番外、都渡り (2)

 八重比古と向かったのは、雲宮の外につくられた離れの兵舎だった。


 剣や鎧、馬具など、戦の道具をつくる匠が住む里の近くにあり、兵舎と呼ばれはしても、雲宮の中につくられた兵舎と様子はまるで違う。建物はほとんど建っておらず、あるのは、戦場の砦に見立てた木造りのやぐらと、広大な荒れ地の原。戦が原に見立てた野原には、川べりの戦を見越して川も挟んでいた。


 大勢の兵が集って大声をあげているのか、近づくたびに雄叫びのこだまが大きくなる。すぐ近くに戦場があるかのような、大勢が駆けまわる足音も響いている。


 離れの兵舎の手前にある匠たちの集落の端を通り抜けながら、恵那は青ざめた。


「恐ろしい音でございますこと。こんなところで、よく暮らせるものですねえ……」


 やがて、道は兵舎の野原のそばに行きつく。野原には大勢の兵がいて、砂煙を巻き上げながら駆けまわり、歩兵の指揮を執ろうと、武人が大声を上げながら馬を走らせていた。


 行く手には、砦風に造られた木造りのやぐらが近づいていて、野原を遮る壁のようにそびえている。


 八重比古は、やぐらの際に立つ小さな木立を指でさした。


「たぶん今日は馬屋がいっぱいだと思うので、あのあたりを馬場にしましょうか」


 木立のそばで馬を下り、木の幹に手綱を結ぶと、八重比古はいった。


「狭霧様、やぐらに登りましょうか」


「やぐらに? いいんですか?」


「私はそこに用がありますから。私はもともと、土木の任に就いていたんです。たぶん、高比古様も上にいらっしゃると思いますから」


 狭霧の陰で、恵那は不審げに眉をひそめた。


「そのようににこにことお笑いなさって――。あなたは戦に慣れていらっしゃるかもしれませんが、私たちは戦にいったこともなければ、戦の光景を見たこともないのですよ」


 このような恐ろしいところに長居するなんて――と、恵那はため息をついたが、狭霧が宥めると、恵那は細い肩を落とした。


「せっかく来たんだもの。いきましょう、恵那」


「――そうおっしゃると思いました。はい、かしこまりました――」


 三人が登ることになったやぐらは、戦場で即席に建てる砦を想定した荒造りの建物だった。屋根も床もなく、木皮がついたままの木材を縄や楔で組んだだけの骨組みの形だ。


 梯子を上って、上にあがる。上から見下ろすと、横から見るだけでは何をしているのかわからなかった兵たちの動きが、一糸乱れぬ動きを求められる稽古の最中なのだと思い知る。


 戦装束に身を包んだ大勢の兵は野を駆けまわっていたが、決して好き勝手に動いているわけではなく、整然と並んで、決められた通りの道を寸分の狂いもなくたどって移動していく。まっすぐに駆けたり、時には渦を描くように円形になったり、縦横無尽に形を変えていく様は、人ではなく蟻の大群――いや、黒い大蛇がいきいきと地上を這っているように見えた。


 ドン、ド、ドロドロ……。地上へ、動き方の指示を送る太鼓の音が響いている。その音に合わせて、地上の兵たちは雄叫びを上げ、野の隅から隅へと移動していた。


 砦の上の中央あたりには、野に突き出るようにつくられた場所があった。そこには、太鼓を抱えた武人と数人が立っていて、高比古の姿もそこにあった。


 高比古だ――とそう思ったが、狭霧は驚いて、そこに立つ高比古を食い入るように見つめた。


 高比古は腕を胸の下で組んで、唇を結び、高いところを吹く風に吹かれながらじっと野を見下ろしている。地上を見下ろす横顔に人の気配はなく、見ているとぞっとするほどだった。


 時おりわずかな身動きで顎を傾けて、隣にいる武人になにかをつぶやく。すると、武人は太鼓の叩き手に指示を与える。


 ドロドロドロドロ……と太鼓の音色が変わり、それを聞きつけると、野にいる兵たちは走り方を変える。


 次々と形を変える野の軍勢は、高比古の気配に操られているように見える。


 その様子を淡々と見下ろす高比古の横顔は、冷酷で、残忍で――こんなふうに人の気配をもたない男が操る軍にはとても勝てないと、ぞっと背が寒くなるほどだった。






「この陣はもういい。次は模擬戦の陣だ」


「なら、休みをとらせましょう」


 隣にいる武人と話し、その指示が太鼓の音に乗って地上に伝わると、野に満ちていた殺伐とした気配は薄れていく。ぎりぎりまで引っ張られていた糸が緩んだようにほっと肩の力を抜いて、兵たちはめいめいに動きだし、休息をとりはじめた。


「高比古様に話してまいります」


 八重比古はそういって、狭霧と恵那を残して高比古のもとへ近づいていった。


 そこで少し言葉を交わすと、高比古は狭霧がいるあたりを振り返って、目をしばたかせた。


 目が合うと、狭霧はまた驚いた。


 いつもの高比古だ――そう思った。そして――少し寂しくなった。


(今までの高比古、別人みたいだった……)


 よくわかっていると思っていた相手の思いもよらなかった一面を見るのは、妙に心苦しい気分だった。


 八重比古と話を済ませると、高比古は狭霧のもとに近づいてきた。


 居心地悪そうに眉をひそめて、照れくさそうにいった。


「いたのかよ」


 責めるような言い方だったので、狭霧はうつむいて謝った。


「うん、ごめん――」


「なんでここにいるんだ? 意宇に帰ったはずじゃ……」


「道の途中で八重比古さんに会って、それで――」


「ふうん――」






 高比古はその後、八重比古のもとに戻って話をした。それから、狭霧を連れて砦を下りた。


「いこう」


「いいの?」


「八重比古に任せた。もとはといえばあいつのせいだ」


「わたしが来たから? ごめん……」


「ほんとだよ。あんたがいると思うと、気が散るんだ」


 高比古は渋面をしていた。狭霧は少し考え込んでいった。


「迷惑かけてごめんね。わたし、恵那と帰るよ」


「いい。おれも帰る」


「平気よ。道ならわかるし――」


「そういう問題じゃないんだよ。あんたが杵築にいると思うと気が散るんだ。――あんたがここにいても、杵築に帰っても変わらない」


 高比古はむすっといって、狭霧たちが乗って来た馬がつないであるあたりまで来ると、自分の馬を引きに馬屋へ向かった。


 馬屋から戻って来た高比古が連れていたのは身体が大きな黒毛の馬で、毛艶の美しさも見事だった。


 かつ、かつと蹄の音を響かせてやってくると、高比古は狭霧に、自分の鞍に乗るようにいった。


「来いよ、こっち」


「う、うん」


 高比古に抱えられるようにして狭霧が馬にまたがると、仲の良さを見せつけられるような形になった恵那は赤くなって目を逸らした。


「さ、狭霧様。私は少し後からまいりますよ。稽古が終わるのを待って、八重比古様と雲宮へ戻りますから」


「ううん、恵那も――」


 狭霧は気を遣って止めたが、それを遮って高比古はうなずいた。


「そうしてくれ。おれは、狭霧と先にいく」


 そして、恵那が返事をするまもなく馬の腹を足で蹴って、走らせ始めてしまった。





 俊敏に跳ねる馬の上で、狭霧は、すぐ後ろに座る高比古に細い声で告げた。


「策士に徹してるところ……武王の姿、なのかな? 初めて見ちゃった。いつもと全然違うんだね」


 高比古は、息をついた。


「――そう? いつもと同じだと思うが。あんたは? おれがそばにいてもいなくても変わらない?」


「特に変えてるつもりはないけど……」


「ふうん――。それより、どうして戻ってきたんだ?」


「それは、さっきもいったけど、途中で八重比古さんに会ったから――」


「明日帰るの?」


「うん」


「ずっと杵築にいろよ。そうしたら気も散らない」


「え?」


 聞き返すと、高比古の手は手綱をもったまま後ろから狭霧に寄り添って、ぽつりといった。


「無理だよな。いいたかっただけだから、気にするな。会えないと思ってた時にあんたに会えて、頭がおかしくなってるだけだから……」


 戦陣の稽古をしていただけあって、高比古もほかの兵たちと同じく鎧を身につけていた。その前に座っていると、胸あての部分が背中にごつごつと当たって鎧の堅さを感じる。


 しばらく走ると、高比古はそれを気にした。


「痛い?」


「ううん、全然」


「痛いだろ」


 高比古は狭霧の耳元で笑うと、手綱を引いた。


「ゆっくりいこう」


 大きく揺れて鎧が狭霧に当たるのを防ごうと、高比古は馬の足を遅くしていく。


 それから、真昼の陽光の中で狭霧の顔を見下ろした。


「久しぶりに明るいところであんたの顔を見た気がする。ここしばらく、暗くなってからしか会ってないしな」


 手綱をもつ腕には、いかめしい手甲がついたままだ。その手で狭霧の手をとると、自分の手に添わせた。


「せっかく姿をくらましてきたところだし、雲宮に帰らないで、このままどこかに遠乗りしようか。雲宮に戻ったらいろいろと邪魔が入るし、寝所に入ってしまえば、薄暗くてまたあんたの顔がろくに見えないし」


 狭霧の耳元でそう囁いて、高比古はくすりと笑った。


 高比古の胸を守る堅い胸当てに寄り添いながら、狭霧は、高比古を責めたくて仕方なくなった。


「突然、なによ。昨日まではこんなふうにいってくれなかったのに」


「いうって?」


「顔が見たい、とか――」


「うそ、いったよ」


「ううん。もっとあっさりしていて、心配になるくらいだったもの」


「心配に? そうかな。余裕がなかったからかな」


 淡々と理由を探す高比古に、狭霧の苛立ちは募っていった。剛健な手甲をきゅっと握り締めながら、さらに文句をいった。


「余裕がなかったら、わたしのことは好きじゃなくなるの?」


「どうしたんだよ。いつも変わらないつもりでいるけど」


 強く力を入れすぎないように、高比古はそっと腕で狭霧を囲っていた。


 しばらく考え込んだのち、高比古は肩をすくめてみせた。


「いった、いわないの問題なのか? あんたが欲しいのは気持ちじゃなくて言葉なの? そんなに言葉がほしいのか?」


「言葉?」


 暗に、そんなに軽いものでいいのかと問われた気になって、狭霧はむっと眉をひそめた。そして、喧嘩を続けるように理由を加えた。


「離れて過ごしていて寂しいから、ちゃんとした言葉が欲しいのよ」


「言葉でいいのか?」


「言葉でいいっていうか――」


 唇の端を上げて、狭霧の頭上で高比古は笑っている。


「かわいいね」


「――ばかにして」


「なにがだよ。言葉が欲しいんだろ? かわいいよ。こんなふうにすねて――」


 結局、高比古は再び馬の腹を蹴って早駆けを始めた。


「少し我慢してくれ。早く着こう」


 高比古が馬を走らせた先は、雲宮の少し先にある小さな岬だ。


 道の果てに馬をつないで、ざざ、ざ……という潮騒を頼りにけもの道もない茂みをくぐり抜けると、海際に出る。時々二人で海を見に訪れる場所で、茂みに囲われた先には、海に突き出たほんの小さな野原があった。


 いつもなら、松の木を背にして足を投げ出し、ぼんやり海を眺めるのだが、その日に限って高比古は座ろうとせず、狭霧を見下ろしてくすりと笑った。


「おれと離れていると、寂しいの?」


 さっき馬上でした話の続きだ。


 真面目に問われると恥ずかしくて、うつむきつつも狭霧は正直に答えた。


「うん――寂しい」


「会いたいと思う?」


「うん――だから、今日は戻ってきちゃった」


 とつとつと狭霧が答えると、狭霧の頭上で高比古はくすぐったそうにはにかんだ。


「おれ、馬鹿みたいだな。あんたの口から、あんたの声でいちいち答えを聞きたくなる。これも言葉か。おれも言葉が欲しいみたいだ」


 目を細めて狭霧の顔を見下ろすと、手のひらを上げて頬を包んだ。


 親指で頬の丸みを撫でながら、高比古はゆっくりといった。


「言葉か――。おれなら、あんたのことが好きだよ」


 狭霧は、自分を見下ろす真剣な眼差しに夢中になった。高比古の目をじっと見上げて、思わず尋ね返した。


「本当に?」


「本当にって、うそついてどうするんだよ」


 高比古は苦笑した。「言葉か……」ともう一度反芻して唇を閉じ、それからまたゆっくりと口をひらいていった。


「あんたは、死にたくなるくらい欲しかった女だ。絶対に裏切らないと誓った男を裏切るくらい、好きな女だ。あんたを手に入れるためなら命はいらないと思ったし、位も人も、これまで築き上げた全部と引き換えていいと思った。――これ以上はもう何も出せない。好きだよ」


 自分をじっと見つめる高比古の目を見上げて、狭霧はぽろぽろと涙をこぼした。


 高比古から想いを言葉にしてもらって、今になってこう思った。


(やっぱり、言葉なんかはいらないのかな)


 実をいえば、言葉を聞くよりも先に、高比古の真剣な目に見下ろされた時から、もう狭霧はそれをわかっていた。でも、あまりにも高比古の目が熱心だったので、それに夢中になって、続きが知りたいと耳を澄ましてしまった。聞いてしまってから気づいたのは、結局のところ、言葉は想いの続きだということだった。


 うう、とか唸り声のようなものや、ひっくっという嗚咽しか唇からは漏れることがなくなり、狭霧はがくがくと肩を震わせてひたすら泣き続けた。それを見下ろして、高比古は狭霧の頬をこぼれる涙を指の腹でぬぐいつつ、苦笑した。


「そんなに泣くなよ。せっかく人の目がないところに来たのに、手が出せなくなるだろ」


「ばか」


 高比古が冗談をいうので、狭霧は彼の胸を覆う堅い胸当てに向かってぎゅっと抱きついた。






 翌朝。明け方早く意宇へ向けて出立することになった狭霧を見送りに、高比古は雲宮の門まで出ていた。


「じゃあ、気をつけて」


 二度目の別れの朝、狭霧は胸が苦しくてたまらなくて、馬に乗るのもためらって高比古のそばに立ったまま動けなかった。


「やっぱり、お別れは昨日までみたいにあっさりしていたほうがよかった気がする――。そばにいてもらえると、よけいに別れるのがつらくなるもの。――昨日は高比古に優しくしてほしいって思っていたけれど、考えてみれば高比古はいつも優しいし、わざわざ言葉をもらわなくても、必要がなかった気がする。――ないものねだりをしただけだったんだ」


 狭霧の背中に手のひらを置いて、高比古はそれを慰めた。


「でも、一度は手に入れてみないと、ないものねだりだったって気づかないだろう。――腕を出して」


 そういって、高比古は狭霧に腕を出させると、手首に小さな手環たまきをくぐらせた。赤と山吹色と白の色紐を縒った組み紐飾りで、白の瑪瑙玉が五個ほどついている。


「腕飾り」


 高比古はそういったが、それくらいなら見ればわかる。狭霧はぽかんと唇を開けて見上げた。


「これは……」


「夜のうちに探しておいた。おれも腕に着けた」


 高比古はそういって自分の手首を狭霧に見せた。そこには、狭霧の腕にくぐらされたものと同じ飾りがついていた。


 狭霧は、吸い寄せられるようにして高比古の手首をじっと見つめた。


「高比古が飾りを着けているの、はじめてみた」


「ああ。はじめて着けたいと思った。意味があると、飾りもいいものだな。あんたがここにいると思うと、ほっとする」


 そういって、自分の手首を見下ろして、高比古はくすりと微笑んだ。






「また半月後に」


 高比古に見送られて、狭霧は恵那や警護の武人たちを連れて、再び意宇への路をいった。


 同じ道を同じように進んで、同じように雲宮から遠ざかるだけなのに、狭霧は寂しくて苦しくて、馬上で思い切り泣きじゃくった。


「やっぱり、あっさり別れておけばよかった。道を戻って会いにいったりしなきゃよかった。どうせ離れるのに、どうせ今日からはまた離れ離れなのに……」


 人目も気にせずにしくしくと泣き続ける狭霧を、隣で馬を駆りながら恵那は道中ずっと慰めた。


「狭霧様……」


「人を好きになるってつらいね。切ないね。足りない、もっと会いたいって、足りないことばかり考えてしまう。どうしたら満足できるんだろう」


「わかりません。ただ……恵那も足りないと思ってみたいです――」


 狭霧の顔を覗き込みながら、恵那はもらい泣きをしつつ微笑んだ。


「すてきなお相手がいるって、すてきですね。羨ましいです」


 狭霧はようやく笑顔になって、涙で頬を濡らしたままで前を向いた。


「そっか――そうだね。高比古がいるっていうことが満足なんだ。あの人に、そばにおいでっていってもらえてよかった。それを喜ばなくちゃ駄目だね、そうだね――」




 夏の風が通り抜ける王の道には、青々とした緑をつけた木々が茂り、大きなはねをもつ夏の蝶がふわりふわりと飛び交っていて、そこには夏の気配が漂っていた。


「次にここを通るのは、半月後か。その日が早く来ればいいと思うと、どうしよう、時が過ぎるのが早い――」


 馬上で手綱を握りながら、狭霧はつぶやいた。それから、高比古が自分の腕に着けた組紐の飾りへ視線を落とした。


「また半月、一人で頑張らなくちゃ――あの人も頑張ってるんだから。怠けていたら、高比古に合わせる顔がないもの」


 戦場を模した離れの兵舎で怖い顔をしていた高比古の姿を思い出すと、もう片方の手のひらでそれを包み込んで、目をつむる。


 胸が落ち着くまで目を閉じて、息を吸いながら目を開ける。


 そして、意宇の都へ続く道の風景をじっと見つめた。


「いこう」



                     ..........end

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