石の乙女 (2)

 次に日女ひるめ東屋あずまやから出て、茂みの外れに繋がれた三頭の馬のもとへ向かう。二頭は高比古と狭霧のために、一頭は荷運びのために連れられていた。


「誰か、このむしろを細く裂いてくれ」


 荷を運ぶ馬の背には、藁のむしろが敷かれていた。呼び寄せた武人に、むしろがばらばらになるように解かせると、日女は細く裂いた藁布を縒り合わせて器用に編み始めた。


「巫女様、これは――」


「神具をつくっているんだ。神野くまのの宮門や大巫女の舘、それに、杵築の神殿にある神木の幹を囲んでいるのを見たことがないか」


「杵築の神殿? あぁ、しめ縄をつくっているんですね」


「神野では、蛇縄と呼ぶがな」


「蛇縄? そういえば、形が細長くて、蛇に似ていますね」


 日女の手元を覗き込んで、武人はうなずいた。日女は顔をあげると、冷笑した。


「これは、二匹の蛇に似せた神具だ」


「二匹? 蛇の数まで決まっているんですか」


「ああ、これは、一対の雄と雌が寝ているところで、夫婦の契りの証。出雲の女神は、つねに出雲王を夫とするから」


「はあ、出雲の女神――」


「知らなくてもいい。聞き流せ。――蛇縄が仕上がった」


 手仕事を終えると、日女は草むらにいたる小道の境へと向かった。そこには、二本の木が道を挟むようにして立っている。その木と木を上のほうで繋げるように、日女は神具を取り付けていった。


 東屋から出るなといわれたので、狭霧は、日女や武人たちがきびきびと働くのを東屋の屋根の下から眺めていた。


 赤黒い模様を柱にしたためた東屋や、同じ印をつけられた野を囲む木々、そして、門のように飾られた二本の木。野は、みるみるうちに姿を変えていく。そこにつくられていくのは、聖域――神殿の囲いだった。


 狭霧は、ぽかんと様子を眺めた。


(山の奥なのに、ここは、人の手で囲まれた場所になった)


 少し前、高比古が眠れなくなった時、狭霧は朝の気配に染まっていく離宮の中に夜の気配を囲おうとしたことがあった。いま狭霧の目の前で起きているのは、それに似ていた。


(日女は、山っていうありのままの場所に、別の世界をつくろうとしているんだ――)






 八重比古やえひこたちは、まだ陽が高く昇っているうちに仕事を済ませた。


「巫女どの、東屋はひとまず仕上がったが」


「では、次は自分たちの居場所をつくれ。今晩はここで過ごす」


「ここで? わかった」


 話を済ませると、八重比古は部下のもとへと戻っていく。


 日女も東屋へと戻ってくるので、狭霧は近づいてくる日女の顔をじっと見つめた。


「今晩はここで過ごすの?」


 日女は答えず、狭霧の顔をじっと見つめ返した。狭霧は諦めかけた。


「それもわたしが知るべきではないこと? それとも、わたしはまだ口を開けちゃいけなかった? それなら申し訳ないんだけれど」


 日女は、狭霧が座る高比古の枕元までやってくると、そこに腰を下ろした。


「いや、もういい。仕度はほとんど整った。ただし、喋ってもいいが、この東屋からは出るな。今晩はここで過ごすのか、か。私もできることならここを離れてしまいたいが、どうだろうな。高比古様次第だ。どうなるかは、私にも読めない」


 日女の表情が、一回り以上齢が離れた武人たちを働かせていたとは思えないほど暗く翳る。狭霧は、その変化をじっと見つめた。


「あの、たいへんなの? ――たいへんに決まってるわよね、ごめん。何かわたしに手伝えることがあればいいんだけど」


 狭霧のそばでは、高比古がすう、すうと寝息を立てている。


 こうして高比古が眠りにつくことができたのも、今、御津という奇妙な場所から一行が難を逃れているのも、すべて日女のおかげだった。


 日女の小さな唇や、あかく彩った目元など、神野の巫女ならではの化粧や衣装を見ているうちに、狭霧はあることに気付いてはっと息を飲んだ。日女の指先が赤黒く濁っていたのだ。それは、血。日女の手は、血まみれだった。


「あなた、手をどうしたの? ひとまず水で洗おう!」


 どこかで怪我をしたのだろうか。


 誰かに水汲みを頼もうと、狭霧は東屋から身を乗り出そうとした。しかし――。


「おまえはここを出るなといったろう? この血なら、私のものではないよ」


「じゃあ、誰の……」


「いいから、私の力で守りきれているのはこの東屋の中だけだ。いま指一本でもここを出たら、女神がおまえに気づく。もう一人の事代ことしろはどこへいった? 高比古様には二人ついていたはずだろう」


桧扇来ひおうぎのこと? 桧扇来なら、阿伊あいまで戻っているはずよ。いま起きていることを杵築に知らせろって、高比古が……」


 答えながら、狭霧は首を傾げた。


「どうして知らないの? 桧扇来は、あなたを呼びにいったのよ? あなたがここに来たのは、桧扇来に呼ばれたからではなかったの」


「なるほど、あれは、あいつだったのか」


「どういうこと?」


 日女は、やれやれという風に肩で息をした。


「私がここに来たのは、事代に呼ばれたからではない。私は私で、高比古様の身が何かで覆われ始めていると感じたんだ」


 日女は小さな背を丸めると、少年がするように片膝を抱えこんでいく。すると、かたん、と固いものが床にぶつかる音がする。日女が腰に結わえていた拳大の小壺だった。


 日女はその小壺を腰から外すと、覆いの革を外し、中身を狭霧へ見せた。


「見ろ。――血だ」


 中には、どろりとした赤黒いものが入っている。


 狭霧は、思わず自分の額に指先を当てた。もしやと思って触れた指の腹は、乾いてざらざらになったものをなぞっている。


「もしかして、これも――」 


「そうだ。おまえの額の紋は、この血で描いた」


「野を囲む樹に描いていた模様も、それで描いたの?」


「ああ、そうだ。ここへ来るのにもこの血を使った」


「ここへ来るのに、血を? どうして……」


「ろくな道がなかったせいだ。駅屋うまやもないから、馬で早駆けをすることもできず、神威を使うしかなかった」


「神威って巫女の力のこと? その力を使うのに、どうして血が要るの。それに、誰の血――?」


 狭霧はごくりと息を飲む。


 日女は、苦笑した。


「人ではない。鹿の血だ」


「鹿?」


「ああ、鹿。生命の樹を頭上に宿す、霊威の獣だ。神野の山には、神に捧げる鹿が飼われている。その中の一頭――これは、そいつの血だ」


「その鹿は死んだの?」


「そうでなければ、どうやって血を抜き取る? 鹿に感謝したほうがいいぞ。鹿でなければ、死ぬのは女か子供だった」


「女か子供?」


「出雲の大地は血が好きだ。とくに好まれるのは女子供の血。女は次の命を生み落とすことができ、子供は生きていく力に溢れている。そうでなければ、聖なる庭で飼われた神のための獣の血――そういうことだ」


「血が好きだなんて、呪いとか祟りみたい。なんだか、怖いね。その……巫女は、血を使うことが多いの?」


「詳しくおまえに話してどうなる。何も起きまい? やめよう。時間の無駄だ」


 結局、日女は話を終わらせた。


 それから、矢で射抜くようにまっすぐに狭霧を見た。


「おまえに、これまでのことを聞きたい。おまえが知っていることをくまなく話せ」


 狭霧は、隣に横たわる高比古をちらりと見下ろした。


 四晩も眠れなかったのが嘘のように、高比古は寝入っていた。陽射しが明るかろうが、そばで大声を出そうが起きそうにない深い眠りに見えた。頬にはうっすらと赤みがさして、こめかみのあたりは汗で湿っている。高比古は死んだように目を閉じて動かなかったが、寝顔には人の身体の温かみが感じられた。


「あなたが知りたいことって、高比古と御津のことよね」


 狭霧は、ここ五日のうちに起きた出来事を話すことにした。


 阿伊の離宮で渓谷を見に出かけたことや、その晩から高比古が眠れなくなったこと。〈御津〉というものを探して谷筋の野道をここまで歩いてきたこと。それから、山の斜面を登って見つけた〈御津〉のこと――。


「御津か。そこでのことを、もっと詳しく話せ」


 高比古が見つけた黒い泉のことに話が移ると、日女の眼差しは鋭くなる。


 狭霧は、胸を落ち着かせようとまず息を吐いた。


「あのね。高比古を、黒い泉から遠ざけようとして、高比古の身体から黒い水を振り払っているうちにね、周りが真っ暗になったの。まるで、突然夜の世界に連れていかれたようだった。ううん、夜の暗さとは全然違った。なんていうか――闇が濃かった。夜の闇は暗いけれど、目を近づけさえすれば、必ずそこにあるものが見えるでしょう? でも、その闇は真っ黒な煙が立ちこめている感じで――なんていうのか、濁っているというか、周り中が闇色をしたものでぱんぱんに詰まっている感じというか……」


「真っ黒な煙に、闇の色をしたものが詰まっている、か。ふうん、興味深いな。それで?」


「それで? ――声が聞こえて、睨まれたの」


「声? どんなだ。何を聞いた?」


「低い声よ。でも、女の人の声に聞こえた。声は、高比古に会えて喜んでいる感じだった。それに、わたしを殺せっていっている気がした……」


「おまえを殺せ? ――理由を告げたか?」


「理由? ――わからなかった」


 狭霧は、ため息をついた。


「わたしも不思議だったの。どうしてわたしが死ななければいけないのかって。どうしてあれは、わたしを殺したかったんだろう」


「声が何をいっていたか覚えているか? なんでもいい、覚えていることをすべていえ」


「覚えていること?」


 狭霧を見据える日女の目が、いっそう厳しくなる。だから、狭霧は思った。


(それが、核心?)


「高比古がみことになって嬉しいっていっていたような――。命って、どこかで聞いたと思っていたけれど、あなたが前にいっていた〈命令する王〉って意味の言葉よね?」


「ああ、そうだ。みことは出雲王をさす言葉だ。ほかには?」


「出雲王? そうなの? 出雲を生かしてくれといっていたけれど、ほかは――」


「出雲を生かせ? どうやって……」


「それは――」


 思い出すと悪寒を思い出して、狭霧はぞくりと身ぶるいした。


「高比古に贄を出せっていっていたわ。――わたしのことよ」


 贄というのは神事のために捧げられるもののことで、つまり、狭霧を「殺せ」と高比古にいったのと同じことだ。少なくとも、狭霧はそう意味を解した。


 日女は小首を傾げた。


「それだけか?」


「それだけって? たとえば、どんなこと」


「聞いてないならいい。高比古様だけに伝えたかな」


「なんだか、こうなることを知っていたように話すのね。――あなたこそ、何か知っていることはないの?」


 狭霧は眉をひそめるが、日女は無表情を貫いて、狭霧をじっと凝視した。


「前に私が言ったことを覚えているか? その役を、私に代われ。高比古様の巫女は私だ。おまえは巫女じゃない。母親のようには巫女の真似事をするな」


「代わるって、その――贄になることを? 殺される役を代われっていっているの?」


「ああ、そうだ」


「どうして――」


 日女の表情は変わらなかった。


「どうしてだと? 高比古様――つまり、みこと形代かたしろとして命を落とした女は、女神の一部になれるからだ。その女は未来永劫とこしえに生き、神になる」


「とこしえに生き、神に――? ごめん、よくわからない」


「わからなくて結構。おまえは高比古様を愛していて、この方のおそばで生きたいんだろう? 私も高比古様を愛しているから、この方と最も深く繋がりたい。だから、形代になり、女神の一部になりたい。――櫛奈田くしなだ様と、同じになりたい」


 櫛奈田――。それは、狭霧の母、須勢理すせりの母親、須佐乃男の妻の名だ。


 忘れかけていたその名を、以前久しぶりに狭霧が聞いたのは、その時も日女の口からだった。


「櫛奈田って、わたしのおばあさまのことよね?」


「ああ、そうだ」


「ねえ――昔、何があったの」


 日女は神野の巫女。櫛奈田も同じ神野の巫女だった。とはいえ、それも日女から聞いた話で、実の祖母のことなのに、出自すら狭霧は知らなかった。


「わたし、おばあさまは、かあさまを産んですぐに亡くなったとしか知らないのよ。かあさまからもほとんど話を聞いたことがないし――」


 母にすら思い出を残さなかった祖母の話を、狭霧がこれまで耳にすることはほとんどなかったのだ。


 日女はうつむき、淡々といった。


「昔、何があったか? ――別に、いつも同じことがおこなわれているだけだ。命とは、自分がもって生まれたすべての〈時〉を捧げて、出雲の大地を守る男王だ。男王は大地の女神を守り、夫となる。女神は、男王に愛される人の娘が疎ましい。だから、男王の妻、とくに王の寵愛を受ける妻はよく命を落とす。時が来れば、女神は、自分に愛される夫になるかどうか、男王に選択を迫る。男王は女神を選び、妻は死ぬ。――と、こういうことだ」


 うまく意味が飲み込めなくて、狭霧は日女の言葉を追った。


「それって、つまり――。王になった男の人は、出雲の女神っていう――つまり、その女神様の婿君になるっていうこと? でも、王様にはお后様がいるから、女神様がやきもちをやいて、自分かお后かどちらかを選べって、王様に迫るっていうこと?」


「ものすごく簡単で下品な例えだな。まあ――それでいいが」


「下品って、失礼ね。――でも、いつもそうではないでしょう? とうさまとかあさまは、違うわよね?」


「違わない」


「どうしてよ。だって、とうさまは出雲の女神を信じていないもの。選べっていわれたところで、とうさまなら必ずかあさまのほうを選ぶわよ」


 狭霧は迷いなく否定したが、日女もぴくりとも表情を変えなかった。


「だから、はじめ、女神は出雲を守らなかった。それで、大国主と出雲は亡霊に襲われかけた。神野はそれを察して、形代を立てようとした。だが、須勢理様が拒んだ。神野が先に声をかけようとしたのが、自分ではなく別の妃だったからだ。自分がやると願い出た」


 狭霧はむっと顔をしかめた。日女が涼しい顔をして何を言おうが、それは嘘だと思った。


「おかしいわよ。とうさまは、〈形代の契り〉をしていないらしいわ。高比古がとうさま本人からそう聞いたって――」


「〈形代の契り〉なら、須勢理様がした」


「でも、〈形代の契り〉っていうものをするには男の人と女の人が二人とも揃っていなければいけないでしょう?」


「女のほうだけでもできる」


「でも、あなたと高比古だって……」


 日女は高比古と〈形代の契り〉を交わした巫女だ。


 狭霧は、その場へ向かう途中の二人に出くわしたことがあった。


 日女がいうことは真実ではないと、狭霧は確信していた。でも、日女のほうも毅然とした態度を崩すことはなかった。


「それは、私と高比古様に妻と夫という関わりがなかったからだ。だが、もし女が男王と結ばれていれば、一人でも〈契り〉はできる」


「結ばれていれば――? それって……」


 気色ばむ狭霧を、日女はからかうように冷笑した。


「婚儀を済ませたのだから、おまえにもわかるだろう? だから、大国主の場合は〈形代の契り〉を交わす女は、須勢理様でも、一の后でも、ほかの女でも、誰でもよかった。だが、須勢理様が拒んだ。噂だが、須勢理様はそこで母親の死の理由を知って腹を立てたとか」


「かあさまの母親っておばあさまのこと? 櫛奈田っていう名の……」


「ああ。神野で、大巫女を相手にひどい言い合いをして、自分なら跳ねのけてみせるといったらしい」


「腹を立てた? どうして――」


「さあ。理由は、私も理解できない。昔の話で、私がその場に居合わせたわけではないしな。というわけで、須勢理様は大国主に黙って〈形代の契り〉を結んだ。だが……結末は知っているだろう? 亡霊の祟りを跳ね除けるどころか、直前で須勢理様は、宿命を受け入れるほうを選んだ。出雲を襲いにきた亡霊が、自分の子だったからだ。その子と添い遂げるほうを選んだ」


 母の最期の日のことを、狭霧はよく覚えていた。


 とても風が強い日で、母は呪いの病に苦しみ、床に伏していた。


「じゃあ、おばあさまも……」


「櫛奈田は、巫女だった。その頃、須佐乃男は大水の対策に追われていて、女神に夢で呼ばれ、真の出雲の王になりたくば人柱を立てよという神託を得た。――大国主の代わりに、大巫女が神託を得たのと同じだ。それで、櫛奈田が選ばれた。人柱に選ばれた櫛奈田を不憫に思ったのか、須佐乃男は櫛奈田を愛したが、その末に子を授かった。それで、その子が生まれるまで、櫛奈田は王妃として離宮で暮らすことになった。そして、お産から十日後、櫛奈田は死んだ。――須佐乃男は、櫛奈田を愛したことを悔やんだそうだよ。自分も櫛奈田も、別れに苦しんだから。だが――女神は喜んだ。嫉妬する女神は、男王が愛した娘をよこされるほど喜ぶ。その後の出雲は、女神から大いに守られた。須勢理が死んだ後もだ。――そして、今だ」


 日女の余裕のある表情は、はじめから変わらなかった。


 微笑みを浮かべて、日女は狭霧を牽制した。


「これから私は、高比古様にとって唯一の妻となる。そのために、おまえの存在はしばらく邪魔だ。わかるな? 出雲のためだ」


「――よく、わからない」


「わからないだと? なら、おまえがやるか? 母親や祖母のように、生きたまま死霊に混じるか? ――冗談じゃない。それは私の役だ。勝手をするな……!」


 日女が声を荒げるので、狭霧は喉から絞り出すようにつぶやいた。


「そうじゃなくて――」


(だって――そんなので、いいの?)


 狭霧はうまく納得できずにいた。


 しかし、すぐに、二人の会話はさっと立ち消えになる。突然狭霧は腕を引っ張られて、床に倒れ込んだ。狭霧を力ずくで引っ張ったのは、青年の腕だった。そばで眠っていた高比古だ。


 引っ張られて温かな胸の上に落ちると、狭霧は目を白黒とさせる。しかし、高比古は狭霧の表情に目を向けない。仇敵を探すように日女を睨んで、目を血走らせた。


「出ていけ!」


 あまりに激しく叫んだので、声が割れるほどだった。


「おれの前で、二度と妙なことを口走るな。さっさと出ていけ! 失せろ――!」


 狭霧は、慌てて高比古を諌める側に回った。


「待って、高比古。何をそんなに怒っているの? 日女が高比古やわたしたちを助けてくれたのよ? なにか勘違いをしている?」


 日女にするべきは感謝であり、侮蔑混じりの叱責ではない。


 だが、高比古は耳を貸そうとしなかった。


 日女は、奇妙な笑顔を崩さなかった。


「私なら出るよ。高比古様を頼む」


 そういって背を向けて、東屋を出て行った。


 東屋は、柱と床と屋根だけの建物だ。壁がなく、中の様子を遮るものはいっさいない。


 日女の行方は、簡単に追うことができた。日女は、野の外側を見張り続ける紫蘭の隣へ向かうと、ひそひそと小声で話し始めた。


(もっと話を聞きたかったのに……)


 神野の巫女ならではの話を多く知る日女が遠ざかってしまったことを寂しく思いつつ、外を眺めていると、後ろから高比古の腕に囲まれて、顔の向きを変えさせられる。両腕は乱暴で、狭霧を自分の腕の中に閉じ込めようとしているのか、思い切り身体に押しつけられると、息が苦しくなるほどだった。


 狭霧の耳の上で、高比古はうわ言のように繰り返した。


「駄目だ、あんたは渡さない。駄目だ――」


 だから、いくら苦しくても狭霧は腹が立たなかった。


「高比古、平気?」


 落ち着かせようと優しく声をかけたが、かえって高比古は声を大きくした。


「――平気なわけがない!」


「どうしたのよ。何があったの」


 狭霧を抱きすくめながら、高比古は震えていた。


「あの水が……」


「水って、御津の水ね? あの水がどうしたの」


「おれに、永遠を見せた」


「永遠?」


「あいつは、おれの口を使って予言をさせたいんだ」


「予言?」


 高比古は、口にするのもおぞましいとばかりに顎を振った。


「おれが、予言? 神がこの世にいるかも、本当にそいつの言うことが正しいかどうかもわからないのに? ――馬鹿げてる。そんなもの、するわけがない!」


 最後は、絶叫するようだった。


 言葉よりも、取り乱す高比古のことが狭霧は心配だった。


「ねえ、高比古。いったい何を見たの。一度、落ち着こう?」


 しかし――。それ以上高比古がその話を続けることは、なかった。


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