番外、あやしの姫 (1)


 阿多あた火照王ほでりおうのもとに出雲からの使者が着いたのは、真夏に騒がしく鳴いていた蝉の声が、夏の終わりに鳴く蝉の、少し物悲しい響きに変わった頃だった。


 父王から呼び出されて、使者が伝えた言葉を聞かされてからというもの、火悉海ほつみはふてくされていた。


 それから数日が経ち、ひと月が経ち、いよいよ出雲から次の船がやって来る日が近づいても、それは変わらない。


 その日も、火悉海は朝の鍛錬が済むなり自分のための庭の木陰で四肢を投げ出して、そのまま動こうとしなかった。


「若、婚礼の御衣裳の仮縫いを済ませたいと、侍女が来ているのですが――」


「……おまえが代わりに行っとけよ」


「婚礼の支度ですよ? そんなわけには――」


「どうでもいいよ。ああ、やる気しねえ」


 部下の青年からたしなめられると、火悉海は顔をそむけて寝返りを打つ。日に焼けた腕には力が通わず、腕はぐでんと地面に投げ出された。


 部下の青年は、主の寝姿をやれやれと見下ろした。


「若……お気持ちはわかりますが、若が望んでいた方ではないといえ、婚礼のお相手は、たいした方という話ですよ。出雲の大国主と、越の王の娘姫であり、大国主の一の后である一の姫様の娘姫で、阿多としては申し分のないお相手で……」


「どうでもいいよ。狭霧じゃねえんだから」


 火悉海は、はあーと大きなため息をつく。部下の青年は、肩を落とした。


「とはいえ、あなたの妻になる方ですよ。ちゃんと出迎えて、優しくなさらないと――」


「んなこと言ったってよ、やる気しねえんだよ」


 よく鍛えられた広い肩をせばめて寝転び、火悉海は、薄暗い木陰でぼんやりと過ごす時間が多くなっていた。






 阿多の国を継いでいく若王の妻が、近々異国からやって来るという話はあっという間に広まって、王宮も、近くの里もすっかり浮かれ調子で、出入りをする人々は、祝いの飾りやら、新しく迎える姫君のための住まいや、衣装や、こまごまとした調度の類やらを調えるために忙しなく働いた。


 それでなくても、阿多には新しい風が吹いていた。時を同じくして、若王、火悉海の従妹、鹿夜かやの婚儀の日取りが決まったところだったのだ。


 ある日、王宮の隅でふてくされていた火悉海のそばを鹿夜が通りかかったので、火悉海は鹿夜を呼びとめた。


「ようよう、婚礼らしいな、めでたいな」


 火悉海は、館の壁にだらしなく背中を預けて、祝う気がなさそうな言い方をした。足を止めた鹿夜は、眉根をひそめて見下ろした。


「その言い方はなんなのよ。本当におめでたいって思ってる?」


 火悉海は素直に首を横に振る。


「いいや、全然」


「あのね――」


「だってさ、鹿夜。おまえってさ、おまえの夫になる奴を好きだった? 好きでもない相手の妻になるってどうなのよ」


「それ、あたしが答える必要ある? それに、小里辺おりべは好きだったほうよ。小里辺はあたしより七つ上だけど、もう一人いた候補のほうは二十も年上だったもの。小里辺のほうがまだ齢も近いし、話したことも多かったし」


「まあなあー」


「あんたの相手は越にゆかりのある姫なんでしょう? 阿多にとっては最高の相手じゃない。阿多から出雲、出雲から越まで、阿多の船を向かわせる口実ができるのよ」


「そうなんだけどさあ」


 火悉海は鹿夜に手招きをして、隣に座るように呼び寄せた。


「――何よ」


「ちょっと、内緒話」


 鹿夜が渋々と腰を下ろすと、火悉海はぼそりと尋ねた。


「なあ、どうなの」


「どうなのって」


「もう、小里辺とは一緒にいるわけ?」


「はあ?」


「親が勝手に決めた相手のそばにいって、平気なものなの。一緒に寝れるもん?」


 みるみるうちに、鹿夜の顔が赤くなっていく。鹿夜は肩をわななかせて、火悉海を睨みつけた。


「――どの口がそれを言ってんのよ。たいして好きでもない相手に色目を使って、とっかえひっかえ遊んでたあんたのほうが、あたしよりよっぽどわかってることでしょうが」


「遊んでたって……」


 火悉海はむっと口を尖らせる。火悉海が口を挟もうとするのを、鹿夜は拒んだ。


「阿多の王族って――あたしたちって、そういうものでしょう? あたしは、自分が誰を想っていようが、親が決めた相手のところに嫁ぐの。あんただってそうでしょうが。それに、もしも、もしもよ。あたしが、本当に好きな相手が、例えばあんただとしても、阿多の王族同士じゃ、絶対に一緒になんかなれないでしょう?」


「俺と、おまえ?」


「ものの例えよ。ああっ、へんなことをいったせいで口が曲がりそう」


 鹿夜は鼻息荒くそっぽを向いた。


 鹿夜の言い分を飲み込むのにしばらく黙った後、火悉海は真顔になってぽつりといった。


「そっか。浮気すればいいのか」


「はい?」


「どうせ親が決める縁なんだから、もし気に食わなかったら、ほかに好きな女を囲って、そこで暮らせばいいんだよな。鹿夜、おまえもそうすればいいよ。いい男がいたらそばに囲っといて、そいつのところで暮らせばいい――」


「あんたって男は……最低、死んでしまえ!」


 鹿夜の平手が、火悉海の頬に飛んだ。


「ってえ」


 殴られた頬を手で庇って、火悉海は文句を言う。でも、その頃には鹿夜は立ち上がり、火悉海に背を向けていた。ずんずんと早足で遠ざかっていく鹿夜の背中を見送りつつ、火悉海は首を傾げて、背後に控えていた部下の青年に尋ねた。


「なんだろう。見間違いかな。最後のほうの鹿夜さ、泣いてるように見えなかった?」


 部下の青年は渋い笑顔を浮かべた。


「若は時々、とても鈍いですよね。なんていうか、自分の見たいようにしか周りを見ないところ、ありますよね」


「あんだと?」


「それに、叱られると、決して認めようとなさらないところも、ありますよね。鹿夜様から叱られる分には、素直に聞き入れなさるのに。――ああ、狭霧様もそうでしたか」


 噛みつくような主を避けつつ、部下の青年はふうと息を吐いた。






 出雲からの船団が阿多に着いたのは、その三日後。


 見張りに遣わされていた船が早々に王宮へ到着を知らせたので、出雲の船団が阿多の港、吹上浜に辿りつく時には、浜は出迎えに訪れた人でいっぱいになっていた。


 阿多は、南海に出かけて富を得る海の民。たくさんの船をもっていた。とはいえ、阿多の船は刳り船に細工を施す小さなものが多く、出雲や越が誇る大船はなかった。


 小舟がずらりと並んだ吹上浜に辿りついた出雲の船は、波の上を動く小島のように大きかった。小さな船に慣れている阿多の人にとっては、大船が来たというだけで圧巻なのだが、その船団は輿入れのためにやって来ただけあってやたらと豪華だった。


 とくに風変りだったのは一番大きな船で、屋根をつくるように渡された布がはためいていた。桃色やら黄色やら、色鮮やかな飾り布まで見えていた。


 ほかの王族に混じって浜に立っていた火悉海は、目をしばたかせた。


「なんだ? 船の上が布だらけだ」


「日よけでしょう。大陸の姫君がああいう形のものを使われると、聞いたことがあります。きっとあの下に、若に嫁ぐ姫君がいらっしゃるのですよ」


 部下の青年の思惑は正しかったようで、船から降りて来る間も、やって来た姫君は背後に続く下男に大きな日よけを持たせていた。棒の先に布が張られた不思議な形をしていて、阿多の人にとっては初めて見るものだったが、日よけとして使われていることは間違いがなさそうだった。


 けっと、火悉海は鼻で笑った。


「なんだあれ? あの下から出ないつもりかよ」


 船から降りた姫君は、まず戸板の先で出迎えた火照王のもとへ向かい、挨拶をする。それが済むと、火照王の腕に案内されて、それより少し後ろに立っていた火悉海のほうを向いた。


 出雲からやって来たその姫君は、たいそうな美姫だった。


 色の白い砂や雪のように美しい澄んだ肌が印象的だが、ぱちりとした目元も、美しく伸びた鼻も、朱で彩られた小さな唇も、どれも大陸の細工のように麗しく、品が良かった。


 色鮮やかな絹の衣装を海風にはためかせて、砂の上を歩んだ姫君は、火悉海の前まで来ると砂に両膝を着き、深く礼をした。


「初めてお目にかかります。瀧木たきぎと申します」


 姫君の美しい容貌も、身を包む麗しい衣も、品のいい貞淑な所作も、阿多にはこれまでなかったものだった。


 瀧木と名乗った姫と言葉をかわしつつ、火悉海は、ずっと首を傾げたい気分だった。


(なんなんだろう? 何か、へんな感じ――)






 瀧木姫は賢く、機転がよくきく話し上手で、その晩に催された小宴では火照王とよく喋った。てきぱきと動き、三日も経つと、阿多の王宮の暮らしにも馴染んだ風に見えた。


 その間、火悉海も、時間が空けばできるだけ瀧木姫のもとへいって王宮を案内するように務めたが、日に日に瀧木姫の話し方は、初めて出会った日よりもはきはきとしていく。


 並んで王宮を歩きながら「火悉海様」と話しかけられると、腹の底が疼くような奇妙な違和感を覚えたので、火悉海はそれをやめさせた。


「夫になるんだから、俺のことは『火悉海』でいいよ。俺もおまえのことは瀧木って呼ぶし」


 火悉海がそういうと、瀧木姫はじっと考え込むような間を取った。そして、にこりと笑った。


「じゃあ、火悉海ね」


 なんのことはない会話だ。それなのに、瀧木姫といると、火悉海にはやはり不思議な気味悪さがこみ上げる。


(なんだろう? 今まで俺のそばにいなかった感じの女だから戸惑ってるのか――いや、そういうわけじゃないか。初めて知ったような、前から知っていたような――)


 戸惑いの理由を探っているうちに、火悉海の目の裏に、優雅な衣装を着こなした異国の青年の笑顔が浮かぶ。その青年は名を真浪なまみといって、越の国の若王だった。


(わかった、あいつだ。こいつ、なんとなくあいつに似てんだ。真浪が女になって、軽い感じが抜けて――違うな。なんだろう。真浪に似てる感じはするけど、でも、ほかの誰かにも似てんだよなあ……)


 火悉海の胸に湧いた奇妙な想いは、瀧木姫といる時間が長くなるにつれて強くなっていった。



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