番外、都渡り (1)


 大神事は、良くも悪くもさまざまなことの区切りになった。


 大国主がそう認めていたように新旧の武王の交代の場になり、その日を境に、杵築の宮の長の座は大国主から高比古に譲られることになった。


 新しく武王の座に就いた高比古に合わせて、つねにそばに従う側近を含めて、館衆の顔ぶれは見直されることになったし、高比古が事代で、もとは意宇の策士だったことから、杵築と意宇、そして、杵築と神野の関わり方も少し変わることになった。


 出雲には、杵築と意宇、そして神野と、司るものが異なる三つの都、または宮があったが、杵築を中心にして、一つの大国にまとまっていくように見えた。


 須佐乃男はある日、狭霧を須佐へ呼び寄せてこういった。


「いいか、狭霧。変わり続けるものを支えるには、変わらないものが必要だ。杵築が落ち着くまでは、意宇を変えるな。一度にすべて変えると崩れる恐れが増すし、崩れた時の影響も大きくなる――」


 だから、大神事の後も、狭霧は意宇で暮らすことになった。


 婚儀の前と同じように二つの都を行き来して、半月ごとに都を移り住む暮らしを続けることになったのだ。






 侍女の恵那は、狭霧の代わりに不満を口にしてくれた。


「どうして狭霧様が、このように流浪の民のような暮らしをせねばならないのです。いまや狭霧様は武王の一の后ですよ? それに、高比古様とは婚儀を済ませたばかりの若夫婦なのですよ? よくもまあ須佐乃男様は、こんな時分に別々に暮らせなどと酷い仕打ちができるものですね――!」


 十五日に渡る杵築での暮らしを引き上げて、意宇へと戻る道中だった。


 道が雪に閉ざされる冬の季節でなければ、旅はのんびりとしている。


 無理なく旅を続けようと、疲れやすい早駆けをすることもなく、一行は日に何度も駅屋うまやを使って休息をとった。


 馬番が馬の世話を焼いている間、狭霧と恵那は、駅屋の外の日陰に腰をおろして待っていた。


 隣で恵那が喚くと、狭霧はふうと息をついた。


「まあ、いいんだどね――。薬師の学び舎のこととか、館衆の位のこととか、まとめなければいけないことはたっぷりあるから、婚儀を済ませても月に一度は意宇に来るつもりでいたし、長老会のことも手伝いたいし――」


 意宇の宮で役目に励むのは本望だったし、やりはじめたことを途中で投げ出すくらいなら、祝言をあげたばかりの夫と一緒に暮らせなくてもいいと、狭霧は思っていた。


 恵那は、おかしいと思ったことにはしっかりと文句がいえる侍女だった。


 今も、認められるわけがないとばかりに眉をひそめて、狭霧の顔を覗きこんでいる。


「でも――」


「それに、大神事の前にたくさん怠けちゃったしね。婚儀の後で阿伊にいってから大神事まで、四か月くらいあったかな。そのあいだ、わたしも高比古もやるべきだったことをほとんどやっていないの。わたしはずっと杵築にいて意宇へはろくに戻らなかったし、高比古は館に閉じこもって外に出ようとしなかったし――」


「その頃はその頃でたいへんだったでございましょう? あなたは、朝も昼も高比古様のお世話をなさっておられて――」


「うん。でも、四か月ものあいだ、なにもせずに二人きりで過ごすことができたのよ。今から思えば、あの頃の高比古、かわいかったし……」


 恵那は、小ぶりな目を丸くする。


「かわいかった? ――そうでしょうか。いっちゃ悪いですが、『鬱陶しかった』の間違いじゃありませんか。怖い怖いと館に引きこもって、片時もあなたを離そうとせず――。恵那から見れば、あの頃の高比古様は甘ったれた子供のようでございましたよ。穴持様の後を継いで武王になられる方にはとても思えず、化けの皮が剥がれるとこうなってしまわれるのかと不安に思ったほどで……」


「恵那、いいすぎよ」


 呆れて狭霧が諭すと、恵那はぱっと口元を手のひらで覆った。


「おや、なぜでございましょう。口が勝手に――」


 恵那は、口のせいだと言い張った。






 杵築を出てから初めに使った駅屋を出て、次の駅屋へ向かって、狭霧は恵那と隣り合って道を進んだ。かつ、かつ――と蹄の音を響かせて、馬上で揺られながら、狭霧はお喋りの続きに細い声で尋ねた。


「ねえ、好きだっていう気持ちって、一年くらいで冷めちゃうものなのかなあ」


「――なんのことです?」


「だから……」


 狭霧は、馬上で肩を落とした。


「大神事が終わった後の高比古は、その前と全然違うもの。杵築に会いにいっても淡々としているし、忙しそうにしているし――」


「それは、忙しいでございましょうよ。館衆から本軍、神戸かんど常駐の船団に、砦へ向かわせている軍に、石玖王様が統率されている石見国の軍や、ほかの小国の軍、盛耶様に託された諏訪の軍に――出雲のすべての兵を統括される身ですもの。大国主がいらっしゃった頃と同じというわけにはいきませんし、前からあった不便をこの機に解消するべきだと、安曇様をはじめ、石玖王様や闇見国くらみこく名椎王なづちおう様までが、軍の再編に乗り出しておられます。その中心におられる高比古様がお暇だと、大問題ですよ」


「そうなんだけど――そうじゃないっていうか……」


 狭霧は手綱に手を沿わせて、ぼんやりと前を見た。


 意宇へとつながる王の道は、海と宍道の湖に沿って彼方まで続いている。


 杵築を発ったのは明け方だったので、一つ目の駅屋を過ぎるほど歩いたとはいえ、まだ朝の早い時間だ。


 海から吹く風はひんやりとしていて、残暑が残る初秋とはいえ、過ごしやすい日和だ。


 かつ、かつ――。蹄の音が土の上でこだまするのをしばらく聞いてから、狭霧はぽつりといった。


「いけば、『おかえり』って出迎えてくれるし、一緒に過ごせるけれど、高比古は忙しいから夜しか会えないし、話をしても、軍のこととか長老会の話ばかりなの。――当たり前なのはわかっているの。でも――ううん、やっぱりわからない」


 はあ。と、狭霧は大きく息を吐いた。


「過ごし方は婚儀の前と同じなのにね、なにがいやなんだろう? ――変わってしまったのはわたしなのかな。離れるのがすごく心もとないの」


 恵那は眉を吊り上げ、ぷりぷりと怒りはじめた。


「離れるのがおつらいのは、四か月のあいだずっと一緒にいらっしゃって、一緒におられることに慣れたからではないのですか? でも、それは当然のことでございます。ですから恵那は言っていたではありませんか! 若夫婦は離れて暮らすべきではないのです。一国の上に立つ王とそのお后が、ふつうの暮らしさえできないなど、おかしな話でございますよ」


 それは、狭霧の本音でもあった。でも、狭霧の場合はいろいろなことが邪魔をして口にできない。だから、自分のかわりに恵那が怒ってくれると胸がすっと楽になった。


「ありがとう、恵那」


「ありがとう? なんのことでございましょう」


 恵那はまだ怒っていて、ぶつぶつと応えたが。


 お喋りを続けながら進んで、しばらく発った頃だった。


 道の行く手から、砂煙をあげて近づいてくる騎兵の姿が見えた。


「意宇からの早馬でしょうか」


「それにしては身なりが上等よ。――誰だろうね……あっ」


 眉の上に手のひらで笠をつくって砂煙の中に目を凝らしているうちに狭霧は手綱を引き、馬の足をとめた。


「ご存じの方ですか?」


八重比古やえひこさんよ」


「八重比古様といえば、ああ、高比古様の側近になられた……」


「うん。阿伊にいった時には、わたしもお世話になったの」


 狭霧の一行が道の真ん中で歩みを止めると、向こう側から駆けてくる八重比古も「どう、どう」と早駆けをやめさせて同じ場所で止まった。


 八重比古はもともと高比古がよく率いた小団の長で、その頃から世話役を務めていた。高比古からの信頼が厚かった八重比古は、大神事を経て高比古が武王と呼ばれるようになると、新しい武王の側近へと位を引き上げられることになる。


 それで、八重比古の姿は、狭霧が阿伊で一緒に山道を旅した時よりずっと立派になっていた。前は武人らしい白の上衣と袴だけだったが、館衆として杵築のまつりごとにも携わるようになったので、異国からやって来る御使いと相対しても見劣りしない染衣や、綾織の帯で身を飾るようになった。


 優雅な衣装を、八重比古はすでに身に馴染ませていた。面倒見がよさそうな穏やかな顔に笑みを浮かべて、馬上から主の后へと品よく頭を下げた。


「意宇へお戻りの日でしたか。どうかお気をつけて」


「はい、ありがとう」


 同じく馬上で笑みを返して、狭霧は八重比古が来た方向をそっと眺めた。


「どこかへいっていたの?」


「はい。所用の帰りです」


 八重比古はにこやかに応えて、残念そうに苦笑した。


「日が経つのは早いものですね。あなたが意宇へ戻られるということは、もう十五日が過ぎたのでしょうか。――杵築の兵が残念がりますね」


「杵築の兵が? どうしてですか」


「あなたが杵築におられる時とそうでない時で、高比古様ががらりと変わるからですよ」


 八重比古はくすくすと笑っている。


「そういえば、狭霧様は、あの方が戦や戦陣の指揮をとられる姿をご覧になったことがありますか? 戦ではなく稽古でも――」


「いいえ、ないです。邪魔になっては困ると思って」


「そうですか。大神事の後というもの、高比古様には荘厳な気配が宿っておいでです。あなたの父王の大国主は、例えるならば炎の荒神や獣の王というふうでしたが、高比古様は、まさに死神です。闇の王か氷の王というふうで、冷たい神気に溢れていらっしゃるのですよ。あれはもう、一度浴びるとクセになりますよ」


 そういって、八重比古はくっくっと笑う。


 狭霧は、ぽかんと口をあけた。


「クセに?」


「ええ。なんといいますか、高比古様が睨みをきかせると、寒気を感じるんですよ。大国主の時は、あの方の声で号令を耳にすれば身体が燃えるように熱くなりましたが、高比古様の場合は逆で、気配を感じると指先まで冷めていって、血のかよわない別の生き物に変わる気がするのです。――ふしぎですよ。出雲の王の言葉には言霊が宿ると古来いわれていますが、本当にそうです。代が変わってもそれが変わらないのは、王者に選ばれる者の力を見せつけられるようで、興味深いですよ」


「そうなんですか――」


「はい。さっきの話の続きですが、高比古様が死神に見えるのは、狭霧様が杵築におられない時だけなのです」


「そうなんですか?」


「ええ。あなたがいらっしゃる時は、日が暮れれば館に戻りたそうにそわそわされますしね。あなたがいなくなって兵が残念がるというのは、そういうことなんです。稽古のしごきも軽いし、日が暮れれば稽古は終わりますから」


「――」


「そうだ。一度ご覧になってはいかがですか。稽古場へ見にいらっしゃったらいいんです。意宇への帰りなど、一日延ばせばよろしいのです」


「でも、もう発ちましたし、せっかく進んで来た道を戻るなんて――」


 狭霧の一行は旅支度をして、すでに雲宮を出発してしまっている。


 狭霧は渋ったが、恵那は後押しをした。


「ほら、狭霧様。離れるのがおつらいとおっしゃっていたところじゃありませんか! これくらい、なんです。老王様のご命令に従って別々に暮らしてやっているんですから、戻りたい時に戻ればいいのです!」


「でも――」


 気の向くままの例外をつくってしまえば、我慢しなくてはいけない時に我慢がならなくなるかもしれない――。


 これからのことを思うと迷ったが、結局狭霧は了承して、都へ戻る八重比古と一緒に来た道を戻ることになった。

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