石の乙女 (1)


 狭霧の耳に森のさざめきが戻った。――風が吹いた。


 寝転んでいる場所は、少し湿っぽくてぬるい。草の上だ。周りに人がいて、かちゃりと剣の金音を響かせている。鉄の音で自分を囲んでいるのは、きっと八重比古たち、高比古と狭霧の身を守るべく同行している武人だ。


 金音だけでなく、狭霧の耳には不思議な音も届いた。人の声であることはたしかだが、意味のわからない音の連なり――言霊ことだまだった。


(言霊だ。誰が唱えているんだろう。紫蘭しらんかな。あんなに怖がっていたのに、来てくれたんだ。いまもそこにいて、高比古を助けてくれている……)


 よかった――。そう安堵するのもつかの間。狭霧は、はっと我に返った。


(高比古は――)


 力が入らなくて、身体はやたらと重かった。身を起こして高比古の姿を探すと、彼は、すぐ隣に横たわっていた。失神したままかと思いきや目は開いていて、目尻に涙をこぼしている。そのうえ、うわ言のように繰り返した。


「いやだ、いやだ――」


 狭霧は、面食らった。


 狭霧が高比古に出会った時、彼はすでに策士という位を得ていた。その頃から次の出雲王の位を約束されていたようなもので、ふさわしい才能もあり、彼自身もそれを認めていた。だから、狭霧にとって高比古は出来のいい兄で、尊敬する相手だった。


 でもいま、高比古は、息をこらして泣いていた。彼が大切にしていた自信や誇りを一切捨て去ったように、身をすくめて――。


 ふと、言霊の響きが止んだ。すぐに、さく、さく……と草を踏む音が近づいてくる。


 やって来た人は、言霊の代わりに人の言葉を話した。


「ひとまず、ここは結界で結んだ。高比古様を運ぶならいまのうちだ」


 狭霧は驚いて、声のしたほうを振り返った。雲宮を出てから一度も聞いていなかった、とある娘の声だったからだ。


 そこにいたのは、日女ひるめ。出雲の一の宮、神野くまの神殿かむどのの巫女で、その宮に仕える巫女ならではの丁寧に水にさらした純白の上衣に、朱色の裳をつけている。


 日女の身体は細かったが、その身体つきに似合わない武人じみた勇壮な歩き方をした。きつい傾斜のある山肌を一歩一歩登って、狭霧たちのそばまでやってくる。緑の草の上に横たわる高比古の姿を見下ろすと、真顔をして、敵を探すように上方へ目を向けた。黒い泉が音もなく湧き出る、山の窪みあたりだ。


 狭霧と高比古がそこから転げ落ちたので、一行は泥の壁から少し離れた草の上に集まっていた。


 くるりと背を向けると、日女は颯爽と歩き始めた。向かった先は、狭霧が登った裏の坂道だった。


「み、巫女どの、そこは危ないぞ」


 その道は底なし沼のように地面が柔らかく、行く手にあるものは奇妙な黒い泉。一部始終を見ていた八重比古たちは日女を止めたが、日女は足を止めなかった。


 日女は狭霧が足をとられた黒い沼の手前で立ち止まり、腰を落とした。地面に向かって白い指先を近づけると、そこに溜まった黒い水をかき取るようにして、そっとすくい上げる。そして、朱で彩った唇に近づけていくと、ぺろりと舌で舐めた。仕草は、味の品定めをするようだった。


「なるほど。これが、御津」


 日女は奥を見つめた。そこには、斜面にできた小さな窪みのような場所があり、ほとんど水音を立てずに地面から湧き出る黒い泉がある。


 日女は、唇の端をつり上げて笑った。


「なんと、御津とは、死者の世と生者の世の、繋がる水辺か――」






 斜面を降りて戻ってくると、日女は一行の指揮をとった。日女がとくに念入りに注意をうながした相手は、狭霧だ。


「おまえはいますぐ唇を閉じろ。これから先、私がいいというまで、私がなにをいっても絶対に返事をするな。そうしないと、女神がおまえの息に気づく」


「――え? 返事?」


「なにが、『え?』だ。婚儀ではそう習わなかったか? それから、飾り着を脱げ」


「え?」


「色が邪魔だ。脱げ。出雲王の妻は、白以外の色を身に着けないほうがいい。白は清廉潔白の証だし、『無』という意味もある」


 狭霧は、白の上衣とはかまの旅装束に、せめて娘らしくと椿色の飾り着を重ねていた。


 いわれるままに飾り着を脱ぐと、日女が手のひらを差し出しているので、その手の上に乗せた。飾り着を受け取ると、日女は自分の上衣に重ねてそれを着た。


「白に、そんな意味があったん……」


 思わずつぶやいた狭霧を、日女は刺すように冷たい目配せで止めた。


「おまえは馬鹿か? 喋るなといったろう? 今、何かを思っても決して口に出すな。そうしないと、女神がおまえの口から入って来て、身の内に巣食うぞ?」


 狭霧の椿色の上衣を身に着けると、次に日女は自分の腰のあたりをたしかめた。そこには拳大の小さな壺がくくられている。壺をくくりつけた紐を解いて胸の高さまで持ち上げると、日女は壺の蓋になった革布も外した。


 壺の中に指を入れて、中身をすくいとる。


「ひとまずはこれでよしとしよう。本当は、婚儀の時のように白の領布ひれがあればいいんだが――」


 壺の中身をすくい取った指先で、日女は狭霧の額に触れた。


 色の白い日女の指先には、どろりとした赤黒いものがついていた。それで狭霧の額に模様を描いていく。べったりとした感触は、さっき狭霧が狂ったように振り払おうとした黒い泉の水と感じが同じだった。


(なにをしているの?)


 喋るなといわれたので、目配せで尋ねた。すると、日女は淡々と応えた。


「女神がおまえに目をつけた。いまおまえの額に描いているのは領布と金の冠の代わりで、おまえの気配を隠すものだ。おまえの衣は私が着て、女神の注意をひいてやる。だから、しばらく目立つな」


(目立つな?)


「これでいい」


 日女は狭霧の額から指を離して、もといた場所へ戻っていく。


 少し離れた場所で立ち止まると、日女は、狭霧の姿を頭の先から足のつま先までじろじろと見てたしかめる。それが済むと、次は日女自身の番。自分の身に重ねた狭霧の飾り着を見下ろした後で、日女はにやっと笑った。


「これでいい。これでおまえはこの世に存在しなくなった。いま、高比古様の妻は私だ」


(えっ?)


 その時、よほど狭霧が目を丸くしていたのか。


 日女はぷっと吹き出して、狭霧の間抜け面を嗤った。


「おまえを守ってやるといっているんだ。――支度ができた。全員ついて来い。ここを離れる。高比古様を運べ」


 日女は、高比古を囲む一行を見回すとそのように命じた。


 そして、みずからが先頭に立って、緑の斜面を一歩一歩降りていった。






 山の斜面を降りるにつれて、下方を流れる谷川に近づいていくので、あたりに満ちる水音が大きくなっていく。


 斜面を降りきって小道に戻ると、来た道を戻り、しばらく歩いた後に足を止めた。


 そこで日女は、後をついてくる一行に次の指示を出した。少し歩いたとはいえ、振り返れば〈御津〉という奇妙な場所をいただく小山を眺められる場所だ。


「ここがいい。武人たち、やぐらを組めるか? 雨露がしのげる東屋あずまやでいい。そこらの梢を伐って、柱と梁、床をつくる。少し下の水際に大芋の葉が見えた。その葉を屋根の代わりにすれば仕上がると思うが」


「ああ、仮やぐらか。それなら、すぐに造れます」


「では、さっそく頼む。まずは柱を建ててくれ。そこを軸に結界を張ろう。――まずは、高比古様を休ませなければいけない。ひとまず、ここで落ち着くことにしよう」


 日女と八重比古たちの間で、するべきことの相談はつつがなく進められた。


 剣を抜いて梢の細い幹を伐り、柱として四隅に建てると、武人たちは手頃な太さの枝を切り落として、はりや床とした。縄の代わりに丈夫な蔓を使い、雨避け笠にもできそうな大きな芋の葉を刈ってくると器用に並べて屋根にして、余った分は床に敷き――。


 狭霧が目を丸くするほどの速さで、簡素な東屋はどんどんと仕上がっていく。ほとんど時間をかけることもなく、武人たちは、何もなかった草地に東屋を建ててしまった。


(すごい、もうできた)


 手際の良さを仕草で褒めると、八重比古は苦笑してこたえた。


「戦では、こういう技も必要なんですよ。戦場で、窺見うかみや斥候を任された者が長居をする場合、森の奥にこういう東屋を建てますので」


 狭霧は、ぐったりと寝そべる高比古の傍らで、東屋が仕上がるのを待っていた。


 日女はそこを離れて、東屋の四方や、東屋を囲む草むらの端に立つ梢を回り、手にした壺の中身を塗りつけていた。


 日女が次の柱へ移った後に梢を見てみると、そこには赤黒い色の模様がついていた。日女が狭霧の額にそれを塗ったように、梢のものも日女が描いたのだろう。


 東屋の中に日女が戻ってくると、狭霧は指でさして仕草で尋ねた。


(あの印はなに? わたしの額に描いたのと同じもの?)


「今、おまえに教える必要はない」


 日女は冷笑して答えず、狭霧を無視して高比古のそばに膝をついた。


 それから、手のひらを高比古の頭上にかざす。まぶたを閉じて虚空に顎を向け、聞き取れないほどの小声でぼそぼそとつぶやき、それから――。


 やがて、狭霧が握り締めていた高比古の手から、力が抜けていく。


 もともと高比古は、力尽きたようにぐったりとしていた。でも、いまや高比古の指は、放っておけばだらりと垂れるほど力が入っていなかった。そのうえ、狭霧は、すう、すう……という寝息を聞いた。


「高比古が、眠った……」


 思わず、高比古の顔をたしかめる。まぶたが閉じていて、興奮も苦しみも焦りも一切感じられない純朴な真顔をしている。寝顔だった。肩や胸もとがゆっくりと上下して、しだいに吐息は長く、ゆったりとしていく。


 小声でつぶやいた狭霧に渋顔をしつつ、日女が答えた。


「結界の中だからだ。今の状況で眠りは怖い。よけいな魔物がこの方に入れば一大事だ。高比古様ほどの身体なら、神だけでなく魔物も欲しがるしな」


「神だけでなく魔物も――それって?」


 怪訝に眉をひそめる狭霧に、日女が冷笑を向ける。


 狭霧から目をそむけて、東屋の外でぽつりとたたずんでいた紫蘭を呼び寄せた。


「そこにいる事代ことしろ、来い。手伝え」


「は、はい、巫女様!」


 紫蘭は呼ばれると飛び上がるように姿勢を正して、柱と屋根だけでつくられた簡素な舘、東屋をつくる柱の脇をすり抜けると、中央で寝転ぶ高比古のそばへと駆けつける。


 日女の態度は横柄だったが、紫蘭はそれが当然とばかりに従順だった。


「さて。柱に結界の印をほどこしたが、今、眠りは危うい。結界の守りは私がするが、おまえは結界の外で異常に備えよ。高比古様をお守りしよう。――見張りを頼む」


「は、はい」


 紫蘭は力強くうなずき、すぐさま踵を返してもといた場所へと戻っていく。そこですっくと立つと、ひたすら立ち続けた。それからの紫蘭は、東屋の外側だけを見続けた。


 紫蘭の細い背中を見届けつつ、日女は一度表情を歪めた。


「どれだけもつか。せいぜい二晩、もしくは一晩だろう。その間に高比古様が回復すればいいが――。とにかく、すぐさま神野へ使者を送らねば」


「あの――」


(もつって? 使者……?)


 日女に訊きたいことは、たくさんあった。


 しかし、尋ねようとして狭霧が唇をひらくとすぐに日女が振り返ってぎろりと睨む。


 視線で狭霧を牽制すると、日女は、東屋を仕上げようと力仕事に励む八重比古たちへ向かって、大声をあげた。


「誰か、杵築へ戻り、このことを知らせてくれ。そして、神野に使いを送らせてくれ」


 狭霧とそう年が変わらない若さの娘のくせに、日女は自分より一回り年上の高位の武人たちに対しても態度を変えなかった。武人の長、八重比古と目を合わせると、有無をいわせず命じた。


「神野へ、水鎮めの巫女が要ると伝えさせてくれ。東屋は、そのまま造り続けて広げていけ。私の勘では、ここは、いまに神殿かむどのが建つ場所となる。巫女が朝から晩まで眠らずの番をして守り続ける、聖なる場所になるよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る