番外、あやしの姫 (2)

 瀧木姫は新しい暮らしに慣れるのが早くて、「火悉海と呼べ」といったその晩には、ずっと前からその呼び方をしていた風に馴染んでいた。


 夕餉を一緒にとっている間、火悉海のそばで給仕をしながら、瀧木姫はあれこれと尋ねた。


「これ、初めて見るお芋だわ。ねえ、火悉海。このお芋はよく食べているの?」


「阿多じゃ珍しくないかな」


「この器もすてき。土の色が白いわ。珍しいし、美しいから、越の国の人が欲しがりそう。ねえ、火悉海?」


「かもな」


「なによ、火悉海はそう思わない?」


「――そんなことはねえよ。瀧木の眼力を信じるよ。商国、越の血を引く女だもんな」


 手にしていた椀を盆の上に置き、火悉海はそばに置いた脇息に腕を預ける。火悉海が食事の手をとめると、瀧木姫は自分も口をつけていた椀を盆の上に置いて、火悉海の顔を見つめた。


「どうしたの。そろそろお酒を注ごうか?」


 出会ってから四日目。瀧木姫は、すでに火悉海のそばにいることに馴染んで、自然な笑みを浮かべている。火悉海は微笑んで顎を横に振り、瀧木姫に食事を続けさせた。


「おまえの顔が見たかっただけだ。なんだか、おまえって初めて会った気がしないな。そばにいるとやたらと妙な感じがするが、ほっとするよ。妻になる女が、おまえでよかった気がする」


 火悉海は苦笑した。


「なんていうか、おまえは出雲の奴らしくないな。俺が知ってる出雲の奴は、妙に真面目だったり、人と打ち解けるのがそこまでうまくなかったり、崇高な雰囲気を持っていたり――。おまえには越の血が入ってるからかな。出雲っぽくないな」


 瀧木姫は一度真顔をして、それから、小首を傾げて唇の隙間からちろりと舌を出した。


「それはきっと、私があなたに愛される妻になろうとしているからだわ」


「――俺に?」


「そうよ。あなたが、『火悉海様』とお呼びするほうがお好みなら、私は、そうお呼びするのがふさわしいしとやかな妻になります。『火悉海』と気兼ねなく呼ばれるほうがお好みであれば、そういう女になります」


 火悉海は、ぽかんと唇を開けた。


「つまり――おまえは、俺の好きな女になろうとしてるのか」


「ええ、そう」


 瀧木姫はにこりと笑った。


「四日の間一緒にいて、あまりしとやかなのはかえってお嫌なのかなって思いましたので、図々しくお付き合いさせていただこうと思います。でも、お気に触ったら叱りつけください。実をいえば私も、こういう具合に図太く居座るほうが性に合っているので、度が過ぎるかもしれません。その時は、どうぞ――いいえ、こんな言い方じゃ駄目ね。というわけで、いつでも文句を言ってね、火悉海」


 瀧木姫はいたずらを仕掛けるような目で火悉海を見上げて、赤い唇の端を上げた。


 その表情をする瀧木姫と目が合うなり、火悉海にこみ上げた違和感が膨れ上がった。


 相手を睨みつけるように笑う強い笑顔や、それでいて従順に寄りそう瀧木姫の仕草が、別の人と重なった気がした。


(そうだ、瀧木は、あいつに似てんだ。――俺の、好きな女……?)


 それに気づくなり恐ろしくなって、気が遠くなった。






「用を思い出した」


 寝所を抜けると、火悉海は夜の庭を歩いた。


 夕餉が終わった後とはいえ、夏の夜は日が長く、天にはまだ葡萄色の澄んだ光が残っていた。


 向かった先は、王宮の端に建つ小さな館。そこは、鹿夜の寝所だった。


 寝所の戸口にかかる赤い布の前に寄って、声をかける。


「鹿夜、俺だ」


 火悉海の声に、鹿夜はすぐに気づいた。


「火悉海? どうしたのよ」


 赤の掛け布を手の甲で避けて、鹿夜は中から外に出てきた。それから、鬱陶しそうに顔を歪めた。


「こんな時間に、嫁入り前の娘の寝所の周りをうろつかないでよ。まだ明るいのに、誰かに見られたら変な噂が立つじゃないのよ」


「なら、いれてくれよ。おまえがわざわざ出て来るよりさ、この中に俺が入ったほうが人に見られないんじゃないか?」


「うん?」


「なんでもねえよ。――ちょっと歩こう」


「――なんで」


「俺が、鹿夜の寝所の周りをうろついてたら困るんだろ? ここから離れてやるから、一緒に来いよ。今、すごく鹿夜と話したいんだ」


 鹿夜は訝しげに眉根を寄せて「いいけど……」とうなずいた。






 鹿夜の寝所から遠ざかりつつ、火悉海の足は王宮の端に広がる林の方角へ向かった。木立がまばらに立つ林に入ると、闇の帳が下りる前とはいえ少し薄暗くなり、影が濃くなる。


「ここなら、人の目がないかな。このへんでいい?」


「いいけど――」


 慎重に言葉を選ぶ鹿夜と並んで、黒い影が落ちた道を歩きながら、火悉海はぽつりと話しかけた。


「実はな、瀧木がな、おまえになろうとしてるみたいなんだ」


「はい?」


 隣を歩く鹿夜は、目を丸くして聞き返した。


「あたし? どうして――だってあたし、まだあの子と一度も話したことがないわよ」


「だよなぁ。だから、すげえんだよ」


 火悉海は、出会ったばかりの娘への畏怖を語るような言い方をした。


「あいつはたぶん、普通の奴よりずっと新しい場所に慣れるのが早いんだ。あちこちの新しい仕組みやら思惑やらを探るのがうまくて、早くて――それであいつは俺の好みを探って、俺が好きな女になろうとしていたんだと。たしかに、たった四日の間にあいつは変わった気がするんだ。船から降りたばかりの時の瀧木は、大事に育てられた姫君って感じだったのに、今はかなり堂々として――なんだか、おまえそっくりになってきてるんだ」


 鹿夜は、顔をしかめた。


「どういう意味? よくわからないんだけど」


「俺も、瀧木から言われるまで気づかなかった。でも、瀧木は、俺がそばにいてほしい女を探り出して、そいつになろうとしてるみたいなんだ。そうしたら、あいつ、鹿夜に似て来たんだ。さっきなんか、おまえと一緒にいる気がして……ぞっとするくらい変な感じがした」


 火悉海の目が切なく細められる。


 その目を見つめる鹿夜の目も、まぶたに力がこもって細くなっていった。


 足を止めて鹿夜に向き合うと、火悉海は、苦笑して言った。


「さよなら、鹿夜。小里辺と幸せになれよ」


 火悉海を見上げる鹿夜の頬が、ぴくりと揺れた。


「浮気したくなったら俺のところに来い。もしも嫌なことがあったら、いつでも――」


 火悉海が微笑んでそういうと、鹿夜の顔が歪んで、頬が赤らんでいく。目が潤んでいき、火悉海の視線を振り払おうと、顎が勢いよく横に振られた。


「馬鹿」


 鹿夜は叫んで、火悉海へ背を向けた。


 小さくなっていく鹿夜の後ろ姿は逃げさるようで、寂しげで、心もとなかった。


「前みたいに平手打ちしろよ。今のじゃ、さすがに俺でもわかる」


 ぽつりとこぼして、小さくなった鹿夜の後ろ姿を見つめた。


 その背中は、簡単に薄闇に紛れるほど弱々しい。


(やっぱり、泣いてる。今は、前に感じた時よりもっと泣きじゃくってる)


 ふと、火悉海は自分の足をじっと見下ろした。火悉海の足は、その場でじっと動かなかった。追いかけていけない足に、ため息をついた。


 鹿夜も火悉海も、婚礼を控えている身だ。鹿夜がいう通り、互いに妙な噂を立てるわけにはいかないし、今さら何かが起きてはいけなかった。


(へんな感じがする。気味悪い)


 大事なものを失って、身体の隅に小さな隙間ができた気分だった。


 火悉海は、もう一度胸の中で鹿夜に呼びかけた。


(さよなら。幸せになれよ)


 それから、足の向きを変える。つま先が向いたのは、自分の寝所。そこには、今に新妻となる娘が待っている。


(俺も、行こう。帰ろう――)


 鹿夜が立ち去った方角に背を向けて、歩き出した。



  ◇ ◆        ◇ ◆



 王宮での婚礼を終えた翌日、吹上浜から、赤の布で豪奢に飾られた王の船が出港する。


 その船に乗ったのは、火悉海と、その妻となった瀧木姫だった。二人は尾長鳥の羽根飾りのついた婚礼衣装に身を包んで、青波に乗って潮風を切る船の上で笑い合っていた。


「瀧木、海は平気か」


「もちろん。越も出雲も、どちらも海の国よ」


「頼もしいな」


 瀧木姫には鹿夜を思わせる風に豪気なところがあって、狭霧を思わせる風に思慮深いところがあった。鹿夜とも狭霧とも同じではなかったけれど、火悉海はどちらかの代わりが欲しいわけではなかったし、瀧木姫が懸命に自分に寄りそってくるのは身にしみてよくわかった。王宮での儀礼を終え、火悉海はもう諦めていた。


(そうだよな。俺は阿多を継ぐんだもんな。瀧木は出雲と越の王の血を引く女――最高の相手だよ。たぶん、狭霧よりも……はあ)


 かつて恋焦がれた娘の面影は目の裏にあったものの、火悉海にできることはもうなかった。初めて見る南国の海景に歓声を上げる新妻の美しい笑顔を見やって、これでいいんだと胸を落ち着かせて、微笑んだ。


 王の船が向かった先は、笠沙かささ。カムアタツ姫とも呼ばれる、隼人の巫女がいる聖なる場所だ。浜にたどりついた王の船は、先に着いていた火照王とその后の群星むるぶし姫や、後から着いた侍女たちとともに列を為し、山道を登った。巡行の列はゆっくりと続き、笠沙の宮に着くと、儀礼がおこなわれた。


 笠沙の宮を司る隼人の大巫女の名は、岩長姫。岩長姫は、宮の奥に造られた聖なる庭に建つ庵で暮らしていて、その庭に足を踏み入れる人は、必ず一人と決められている。


 相手が瀧木姫だという話は早々に巫女姫の耳に入れられ、吉凶はとうに占われていたので、その日におこなわれるのはお決まりの寿ことほぎをいただくだけ。


 火照王の番が過ぎると、次は若王、火悉海の番。赤の婚礼衣装に身を包んだ火悉海が、聖なる庭を横切って巫女姫の庵に足を踏み入れると、中で正座をする岩長姫は、幼女がいたずらを企むような不思議な笑みを浮かべて、出迎えた。


「いらっしゃい、若王。このたびは、ご婚礼の儀、まことにおめでとうございます」


 意味深な笑顔を浮かべたまま、岩長姫は両の指先を膝の前につき、深く頭を下げていく。入口にかかった薦を元通りに下げつつ、火悉海は巫女姫の顔を見つめた。


「なんですか、そのお顔は。俺の顔になにかついていました?」


「いえね、若王。ちょうど出雲でも、婚礼が決まったと、つい先ほど風が私に囁いていったものですから」


「出雲? 瀧木のことですか」


「いいえ、若王。前にここにお寄りになった出雲の若王です」


「高比古のことですか」


 用意された敷布の上にあぐらを組んだ火悉海に、岩長姫は正面から笑いかけた。それもまた、少し奇妙な笑みだ。


「そうです。あの高比古様です」


「あいつが二人目の奥さんをもらうことになったんですか? へえ、あの生真面目男が」


「ええ、それはもう愉快な騒動が起きたのだと、風の精霊たちがここまで知らせに来ていますよ」


 岩長姫は今もその庵に不思議な存在が群れているような言い方をするので、火悉海は、庵の屋根裏をそっと見上げた。


「俺には何もないように見えますが。その、精霊というものたちは愉快がっているんですか」


「高比古様は、精霊たちにとっては身内や家族のような存在ですから。その騒動も、終わってみれば幸せな風に落ち着いたようですからね、笑い話になって、はるばる阿多まで吹き伝えていますよ」


「たしかに、騒動は落ち着いてしまえば笑い話になりますかね。人でも同じかもしれません。――でも、あの堅物がなあ。しかも、愉快な騒動? あいつがなあ――なんかしっくりきませんね」


「お相手の名を知りたいですか?」


「相手の名前までわかるんですか」


 火悉海は驚いて、目を見開いた。でも、自分を見つめて笑う巫女姫の幼女めいた目と目を合わせると、肩をぎくりとさせてのけぞった。


「まさか……」


「高比古様のお相手は、大国主の娘、狭霧ひ……」


「待ったぁ!」


 火悉海は手のひらを突き出して、巫女姫の言葉を止める。巫女姫は首を傾げた。


「どうしたのです、若王。高比古様のお相手の姫君の名を、お聞きにならないのですか」


「なんですか、これは。俺がちゃんと婚礼を自分で祝えるかと試しているんですか」


「いったいなんのことです、若王」


「白々しい――あなた、俺をおちょくっていますね。あなたは俺の心を読んだんだ」


 肩を小刻みに震わせる火悉海に、岩長姫はおちょぼ口を袖口で隠しつつにやっと目を細める。


「――わかりました、今は言いません。いずれ、次の出雲からの船が着けば、ご使者があなたにお告げするで……」


「いえ、大丈夫です、今聞きます」


「お聞きになるのですか」


「はい……いや、どうしよう――」


「どちらにするのですか、若王。はいやら、いいえやら、あなたは不思議なことをおっしゃるお方ですね」


 ころころころと、岩長姫は土鈴に似た柔らかな笑い声を上げる。純朴な笑みを浮かべる巫女姫を、火悉海は魔物を見る風に睨みつけた。


「あなたこそ。やっぱり俺をおちょくっていますね」


「おちょくるといいますか、ちょっと興味があるだけです。一人でこの庵に暮らしていますと、ここを訪れていらっしゃる人が泣いたり喚いたり、もがいたりする様を見るのが、面白く感じるものなのですよ。ああ、そういえば、精霊と同じですね。ふふっ」


「ふふっ、じゃないですよ。――わかりました、覚悟を決めます。聞きますよ。それで、高比古の相手は、その、さ……」


「はい、狭霧姫です。出雲の大国主の娘姫で、若王、あなたが懸想していらっしゃるお相手です」


「――そこまでいいますか?」


「だって、そうでしょう? 若王、あなた、あの姫君に懸想していらしたでしょう? 隼人の大巫女である私が何も知らないとお思いですか? この宮に満ちる気配に気づかないとでも? あなた、この宮におられる時にあの姫君に想いをお告げになりましたね、それで――」


「やめてください、岩長姫」


「どうしたんですか、お顔が赤らんでおられますよ? ああ、楽しい。ねえ、若王。こういう時ってどういうお気分なんですか。つまり、恋焦がれていらっしゃったお相手が、親しい友人の奥方になってしまった時って、どういうお気持ちになるのですか」


「――なぜ、わざわざいい換えました? そうまでして俺の傷をえぐりたいんですか」


「いえ、とても興味があるのです。そういう時って、素直に祝えるものなのですか? それとも、嫉妬してしまうものなのですか?」


「俺の心を、今お読みになればどうですか」


 目をきらきらさせる岩長姫にむすっといって、火悉海はあぐらをかいた膝に頬杖をついた。


「もういいですから、俺はあなたに婚礼を祝っていただきに来たんです。早く祝ってくださいよ」


「そうですか、残念。――かしこまりました、若王」


 岩長姫は貞淑にうつむいて、頭を垂れた火悉海の頭上に手のひらをかざして、祝詞を唱えた。






 肩をいからせながら庵を出ていった火悉海を見送りながら、岩長姫はやはりいたずらを企んだ。


「さて、次は若王のお后となる姫君の番。婚礼の祝いの日に、夫となる若者が別の娘に想いを寄せていたとわかったら、娘はどんなふうになるのかしら。じっと耐えてこらえるのかしら。泣いて取り乱すのかしら」


 もちろん、后となる娘にも、火悉海の恋心をばらしてしまうつもりだった。


「夫婦が思うところは、一度存分にいい合ったほうがのちにうまく働くというもの。少々苦い薬になるかもしれませんが、あなた方の幸せのためですよ、若王。――ねえ、あなた方もそう思うでしょう?」


 岩長姫が庵の中空に揺らぐ精霊たちに小声で尋ねかける頃、火悉海に代わって聖なる庭にやってきた瀧木姫が、入口の薦の前から呼びかけた。


「火悉海様の妻となりました、出雲の娘、瀧木と申します。巫女姫様の聖なる場に足を踏み入れることをお許しくださいませ」


「ええ、どうぞ。入っていらっしゃい」


瀧木姫の声にのびやかな声でこたえて、背筋を伸ばし、岩長姫はにやっと唇の端を吊り上げた。


                   .......end




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