二人の武王 (1)
切り立った岬の奥に、おびただしい数の船が一度に近づける広い浜があり、左右を囲む岬の岸壁が自然の風避け、波避けとなり、陸の上には、旅の疲れを癒してくれる水場と、雨をしのぐことができる岩の窪み、それから、松林があった。
そこは長門という異国の領土だが、かねてから出雲の友朋である長門の王は、出雲の船団がその浜に寄ることを快く許していた。
それは、出雲軍が几帳面に礼を通したせいでもあった。年に数度は必ず使者を送り、宿と水場の礼として手土産の鉄玉をもたせた。
神岬を出れば、船団が通るのは激しい潮流が水面に渦を巻く海峡だ。神岬は、その前に心と体を休ませる最後の地だった。
出雲軍が神岬に宿をとった翌日、まだ夜が明けきらぬ頃。
神岬の岩の上で見張りに立っていた番兵の男が、細身の男を引き連れ、砂浜を駆けた。
男が手にした松明の灯かりが忙しなく揺れて、浜で折り重なるように眠る兵たちの頬や手足を照らしている。
番兵の男が向かった先は大国主の
自分の天幕で番兵から報せを受けた安曇は眉根を寄せ、すぐに外へ出ようとした。
「まずは、大国主に知らせなければ」
急の報せを告げようと、番兵が血相を変えて走るのはよくあることだ。見張り役にとって、できる限り早く主に報せることが急務だからだ。しかし、番兵ではなく、武王に次ぐ位をもつ男までが浜に出て早足で歩き始めると、兵たちは互いに小突き合って頭を上げ、様子を窺った。
「何かあったのか」
「敵襲にしては静かだ。杵築か意宇で何か起きたかな」
ぼそぼそと囁かれる噂声を後目に、安曇は主の天幕へ向かい、入り口でそっと片膝をついた。
「
朝が近いとはいえ、まだ天には夜の星がまたたいている、それなのに――。天幕の中からは、すぐさま薄笑いが聴こえた。
「入れよ。おれなら起きてる」
主の声には、獲物を探して牙を剥く獣に似た気配があった。
その瞬間、安曇は唇を噛んだ。嫌な予感が的中したと、そう思った。
(この人がこんなふうだということは、報せが正しいということか)
大国主には、武人としての天性の才がある。それを、長年仕えた安曇は、肌や爪、血の一滴にいたる身体のすべてでよく覚えていた。
主は、少々のことでは動じない。もしも報せが番兵の見間違いか、大げさに報せすぎているだけであれば、主の目はこんなに冴えていなかっただろうし、今頃もいびきをかいて、声をかけようが起きなかっただろう。しかし――。
「――失礼します」
天幕の入り口にかかる薦をあげて、安曇と番兵の男、それから、番兵が手をひいて連れてきた小柄な男が順序良く中へと入っていく。全員が天幕に入るのを見計らって、安曇は慎重に唇をひらいた。
「事代が、悪しき気配がすると騒いでおります。また、番兵も、沖の方角に火のまたたきを見たと申しており――」
大国主は、あっさりとうなずいた。
「ああ、そんなふうだな。沖に、薄汚いのがいるな。おれたちを陥れようと、息をひそめている小物どもだ」
番兵と事代は息を飲んだ。
「ご存じでしたか、いつのまに――」
大国主は身を起こして、寝具の下であぐらをかいた。
「殺気くらいわかる。そもそも、隠そうと思っても難しいものだ。――出よう」
大国主は、鎧をまとったまま寝床についていた。何かが起きた時にすぐに振るえるように枕元に置かれた玉剣と兜を掴んで立ちあがると、入り口の薦をよけ、浜へ出る。
後を追って、安曇も天幕を出て、大国主の隣に並んだ。
二人で真正面の黒い海を見つめ、そこにいるはずの何かを探した。何者かが海の上にいるなら、船に乗っているはずだ。船の大きさや帆柱の有無、帆や舷の形など、船の姿さえわかれば、そこにいるのが誰かはだいたいわかる。しかし――。
大国主は、黒眉をひそめた。
「見えんな。目は闇に慣れているのに」
「事代か巫女のような存在が一緒にいるのでしょうか。それとも、身を隠せるほど小さな船団なのでしょうか」
「それはない。大きいぞ。この浜を丸ごと囲むくらいだ」
「浜を丸ごと囲む?」
安曇は声をひそめた。
「その、穴持様。それはすべて、敵なのですか」
「そうだろう。海のあちこちから、ここに襲いかかろうとする奴らの目を感じる。同時に、本当に襲いかかって大丈夫なのかと脅える気配もな。――小物が、大勢いる」
大国主は鼻で笑い、横目で安曇を見た。
「至急、兵を起こせ。船は水に浮かべたままだな? ひそかに縄を引いて浜に寄せろ。乗り込む支度をさせろ」
「は」
安曇が主から預かった命令は、まず<武人>と呼ばれる精鋭たちに伝えられた。
いま必要なのは、たしかで素早く、何よりも相手にそうと気づかれない慎重な仕事だ。戦慣れした武人たちは、それほど戦に慣れていない<農兵>と呼ばれる多くの兵たちとは一線を画した働きをした。武人の長は部下たちに素早く仕事を割り振り、命じられた武人たちは無駄のない動きですぐさま与えられた持ち場についた。
農兵たちを従える小長になることもある武人は、部下を抑える役もみずから買って出た。
「騒ぐなよ? 深く息を吸って、吐いたら唇を閉じて、横になったままで聞け。――いま、沖に、敵と思われし船団がいる。我々は襲撃に備えて準備をすすめている。敵にこちらの動きが明るみになれば、よけいにまずい。いいか? おまえたちの役目は、そのまま動かず、寝たふりを通すことだ」
戦慣れした連中をうまく方々に配した結果か、大国主の大船団は、統率のとれた動きを保って支度を進めた。
暗がりの浜では、途方もない数の農兵たちの頭が、渡り鳥の群れのように砂地に黒の陰をつくっている。その光景を浜の端から見渡し、安曇はほっと肩で息をした。
(ひとまず、よし。――高比古がいれば、あいつはもっと早く我々に報をもたらしただろうか。あいつがいないのが仇になった――そういってやれば、あいつは喜ぶかな)
目をかけている若い青年のふてくされた顔を思い浮かべて、思い出し笑いをした。それだけの余裕が、まだ安曇にはあった。
奇襲や夜襲は珍しいことではない。仕掛けられたことも、こちらから仕掛けたことも何度も経験していた。
それよりも、安曇には腑に落ちないことがあった。
(それにしても、敵は誰だ。大和か? もしそうなら、先に連中が狙うのは、我々よりも引島の砦のはずだ。あそこに敵襲があれば、石土王なら急使を立てる。急使は友国、長門を頼るだろうし、長門から出雲までくらい、長門が気をきかせて船頭を貸すだろう。もしや、引島の砦が、助けを求める間もなく陥落したか? ……まさか)
夜明け前の暗闇の中、波打ち際には武人が等間隔に並び、腰まで水に浸かりながら、懸命に戦船の縄をたぐりよせている。
船が岸に上げ始められると、手伝いをつのる声も囁かれた。
「我々の背後にいる兵は、綱持ちになれ。寝転んだままで背後から船縄をたぐり、引っ張れ。すぐさま役につけ」
沖にいるはずの敵に声が届かないように、声はひそめられた。
明け方の砂浜に動くものは少なかった。しかし、囁き声や砂が巻き上げられるふとした物音は、か細い草の糸がしだいにより集まってついには布になるように、船団が野営とした浜にたしかに轟き始める。
安曇は、そばにいた部下に念を押した。
「動きを見せないように、もう少し耐えさせろ。明るくなるまでだ」
「はっ」
命じられた武人が、安曇のそばを離れていく。
それを横目で見送ったのち、安曇は東の方角を見つめた。
真っ暗だった空は闇の陰りを失い、しだいに天には、
安曇の目は、海面から逸れることがなかった。
そこには、明け方の空のもとで重々しい灰色に染まった海原がある。明るくなりはじめたというのに、そこに船や人と思われる影はなかった。
そばに、事代を従える薬師の男がいたので、安曇は尋ねた。
「どうだ。なぜ何も見えないんだ?」
「わかりませんが、おそらく、あちら側にも事代のような霊威をもつ存在がいるのでしょう。事代たちは、姿は見えないが何か悪しきものが必ずいるといっていますし」
「また、霊威が絡んだ戦になるのか。厄介な――。それで、おまえはそれを感じるか。どれくらいの規模だとか、どんな連中かということがわかるか」
「――残念ながら。事代としての霊威をもつからこそ、事代となれるのでございます。私では――。高比古様なら、その目で見てそのうえで我々を指揮することもできましょうが」
「高比古か。あいつは今、ここにいない。事代たちとおまえに、どうにかしてもらわねばなるまい。事代たちは敵を明らかにできるのか? 今、どこで何をしている」
「事代たちならあそこに……水際におります。朝日の到来とともに敵の霊威を退け、姿を暴きます」
「朝日の到来とともに?」
「朝日とは、夜を終わらせ、天を昼間の空へと切り替えるもの。物事を切り替える力をもちます。その力を借りて敵の霊威を封じると――」
「――朝日。ふうん……なら、ぜひとも頼む。素早くな? 夜明けとともに、こちらも動き始める」
事代や薬師だけでなく、その浜にいるすべての男が朝日の到来を待っていた。兵たちは、浜に揺れる船の縄をひそかにたぐりよせ、寝たふりをしながら乗り込む瞬間を待っている。そして――。
いまだ真っ暗な沖の海景を眺めながら、安曇は舌打ちをした。
(朝日を待っているのはこちらだけではない。敵もだ。――朝日は、攻撃の合図にはもってこいだ)
波打ち際には別の役に就く男たちがいて、沖の方角に耳と頬を向けてじっと耳を澄ましている。海の道を調べ出す海の案内人、潮見役たちだ。
ある時。潮見役の長の男が、ぴくりと眉を揺らしてまぶたを開けた。男は、ちらりと安曇の顔を覗き見た。
「安曇様、風向きが変わりました。夜明けが来ます」
潮見役の男が告げた瞬間、沖のほうからひゅうと吹きこむ風があった。
夜明け前に必ず吹く風があるのを、安曇も知っていた。
「そのようだな。じき、攻撃の合図が出る。兵たちが早漕ぎをするなら、おまえたちが頼りだ。潮を読んでおいてくれ」
「はっ」
ひょうっと、浜に吹き寄せる風がひと際強くなる。そして、東の方角の岬の奥に一筋の光が射した。
浜にいる誰もが、そちらの方角を見つめた。
「朝だ」
「待て、みんな、まだ動くな」
安曇の腕が、浜に満ちた興奮を抑えようと横に上がる。
その時、浜には奇妙な声が響いていた。事代たちが操る呪いの言葉〈言霊〉だ。
沖に向かって両手を突き出し、祈念する事代たちの声が、朝日が陸地ににじむにつれて海や地面に染み込んでいく。そして、ついに――突然沖の海面が暗くなり、浜を取り囲む船団の黒い影が現れた。船の数は多く、浜には重苦しいどよめきが起きる。
「あ、安曇様、敵の姿が――」
薬師の震え声に、安曇は淡々と応えた。
「動じるな。すでにわかっていたことだ。それより、船影は――」
すぐさま、安曇は目を凝らす。
船は見たことのない形をしていた。
(予想通り。大和の船だな)
造りは、その国が懇意にしている瀬戸あたりの舟に似ている。舟数は多いが、いま浜にいる出雲の船団と、規模はほとんど変わらない。むしろ、目で数える限り出雲のほうが多い。
「この程度なら問題ない」
独り言をつぶやくと、安曇は浜に轟くように声を張り上げた。
「乗船の仕度をせよ! 綱を引け! あの程度の船団など、蹴散らせ!」
羽虫の集まりがいっせいに飛び立つように、浜で横になっていた兵が動き始める。勢いよく跳ね起きた兵たちは、波打ち際で声をかける武人の命令に従って、乗り込むべき舟を探し始めた。
武人たちの太い声が、浜に声の波を起こすように響いた。
「奥の船から詰めて乗り、すぐさま沖へ向かって移動しろ。いいか? 同じ船に乗ってきた顔が揃っていれば、船はどれでもよい……!」
怒涛の勢いで船に乗り込んでいく兵たちの群れと、沖の船団の様子を交互にたしかめつつ、安曇は部下の武人に命じた。
「急ぎ、陣を組め。向こうもすぐに動き始める」
少し離れた場所で沖の様子を眺めていた武人が、砂浜を駆けて安曇のもとへやってきた。
その男は安曇が若い頃からの戦友で、名を
箕淡は、沖に並ぶ船団の影をしきりに振り返った。
「なあ、安曇――、なぜあんな大船団がここまで来ているんだ? 引島の砦はどうなったんだ」
安曇は、箕淡をせかした。
「私に知るすべがあると思うか? どうにかなったのだ。それより、いこう、箕淡。弓隊を率いてくれ。弓隊は前だ。漕ぎ手を背後に置く浜戦の陣だ。いつも通り、頼んだぞ?」
「ああ、わかった。――だがな」
了承するものの、箕淡は腑に落ちないふうに首を傾げている。
その時、浜に残っていた潮見役の男が、声を震わせた。
「あ、安曇様……? あれは……!」
潮見役の男は、日に焼けた腕を肩の高さまで上げて、人さし指で沖の方角を指している。ちょうど敵の船団の左端だった。
潮見役の男は叫んだ。
「あの船は大和の船ではございません! 端にいるあの船は、長門の船でございます!」
「なに?」
安曇は身を乗り出して目を凝らした。
長門は、
友国の一つが、敵に混じって武具を構えている――。潮見役の男がいったのが事実なら、さまざまなことが大きくひっくり返る。
このまま進めさせるべきか、一旦とどめるべきか。安曇は、判断に迷った。
次の瞬間、船に乗り込むのを待つ背後の方角から悲鳴があがった。
「敵襲! 背後に、武人の群れが……ぎゃあっ」
ひゅん、ひゅん、ひゅん……! 矢が風を切る音が後方に響き始めた。
「盾持ち、後ろへ回れ! 急げ!」
騒ぎ声は大きくなる一方。悲鳴や危機を示す命令は、浜を混乱に陥れた。
「沖に船団がいるのに、陸にもいるなんて――囲まれた!?」
「あいつらの鎧を見ろ! 後ろにいるのは長門の軍だぞ? 長門は友国ではないのか」
「もう駄目だ、逃げられない」
「落ちつけ! 静かにしろ!」
無理に落ち着かせようとする怒鳴り声も、方々に響いた。
出雲軍が野営とした浜の後ろには、風避けの松林が続いている。
後方に降り注ぐ矢を放つ連中はそこにいて、朝もやと木々の幹に隠れながら、大弓を構えてしきりに矢をつがえていた。その者たちの背格好や身にまとう武具には、安曇も見覚えがあった。
安曇は呆然となった。
「長門の軍だ。なぜだ――。長門と大和は繋がっていたのか? 出雲は、長門に売られたのか? なぜだ――」
「安曇、どうなってるんだ? ひとまず弓隊は前と後ろの二手に別れる。それでいいな?」
「ああ? ――仕方あるまい。前の船団にも背後の軍にも、総力で当たらねば……」
慌ただしく身を翻していこうとする箕淡へ、安曇は暗い声で応えた。
しかし、いつの間にかそばにいた男の気配を感じ取ると、はっと息を飲む。
長年仕えた主、大国主だった。
それは、獣の咆哮に聞こえた。
「……おのれ、長門の大馬鹿が!」
「穴持様……」
主、大国主は、部下の武人たちを動かしにいった安曇とは別に、長としての役目をこなしていた。いま、安曇のそばに戻ってきた大国主は、安曇と同じ景色を見て、怒りで顔を真っ赤にしていた。
大国主は一度、海の上の船団を見る。それから、背後で出雲軍めがけて降り注ぐ弓矢の影をじろりと睨んだ。
「安曇、いますぐ船を捨てさせろ」
「な、なんといいまし……?」
「船を捨てさせろといっている。奥の船に火を放って燃やせ。海上の敵を阻むには、火の壁だけでいい」
安曇は目を白黒させた。
「し、しかし――沖には、ここを狙う船団もいるのです。船を失ってしまえば、海の上の戦を捨てるということ。出雲軍は陸の戦より海の戦が得手。浜での戦になると……」
「だから、なんだ? 順序を取り違えるな。敵と裏切り者、先に滅ぼすのはどっちだ? 裏切り者に決まっている」
言葉の意味より、大国主の黒い目に安曇は息を飲んだ。その目に睨まれていると、身体の芯が震えた。大きな賭けに出たくせに、主の目にはわずかたりとも迷いがなかった。
「おまえは馬鹿か? 船が無事だろうが、ここで海と陸の敵を両方相手にして、その船に乗る人を失っては元も子もあるまい? そのような状態で、水上の戦を選ぶか? 負け戦など無用。先に、陸の敵を一掃する」
野営の背後では、松林の影から撃たれる矢の雨が風を切る音や、その矢に撃ち抜かれた兵たちの悲鳴が、依然として響き続けている。大国主は一度、攻防の音に耳を傾けた。そして、海上で浜を睨み続ける異国の船団を振り返って、鼻で笑った。
「ここは今に、血染めの浜になる。小物どもの船団など、ここで待ってやれ。一番手薄になるのは、船から上がる時だぞ。殺られに来るがいいのだ」
海上を見つめる大国主の黒目には、いずれ必ずそうなると人に思わせる奇妙な力があった。
腿のそばに垂らした安曇の拳が震えた。
「穴持様……」
安曇の喉が震えた。自分が仕えている相手に、畏怖を感じた。
(この人はいつも迷わない――私は、迷った。――また、迷った……)
心を鎮めると、顎をぐっと引いて、主の顔を見つめ返した。長年そばに仕えて世話を焼いた武王と心を通じ合わせることなど、たやすいことだった。
「――お言葉通りにいたします。船を燃して火の壁にし、敵の侵攻を防ぎ、その隙に松林に潜んでいる長門の軍を殲滅します」
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