番外、木花咲夜 (1)

 聖なる巫女の地、笠沙かささ


 笠沙は隼人と呼ばれる一族の聖地で、笠沙をいただき、代々の大巫女を育ててきた阿多隼人や、そこから南にくだった場所にある薩摩隼人、大隅隼人、瀬戸の海に近い岸に都をもつ日向隼人など、それぞれの地で別々に栄える隼人の民の心のよりどころであり、ふるさとだった。


 笠沙の宮の中でも、大巫女と呼ばれる巫女姫が鎮座する庵は、神なる野の中に建つ。


 ある日、その宮で稽古に励んでいた若い巫女、桐瑚きりこは、大巫女のもとへ呼び出された。


「なぜ、わたしが」


 大巫女、岩長姫は、笠沙に仕える巫女といえども気軽に会える相手ではない。桐瑚が会ったことがあるのも、神殿に入る時に、これからよろしくお願いしますと挨拶をした時の一度だけだ。


 桐瑚を呼びにきた年上の巫女は、意地悪く片目を細めた。


「なぜおまえが呼ばれたのか? 知りませんよ。ふん――また、どなたかに色目をつかったのではないの?」


 桐瑚は、とある理由で異国からやってきたので、もとからの阿多の民ではない。


 普通、娘が神殿に仕えるには、特別な才があるか、よっぽどのつてがないと難しい。異国からやってきた桐瑚が神殿の巫女になれたのは、次の王となる若王、火悉海の一存だった。


 阿多の王族といえば、民にとっては憧れの存在。普通の人とは一線を画した聖なる一族だ。


 その若王と顔なじみで、そのうえその人から手厚く守られている桐瑚は、時に、周りの巫女たちのやっかみの対象になった。


 今も、おまえが尻軽なせいだと嫌味をいわれるので、桐瑚は腹が立った。


「色目なんて、使いません」


「そうかしら? では、若王の火悉海様とはいったいどこで出会ったのよ。あなたを阿多に連れてきて、そのうえ神殿に入ることを許すなんて、よっぽど気に入られないと難しいでしょう? ――ほら、あなた、おきれいだし」


 年上の巫女はこういっているのだ。若王から特別な世話をしてもらえるのは、おまえが若王に色仕掛けをしたせいではないか――と。


 桐瑚は、阿多に来ることになったいきさつを周りに話さなかった。自慢できる話ではなかったし、信用できない相手に、自分の過去を暴露する気にもなれなかった。


 想像だけでよくそこまでいえるものだと、桐瑚は呆れた。


「――それにしても、あなたはよくお喋りになりますね。もしもあなたに巫女の能があれば、わたしのことなど、きっとなにも聞かずともおわかりになるでしょうにね」


 そこまでいってから、桐瑚は「しまった」と目を逸らした。またやってしまった――と。


 今のは、遠まわしに「あなたには巫女の能がないようですね」とけなしたようなものだ。


 年上の巫女は怒りで頬を赤くして、話をやめてしまった。


「この……生意気な娘だこと。――さっさとおいき。巫女姫がお呼びなんですから」


(急がせたいなら、よけいな話をしなければいいのに)


 相手の巫女を責めたい気持ちはまだあったが、いわないほうがいいと唇にいい聞かせて、桐瑚は丁寧にお辞儀をして、年上の巫女に背を向けた。






 桐瑚が笠沙に来て、三年が過ぎた。


 ちょうど先日、阿多の若王、火悉海と一の后の間に男御子が誕生した。次の王となる若御子が生まれたと阿多は大賑わいで、都も浜も海も山も、祝いの気配に包まれた。


 火悉海と一の后は、生まれたばかりの若君を連れて笠沙にもやってきた。大巫女から寿ぎを受けるためだ。そのせいで、笠沙もせわしい日々が続いていた。


 桐瑚は特別な位のある巫女ではなかったし、年上の巫女に器用に接するほうでもなかったので、下女のような手仕事をたくさんいいつけられ、ここしばらくの間はろくに寝る間がないほど働いた。


 それでも、桐瑚は平気だった。


(これくらい、宗像で奴婢にさせられていた頃のことを思えば、なんでもない)


 どれだけきつい仕事をさせても平然としているので、桐瑚をいじめようと思ってわざときつい仕事を任せる巫女たちから見れば、かえって腹立たしく見えただろう。


 それでも、桐瑚は平然とした顔を保った。相手の思うとおりにへりくだってやるなど、ごめんだった。






(岩長姫様が、わたしになんの用だろう)


 笠沙の大巫女は、人が立ち入ることが許されない神の野に一人で住んでいる。


 身の周りの世話をする巫女が近くに控えているが、「大巫女が会うことができるのは、必ず一人」という決まりがあるので、王族が謁見を求めてやってきたりすると、世話役の巫女は神の野から退出しなければいけなかった。


 そういう手順を踏まないと、大巫女には会いにいけない。だから、桐瑚のような位もない巫女が大巫女と会うなど、普通は考えられないことだ。謁見を求めて都からやってくる王族と同じ扱いを受けることになるのだから。


 笠沙の宮の奥にある神の野に着くと、桐瑚はそこで足を止めた。


 聖なる山を背にしてぽっかりと空いたその庭は不思議な風が吹く場所で、そこに立って風に吹かれていると、桐瑚はある青年のことを思い出した。


(高比古――元気だろうか。噂で、出雲の武王になったと聞いたけれど)


 その青年は出雲という国の人で、名を高比古という。桐瑚を奴婢の暮らしから抜け出させて、そのうえ、火悉海に桐瑚の世話を頼んでくれた。


 阿多の若王、火悉海と初めて会った時、火悉海は桐瑚を大切な宝物のように扱った。


「おまえ、高比古の女なんだって? あいつから、おまえをよろしくって頼まれたよ。なにかあったら俺にいえ。高比古のいい女なんだから、なんでもしてやるよ」


 おまえは高比古の恋しい人だから特別だと、そういう扱いを受けた時は、嬉しかった。


 実のところ、桐瑚がその人と一緒にいた時は、恋人だとか、そんな扱いはまるで受けなかったので、高比古が自分のことを、火悉海にそんなふうに説明していたのかと知った時は、驚いたし、少し気味悪かったが、やはり嬉しかった。


 高比古はどことなく自分と似ていて、ほとんど笑わない人だった。文句が多くて、一緒にいると喧嘩が絶えなかったが、ふとした時に見せる優しさは、桐瑚がそれまで出会ったどの人よりも相手を想っていて、情が深かった。それに――その人は、不思議な人だった。


(あの人の周りには、不思議な風が吹いていたな)


 笠沙の宮の聖なる庭に吹き荒れる風は意志をもつ風の霊で、「精霊」と呼ぶものらしい。笠沙に来てから、そのように桐瑚は教わった。


(これが精霊か。あの人の周りには、これがたくさんいたんだな)


 その人の怒っている顔や、ふいに見せる優しい微笑を思い出していると、唇の端がすこし上がる。


(さあ、大巫女様がお待ちだ。いこう)


 桐瑚は止めていた足を浮かせて、神の野へと一歩を踏み出した。






「岩長姫様、桐瑚と申します」


 庵の戸口で名乗ると、中にいた大巫女はたおやかな声で桐瑚を招き入れた。


「いらっしゃい。待っていました」


 その人は齢が四十ほどで、決して若くはない。それなのに、顔立ちがなぜか幼女を思わせるふうに純朴で、桐瑚が中に入っていくと、それこそ好奇心旺盛な女童のような仕草で桐瑚の足取りを目で追った。


「お久しぶりね。笠沙はどうかしら? お勤めには慣れた?」


 会うのは笠沙に来た時以来だというのに、岩長姫の笑顔は友人を出迎えるようで、親しみ深かった。


「はい。もうすっかり慣れました」


「いいことです。さあ、お座りなさい」


「はい」


 にこにこと笑う岩長姫の前に正座をすると、桐瑚は真正面から大巫女の顔をじっと見つめた。


 そのまま無言でいると、岩長姫は困ったものを見るように苦笑した。


「あなたは少し気短ね。本題に入る前に、すこしくらい他愛のないお喋りをしましょうよ」


 土鈴に似た柔らかい声で、岩長姫はくすくすと笑う。


「あなたの目は、とても正直よ。自分がここに呼ばれた理由はなんですかって、座る前からずっと私に問いかけてくるの」


「でも――他愛のないお喋りといっても、お話することが思いつきません」


「別に、なんでもかまわないのよ。ここに来る途中、あなたは足を止めたでしょう? そして、懐かしい恋の余韻に浸ったでしょう? その話をしましょうよ」


「え――?」


「巫女になる娘はね、恋を知らない子が多いのよ。――その青年のことを、あんなに丁寧に祈るように思い出すなんて――あなたは今でもその人のことが好きなのね。ねえ、さっきみたいに、いつもその人のことを想っているの?」


「あの――」


 桐瑚は、戸惑った。怖いとも思った。


(わたしの心が見透かされてる? ――この方の力は、本物だ。ほかの巫女たちとはまるで違う)


 力の差を見せつけられた気分だった。


 桐瑚の顔色が変わっても、岩長姫はくすくすと笑って話の続きをせがんだ。


「ねえ、どうなのかしら。私は恋もなにも知らずに笠沙に入ったから、知らないことばかりなの。その人のことはしょっちゅう気になったりするの? 思い出したりするの?」


 岩長姫のいい方は可愛らしかったが、尋問されている気分だった。


「いいえ。しょっちゅうではありません。もう終わったことですから、私がその人を思い出すのは、なにかから逃げ出したい時だけだと思います」


「逃げ出したい時?」


「つらいことがあって、目の前から目をそむけたい時……そういう時に、楽しかったなあって、思い出に疲れを癒してもらっているのです、きっと」


「今からその人のところへいきたいとは思わないのかしら?」


「誘われればいくと思います。でも、誘われないので、いきません」


 岩長姫につられてはにかみの笑顔を浮かべながら、なぜこんなことを話しているんだろうと、桐瑚は自分でも不気味に思った。でも、その青年との思い出を問われると、言葉はするすると口から出ていった。


「その人は今、とても立派になられていて、そのお立場にふさわしい奥方がいらっしゃいます。だから、私はその人のところにはいきません。いいえ、いけません」


「もし、その方にふさわしい身分があったら、あなたはその人のところにいっていた?」


「――いいえ」


 苦笑して、桐瑚は首を横に振った。


「そんなものが私にあったら、そもそもその人と出会っていません。別れてもいません」


「そう」


 岩長姫はうなずいて、「でも――」と話を続けた。


「あなたは美しいわ。前に会った時よりもずっと美しさが磨かれて、一目見ただけで、人を魅せる華があるわ。しっかり者で、賢くて、機転もきく。笠沙の巫女にふさわしい力も育ってきた。あなたは、その方に見合う身分の代わりに、別のものを身につけたのね」


「慰めてくださっているのですか」


 桐瑚は肩をすくめた。こんな下っ端の巫女に、わざわざ気をつかってくれるなんて――と、ありがたいと思ったし、大巫女みずからがそこまでしなくても、と思った。


 岩長姫はゆっくりと首を振る。横にだ。


「いいえ。慰めにはならないでしょう。――あなたのことは、かわいそうだと思っています。心苦しいとも」


「え――?」


 話の流れが急に変わった。桐瑚は真顔に戻って、岩長姫の顔をじっと見つめた。


 岩長姫の顔からは、さっきまでのにこやかな印象が消えていた。思い悩むように少しうつむき、目を伏せた。


「私の齢は、もうじき四十にさしかかります。次の大巫女を探さなければならない時期です。そこで私は、先日、先視さきみうらをしました。次の大巫女に誰を選べばよいかという占です」


「はい……」


 注意深く黙る桐瑚に、岩長姫は苦笑した。


「なぜ、いま後継者の話をしているのかと、そういう顔をしていますね。――あなたの想像の通りです。先視の占では、あなたが継ぐべきと出たのです」


「いいえ、でも――」


 桐瑚は首を振った。


「私は異国の民です。それに――一度申し上げたことがありますが、私の身は、汚れています。本当なら、神の山に入るにふさわしい娘でもありません」


 桐瑚は倭奴わぬという国の王族の出で、その国で姫と呼ばれていた頃は巫女として神殿に仕えていた。倭奴では、王族にゆかりのある娘が巫女になる決まりがあったからだ。でも――。


「前にお会いした時に、包み隠さず申しました。私は一度賊に浚われて、奴婢に貶められました。そこで――」


「知っています。隼人の神は、男が男であり、女が女であることを許します。そのことは気にしないで良いと、その時にいったはずです」


「でも、私は異国の民です――」


「桐瑚、いったでしょう? 私は、あなたをかわいそうだと思っているって。こういう話をするのが心苦しいと」


 岩長姫の表情はしだいに暗く陰っていく。桐瑚は注意深く尋ねた。


「どういうことでしょうか」


「――私に代わって大巫女になって、あなたには、阿多を憎んでいただきたいのです」


「――憎む?」


「ええ、そう。遠まわしにいってもわかりにくいでしょうから、まずはりを告げましょうか。先日、先視の占をしたところ、このように視えました。――あなたはいずれ、隼人の大巫女になります。大巫女としての名は、木花咲夜このはなさくや姫。あなたは辺境の神を祀る美しい巫女姫として、木花咲夜の名を周りに知らしめるでしょう。そして、いずれ、大和に嫁ぐことになるでしょう」


「大和……? 嫁ぐ――」


 桐瑚は、言葉を失った。



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