきつく、山肌はまるで壁のようにせり立って一行の目の前にそびえていた。
「あそこだ」
高比古は斜面を目指して駆け出した。
道を逸れて草むらに分け入ると、飛びつくようにして斜面を覆う草や梢を掴み、きつい坂を駆けのぼる。高比古が踏んだ落ち葉やかき分けた草や枝がこすれて、がし、ざざ……というさざめきとなり、その音は耳障りなほど狭い谷に響いた。
力一杯斜面を登っていく高比古は、まるで、小さな獣が山上にある巣へ逃げ戻っていくように見えた。彼の白い衣は、あっという間に山の木々に隠れていく。
「待って、高比古!」
狭霧は慌てて後を追った。八重比古たちも、駆け出した。
だが、紫蘭は細い声でぎゃあっと悲鳴をあげてそれを止めた。
「いってはなりません、お戻りください。そこは、津です……。たしかに、御津です」
声につられて振り返った時、紫蘭は、小柄な身体をぶるぶると震わせて青ざめていた。
その時、すでに狭霧の足は斜面を登ろうと黒土を踏んでいて、手は、そばに立つ梢の枝を掴んでいた。
「津? そうよ、ここはきっと御津よ。高比古がそういってるもの」
「はい、御津です。ですから……! この先に人がいってはいけないのです」
狭霧は、紫蘭の言い分がよくわからなかった。
嘆願するように首を横に振り続ける紫蘭に、狭霧は泣き声に近い声でいった。
「どういう意味? よくない場所なの? なら、なおさらいかなくちゃ。高比古を呼び戻さなくちゃ」
斜面は木々と背の高い草で覆われていたので、先に登った高比古の姿はすでに見えない。ただ、上のほうから、人の手がかき分けている木々や草のざわめきが響いている。
狭霧は、斜面の上方を見上げて呆然とした。
「音が、あんなに高いところから聞こえてくる。もうあんなところまで登ったんだ――。いかなきゃ」
手に掴んだ枝を思い切り引くと、力強く足で土を踏んだ。その斜面は壁のように反っていたので、登るには、足場だけでなく手で身体を支える場所を探しながらでないと難しい。
茂みの中に手をさ迷わせて夢中で次の枝を探していると、狭霧の両隣にさっと黒い影が現れる。八重比古たち、武人が追いついていた。
「狭霧様、手を貸します」
「ありがとう、助かります」
八重比古は、一歩先を登るたびに狭霧の腕を引き、持ち上げてくれた。
ほかの武人たちも、八重比古の後に続いた。
「いくぞ、狭霧姫をお助けしろ」
そして、一行は、
「高比古様、どちらにいらっしゃるのです、高比古様!」
ざざっという森の葉擦れの音と、下方からしとしとと響く谷川の水音に覆われて、一行が上方へ向かって呼びかける声は、すぐに音を失って薄れていく。
まるで、足もとに広がる豊かな黒色の土壌に、音というものが喰われて消えゆくようだった。
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