御津 (1)

 武人や事代たちの仮宿となったのは、雪よけの蓑やつくりかけの祭具など、里の道具置き場となった東屋あずまやだった。山から伐り落としてきた細い枝を束ねて急場しのぎの壁を作り、土の上にむしろをひき、八重比古やえひこたちはその上に所狭しと並んで眠っている。


 朝もやが残る中、狭霧は集落の通りを駆けて、仮宿にこっそりとお邪魔した。紫蘭しらん桧扇来ひおうぎの枕元に寄って、寝ぼけ眼をする二人に考えを伝えると、二人の事代は明け方の眠気を忘れ去ったように顔を輝かせた。


「なるほど、姫様。それはいい考えです!」

 早速、狭霧と高比古の寝所となった住居へ連れだって戻ると、紫蘭と桧扇来は、住居を挟むような位置に立ち、両手を虚空に突き出して顎を引いた。


「姫様は外にいらしてください。これから術をかけます」


「うん、わかった。高比古に伝えてくるから、ちょっと待ってて」


 住居の中で、高比古は寝転んでいる。狭霧が枕元でうずくまっても、高比古はぐったりとしたままでほとんど身体を動かさなかった。


(待っていて。もうすぐ眠れるから)


 事と次第を伝えて外へ出る頃、住居の入り口にかかっていた肩布は外されていた。


 隙間ができたせいで、そこからは中の様子を覗くことができる。狭霧は、住居の入り口の真正面に立って待つことにした。そこから力なく横になる高比古の寝姿を見つめて、様子を見守った。


 そして――。


「では、始めます」


 紫蘭と桧扇来は前置きをして、声を掛け合った。やがて、二人の目がまばたきをしなくなる。まぶたをもたない蛇のように見開いたままの目で、二人は住居の奥をじっと見つめた。


「……の、し……よ――」


 二人の唇から、奇妙な音が漏れ始めた。


 それは、人の眠りを誘う言霊ことだまなのか――。


 やがて、狭霧は、頬や指先に温かな風を感じ始める。こういう場に何度か居合わせたせいで、これがなんらかの術がかかっている状態だと、頬や指先はすでに覚えていた。


(風が生まれた……。眠りの術がかかった。高比古は、眠れたかな)


 どきどきと胸を高鳴らせて、入り口の隙間から、住居の中の様子を目で追い続ける。


 でも、高比古は眠らなかった。いや、狭霧たちがもくろんだようには、眠らなかった。


 高比古は、ある時びくりと勢いよく身体を跳ねさせた。まるで陸にあげられた魚が身をしならせるようで、身体が一度宙に浮く。


「高比古! やっぱり駄目だった? 眠ろうとすると、怖くなった?」


 狭霧は大声で呼びかける。でも、そのまま呼び続けることはできなかった。言葉を失った。


 身体を引きつらせた後、高比古は、眠るどころかじわりと膝を立ててゆっくりと起き上がった。しかも、仕草が彼らしくない。動き方もおかしかった。


 高比古は外へ出ようとしたが、歩き方がいつもと違う。右足、そして、左足……と、奇妙なほどゆっくり左右の足を進ませて、ゆらりゆらりと歩いている。


 その住居の広間は半地下にあった。造りのせいで入り口の天井が低く、頭をそれより低くしないとくぐって外へ出ることができない。それなのに、高比古は身をかがめようとしなかった。頭がつかえる低さの天井があるのは見えているはずなのに――。


 ずん! と額がぶつかり、高比古の足がよろける。


「高比古?」


 狭霧は目をしばたかせた。


 住居の外へ出ようとしているのは、高比古だ。でも、今の彼は、いつもとはまるで違う別人のような振る舞い方をしている。まるで、粘土玉を繋げてつくった人形が、誰かに操られているような――生きている人ではないような――奇妙な動き方だった。


「紫蘭、桧扇来、高比古の様子がおかしい!」


 通り抜けられないことに首を傾げるでもなく、高比古は、ずん、ずんと、低い天井に何度も頭をぶつける。


 通れないとわかれば身をかがめてもいいのに、ぶつかったことなど覚えていないといいたげで、何度も何度も力任せにぶつかってそこを通ろうとした。


 とうとう草壁に裂け目が入り、外にいる狭霧からも、壁の隙間から高比古の黒髪が見えるようになる。高比古の前には、草壁だけでなく、天井を支える梁も横に渡されている。それにも、高比古は力ずくでぶつかっていく。


「高比古、どうしちゃったの」


 狭霧の足がすくんだ。


 高比古は無表情をしていたが、目は開いている。目が開いているなら、目の前の景色は見えているはずなのに。


 紫蘭と桧扇来も言霊を唱えるのをやめ、呆気にとられたように主の姿を見つめている。ある時二人は、はっと気色ばんだ。


「紫蘭、術をかけるよ。次は、目を覚ます言霊を――」


「そうだね、桧扇来。すぐに!」


 狭霧の両隣に立った二人の事代は、揃って両手を前に突き出すと、さっきとは違う響きの音を唱え始める。


 その言霊は、高比古の目を覚ましたのか。草壁に頭を突っ込んだまま、高比古は一度よろけた。そのまま、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。


「高比古……」


 狭霧は慌てて駆け寄った。


 草壁が裂けたり、茅葺きの屋根が崩れ落ちたり、梁となった枝が傾いたりして、住居の入り口あたりの土にはさまざまなもののかけらが落ちて散らかっていた。


 高比古の髪にも、茅が何本も刺さっている。


「こっちよ、高比古」


 腕を引っ張って、高比古の身体を住居の外へと引っ張り出した。高比古は、狭霧の腕を掴み返して、呆然とした。


「今、何が――。おれは……」


「わからない。いったい何が起きたの?」


 狭霧の目に、涙がにじんだ。そばにいたとても大切な人が突然消え去って、また戻ってきてくれたと、そう思って仕方なかった。


 肩にとりついて、衣服の布地にぎゅっと目頭を押しつける狭霧を見下ろして、高比古は眉根を寄せている。それから、背後を振り返った。そこには、力ずくで壊した住居の草壁の残骸がある。


 高比古は、舌打ちをした。


「これは、おれがやったのか」


「違うよ、高比古じゃなかった」


「おれじゃない?」


「高比古だけど、いつもの高比古じゃなかった。どういうこと? 眠ってしまったら、高比古は別の人になっちゃうの?」


 高比古は少し黙って、額をおさえた。


「なんのことだ。頭が、痛い――」


 ため息をつくと、自分の部下を探して呼び寄せた。


「説明しろ。今、何が起きた?」


 紫蘭と桧扇来は、少し離れた場所に並んで立っていた。


 声がかかると小走りでやってきて、互いの顔を注意深く覗き、力強くうなずいた。


「間違いないよね、紫蘭」


「うん、間違いないよ、桧扇来。これは、気がつかなかった……」


 二人は、おどおどとしつつも主から問われるままに答えた。


「いま、紫蘭と二人であなたに眠りの言霊を――」


「ああ、知っている。狭霧から聞いた。その後どうなった。言霊を聴いた覚えはあるんだ。でも、その後のことをおれは……」


「あなたは、ここを出てどこかへいこうとしていました。恐らくそれは――」


 言葉を濁した紫蘭に代わって、桧扇来は、細身の身体を前のめりにさせて話を続けた。


「それに、高比古様がしばらく眠れなかった理由もわかったのです。それは、あなたご自身のせいです」


「おれ自身……?」


「いま、術をかけたり解いたりしてみて、気づきました。高比古様の身には、眠りを遠ざける術がかかっています。それをかけたのは、あなたご自身のようです」


「眠りを遠ざける術? おれが?」


 目配せをし合いながら、紫蘭と桧扇来は、声をひそめて早口でいった。


「ええ。あなたは、無意識のうちに術をかけている。それはきっと、いま眠ってしまえばこうなると、あなたご自身がどこかで気づいていらっしゃるからです。――あなたを、私たちの術で眠らせることはできません。眠らせるということは、あなたがご自身でかけた術を私たちが無理やり解くということ。つまり、今と同じことが起きるということです」


「待て。おれが自分で眠れなくなる術をかけた? 無意識のうちに――」


 高比古はうつむいて、目元をおさえた。


「さっぱり覚えがないんだが。それに、眠った後おれはどうなったんだ。覚えていないんだ。いったい何が起きた」


「それは……」


 紫蘭と桧扇来は口ごもり、それから首を横に振った。


「わかりません。ただ、どこかへいこうとしていらっしゃいました。みずからの考え方や、これまでの記憶をすべて忘れ去って、そこへいくことだけを目指していらっしゃるような――。おそらく、目指していた場所は……」


 高比古は、ため息をついた。


「御津、か――」


(御津……)


 高比古の肩に取りつきながら、狭霧は、鳥肌が立っていくのを感じた。


 三人の話を聞いて、一つそうだと感じたことがあった。それは――。


(御津っていうのは、たぶん怖いところだ。そこへいきさえすればどうにかなるものじゃなくて、もっと――なんだろう、わからないけれど。そこにいってしまったら、きっと何かが起きるんだ)


 狭霧は、震えをこらえるように唇を横に引いた。






 朝餉が済むと、一行は出立の身支度を整えた。これ以上留まっても、主の高比古が休まることがないとわかったいま、一行の目的は、いち早く御津にたどり着くべしと代わった。


 いつもなら高比古は、馬にまたがる時、鞍に手を置いてひらりと飛び上がるように乗る。でも、今朝は――。足がふらついて、颯爽と飛び上がるどころか、自力ではうまく馬にまたがることすらできなかった。


 何度も戦を駆け抜けた策士で、そのうえ、次の武王とまでいわれている奴が一人で鞍にまたがれないなど――。八重比古たちが手を貸そうとすると、高比古は「恥をかかせるな」と強情を通したが、彼の脚が鞍の高さまで上がることはなかった。結局、供の武人の手で馬上に押し上げられた。


 できなくなったのは、鞍に飛び上がることだけではなかった。馬の背に乗った時の揺れに耐えられずに、道中、何度か姿勢を崩して、落馬しかけた。


 仕方なく、狭霧が高比古の後ろに乗り、身体を後ろから支えることになった。


 高比古は忌々しげに表情を歪めた。


「なんなんだ、これは――。策士としても、事代としてすら働けない。御津にいかなければ、おれにもとどおりの暮らしは帰ってこないらしい。――冗談じゃない」


 それから、両側を歩く小柄な部下たちへ尋ねた。


「なあ、紫蘭、桧扇来。おまえたちはどう思う。御津とは、いったいなんだ」


 紫蘭は、申し訳なさそうにうつむいた。


「わかりません。その気配を感じていらっしゃるのは、あなただけです」


 紫蘭の後ろを歩く桧扇来も、おずおずといった。


「ただ、あなたが向かおうとしている方角は、離宮を出てから一度もぶれることなく変わりません。それそのものが動いているわけではなさそうです」


「その場所は、移動していないんだな」


 高比古は落胆していた。馬上で揺られながら、くねった山道の景色をぼんやりと眺める。そこには、人の手がつくった田や畑の影が一切ない雑木林が広がっていた。


「安曇との約束は二日後の晩だ。あと、ふた晩――。早く片をつけないと――」






 谷筋に沿って進むくねった山道は、時に山と山に囲まれた小さな野を貫く獣道にかわった。野道にさしかかった時、高比古はびくり、びくりと身体を震わせた。ひどい時には雷に撃たれたように大きく背中を跳ねさせるので、しだいに狭霧の力では抑えきれなくなる。


「狭霧様、いったんお降りください。隣の馬へ――」


 高比古の馬を囲んで歩く八重比古たちは、狭霧が高比古の背中に跳ね飛ばされるのを懸念したが、高比古は首を振ってそれを止めた。こめかみには、脂汗がにじんだ。


「だめだ、狭霧、そばにいてくれ。手を……」


「わかってる。隣を歩くから」


 そのまましばらく進むが、とうとう八重比古は、これ以上高比古を座らせるのは危ないと判断をくだした。


「このままでは落馬なさるのも時間の問題です。万が一を考えて、馬の背に担がれてはくださいませんか」


 高比古は渋ったが、狭霧が説得するとしぶしぶと折れた。


 それは、馬の背にうつ伏せに覆いかぶさるような乗り方で、病や怪我におかされた人など、身体が弱って歩けない者を運ぶための方法でもあった。もしくは、自分の足で歩くことを許されない罪人とがびとか、奴婢か――。


 かつ、かつ、かつ――。馬の蹄の音が、谷筋に沿って続く野道に響き続ける。


 その日、太陽が空に昇ってから天道をとおって西の端に寄るまで、高比古は何度も身体を魚のように跳ねさせた。そのたびに、きまって狭霧の手を探しはじめるので、隣を歩く狭霧はその手をぎゅっと握りしめ続けた。


「平気よ、わたしならいるから」


 高比古は疲れていた。まぶたは半分下りて、こめかみには濁った汗がにじんでいた。


「何が起きているのか、よくわからない。頭が朦朧としてきた――」


「寝ていないからよ。何もしなくていいから、じっとしていよう? そうしていれば身体は力を取り戻すんでしょう? そう言っていたのは高比古じゃないの」


 馬上に担がれながら、高比古は小さく首を振った。


「眠れない疲れじゃない。それだけじゃない……」


「高比古は、知らないうちに眠らない術をかけているらしいよ。わたしはよくわからないけれど、事代の技を使えば疲れるものでしょう?」


「そうでもない。事代の技は、風や土や火や、もとからそこにあるものを生かすものだ。そうじゃなくて、何かが――。だめだ。気が遠のく……」


 そのまま高比古は目を閉じ、静かになった。動きがなくなると同時に、顔からは血の気が引いていく。その様子は、熟睡しているようにも見える。


 でも、すぐに高比古は馬上で身体を跳ねさせて、目を見開いた。仕草は大きく、心の臓をぐさりと貫かれたかというほど。目を覚ました高比古は、青ざめていた。


「いま、少し眠った――。寝ては駄目だ。水がおれを呼んでいた――」


 それはつまり、眠らないようにと、無意識のうちに高比古が自分にほどこした術が、疲れによって破られ始めているということだ。


 虚空をさまよう高比古の手を、狭霧は夢中で握り締めた。


「なんだか怖い……。水って何? 高比古はいったいどうなっちゃうの」


「おれも怖い。そばにいてくれ。おれをここに繋ぎとめてくれ」


 野道をいき、小山を抜ける坂道を登って、降りる。すると、山道の周りの景色が変わってきた。右側にせり立つ山の斜面に、順序良く並ぶ棚田が現れはじめた。次の山里にいきついたのだ。


 景色を見やって、八重比古は肩を落とした。


「残念ですが、いったんここで休みましょう。日の光が薄れてきました」


「そうね。先へ進みたいけれど……」


 狭霧も、天を仰いだ。


 頭上に木々が覆い茂る山道では光が枝葉で遮られるので、平地より先に暗闇が訪れる。慣れない道を暗がりの中で進むのは危険だった。


 たどりついた里でも、高比古と狭霧は里長の住居を明け渡されて、そこで休むことになった。


 高比古は、狭霧を放そうとしなかった。しがみつくように狭霧を腕に抱いて、時おりびくりと身体を跳ねさせる。


「水音が……少し、このままで。引きずり込まれそうになった」


「引きずり込まれる? どこに――」


「わからない。でも、そういう気分だった」


 高比古がつぶやく言葉は、日に日に不穏な陰を帯びていく。


 でも、狭霧には不思議に思うことがあった。


 昼間一行が山道を進む間、狭霧たちは何度も小川のそばや滝壺の前を通り過ぎた。そこには、さらさら、しとしとという涼しげな水音が響いていた。でも、高比古は見向きもしなかった。水音はずっと彼の耳に聞こえていたはずなのに。


「水音が聞こえたって、どんな音がするの? とくべつな音?」


「うまくいえないが、普通の水音とは全然違う。重くて暗い音だ。その水音を感じると、目の前が真っ暗になるんだ。湿っていて、妙な甘みのある奇妙な臭いがして、少し生臭くて、洞窟の中にいるみたいな――。狭霧」


 ふいに、高比古の腕がすがりつくように狭霧を抱きすくめた。

 

 懸命に狭霧を抱きしめる高比古は、まるで、崖から足を滑らせた若者が、最後の望みを託して指で岩を掴んでいるようだった。狭霧はそう感じて、ぞっと背中が寒くなった。


 前に二人で出掛けた阿伊の峡谷で谷底を見下ろした時の光景が、まぶたの裏にありありと蘇った。


 あの谷はとても深くて、底には巨大な岩がごろごろとあった。ある岩は尖って天を向き、ある岩は卵のように丸い形をしていて、その隙間をごうごうと地響きのような音を立てて、白い泡を水面に散らせた清流が勢いよく流れていた。


 落ちたら最後、清流に飲み込まれて身体は翻弄され、谷底を埋め尽くす大岩に叩きつけられて肉も骨も粉々になるだろう。その奈落の底に、高比古がその指からほんの少し力を抜けば、消えていってしまいそうで――。


 狭霧は思わず、声をひきつらせた。


「やめよう、高比古。帰ろう」


 高比古は、はっと苦笑して、自分の胸元に取りついた狭霧の肩を抱いた。


「駄目だ。いく……いかないと、何も終わらない」


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