終章、石の名
大神事以来、大和から軍勢がやって来ることはなかったが、互いを敵と見なした小競り合いが終わったわけではなかった。
新しい海の道をつくった大和は、その海道に沿って都を構える諸国を味方につけて、着々と領土を広げていく。そして、倭国に大和ありとその根をおろしていった。
対して出雲は、かねてからの友国との結びつきを強めていく。友国とその益を守ろうと、商船が行き来する海域に砦と灯台を造り続けた。
長門の神岬に設けた砦は、その一つだ。
大国主によって王族が滅ぼされたのち、長門は東西に分かれて支配されることになった。南の、瀬戸の海側は大和に、東の、出雲との国境あたりは出雲に――。そして、引島の砦のあったあたり――筑紫島との境となる海峡の周辺は、どの国の支配も受けない〈
新しく造られた神岬の砦も、海峡を見張るための場所だ。引島の砦に代わる、対筑紫、対瀬戸の砦になった。
落成の報せを受けると、高比古は船団を組み、
青波に乗って西へと海を進んでいくと、古くから出雲の民が「神岬」と呼んで重宝した岸壁が見えてくる。荒々しくも色白の岩壁を背にした入江の奥には砂浜があり、その奥の森を切り開いた場所に、出雲風の砦は仕上がっていた。風を防ぐ岸壁と、船を上げられる砂浜、海へ注ぎ込む川筋に囲まれたその場所には真水もふんだんにあり、長くそこで暮らす兵の腹を満たす畑をつくることもできた。
「高比古様、やぐらの入口はこちらです。こちらから上の高見台に登れます。――高比古様?」
浜にあがった高比古を案内しようと、そばに付き添う従者となった八重比古は、丸太の表面がむき出しになったやぐらの前にいたが、当の高比古はついてこなかった。
高比古の足は、それとは別の方向、やぐらの周りに広がる若い林へと向かっていた。
そこにあるのは、栗の林。苗木は、新旧の武王による王位継承の場となった大神事の後に植えられた。苗木はすくすくと育ち、屋根の高さまで背を伸ばしていた。
育ちが早い栗の木は、あと一年もすれば、舟ややぐらの材となる立派な幹をもつだろう。
若い栗林では、いずれ大きく育つことを見越して木と木のあいだがあいていて、隙間がある。長い年月をかけて育った奥山の森とは、様相が異なっていた。
木の幹のそばで足を止めた高比古は、ひたりと手のひらを置いた。
若い幹は、大きく育った木よりも細く、表面が滑らかだ。太い根を張る大木の周囲によく見られるような、苔に覆われた黒土や幹のひび割れもない。
枝葉はのびのびと伸びているが、細く、木と木のあいだの隙間を覆うほど茂ってはいない。若い枝葉の隙間からは、青い空が覗いていた。空を見上げて、高比古はじっと動かなくなった。
この森は、自分だな――。
誰か別の者につくられて、生かされている。
そして、天を覆い尽くすほど葉を茂らせて、巨大な森をつくってみせろと、場所を与えられている――。そう思った。
栗林の隅で頭上を仰ぐ高比古の後ろに、八重比古が追いついた。
同じ空を見上げて、八重比古は感慨深げに息を吐いた。
「大きく育ちましたね。前に我々が来た時は、まだ小さな苗木でした。もう二年も経つんですものね――。栗は三年といいますし、この林も、来年には立派になりましょう」
「ああ――」
栗林を自分と重ねたことを、高比古は口にしなかった。
話しても伝わらないと思ったし、いう必要もないと思ったからだ。
「待たせたな、いこう。高見台からの景色が見たい」
「はい、高比古様」
若い武王に従って、八重比古は踵を返した。
砦の高見台は、太柱を打ち込んだ堅固な木組みを誇る出雲風の館の最上につくられた。
梯子を使って上まで登れば、入江を見渡すことができる。
昇りきって手すりのそばに立ち、海原を見つめると、八重比古は説明を加えた。
「高見台は、上の岬にも設けました。灯台も建てます。上の高見台に立てば、晴れていれば東は出雲、西は筑紫の遠賀まで海原を見渡すことができます」
誇らしげにいう八重比古をちらりと見て、高比古は微笑した。
「越の木の匠に感謝しないとな。この技は大和に勝るよ」
「そうですね。越は、出雲にとってなくてはならない友国です」
「――そういえば、阿多への使者は?」
「発ちました。――ここだけの話ですが、阿多の若王に嫁いだ后が一の姫様の娘姫だったのは、出雲にとってたいへん都合のよいことでございました。いま阿多が欲しがっているのは、技です。とくに、木組みと治水の技――越の得手です」
「出雲が両国の仲立ちになるというわけか? ――海の道、か」
大海原を見つめて、高比古は息をついた。
そこには、太陽の光を浴びてきらきらと波を輝かせる大海がある。青々とした海の上には白い海鳥が飛び交い、時には海面に顔を突っ込んで、魚を獲っていた。
のどかな海景を眺めて、高比古は重々しく口をひらいた。
「宗像の都を通る海の道と、大和がつくった沖ノ島を通る海の道――。同じ海の道だが、宗像のほうの道は大陸の皇帝の息がかかる港に着き、沖ノ島のほうの道は
高比古が苦笑すると、八重比古はしばらく沈黙を続けた後にいった。
「技と、鉄――ですか。しかし、鉄だけあったところでどうなりましょうか。韓国はもともと大陸の皇帝の支配下にある国。大陸に着いても鉄はいただくことができます。それに、いくら鉄が大事だろうと、鉄だけを漁ろうとするのは、大和という国は気短で、節操のない国ですな」
「鉄があれば剣がつくれる。剣があればすべてを手に入れられると、そう考えているのだろう。いや、鉄と比べて技を欲しがるおれたちには、連中の考えなど考えてもわからないのだろう。――もう、下りよう」
「はっ」
八重比古を伴って梯子を下りると、砦の外に出る。
そして、出来上がったばかりの砦を振りかえって、見上げた。
「ここは、攻めの砦ではなく、守りの砦だ。――しばらくはな」
高比古はくすりと笑い、砦に背を向けて砂を踏んだ。
「いこう。ここで暮らしている兵を集めろ。宴をひらいてやろう。出雲を守っているのはおまえたちだと、讃えないとな」
高比古が神岬に着いて三日後。
砦のある入江に五艘の小舟がやってきた。いずれも出雲の舟で、先頭の舟の舳先に立つ若い武人は「おおい!」と大声をあげながら、浜を行き来する砦の番兵に向かって手を振っている。
「武王様はどこにいった! 高比古を呼んでくれよ。おおい、おおい!」
武人は高比古を呼んだが、呼び方も身ぶりもぞんざいだった。
番兵たちは浜辺で列を成し、眉の上に手で笠をつくって、舟が寄ってくるのを待ちうける。しかし、舟が近づいて武人の顔がよく見えるようになるにつれて、番兵たちは顔をしかめていった。
やってくる武人の顔は、すでに出迎えを済ませた若い武王にそっくりだったのだ。
「高比古様が、高比古様をお探し……あれ?」
波打ち際で首を傾げる番兵たちと目を合わせると、やってきた武人は「なんだよ、その顔」とけらけら笑った。そして、ばしゃんと豪快に水に落ち、膝でざぶざぶと水を掻いた。
「俺は
陸に上がるなり、佩羽矢は大声で名を連呼した。
すぐに高比古が現れて、迷惑がってそれを止めたが。
「出雲から来たのか? なんの用だよ、人の名を売り物みたいに呼びやがって……」
「久しぶりだってのに、相変わらずそっけない奴だな。半年ぶりか? そうだそうだ、聞いてくれよ、半年前に生まれた俺の娘な、寝返りをうつようになったんだ! もうすぐ這い回るんだ。昨日も、出掛けに俺の顔を見てさ、あ~って泣くんだ。あれ、絶対『とうちゃんいかないで』って甘えてたんだな、うん」
「――で? 用件はなんだ」
「聞けよ、俺の話! ……いやいや、それどころじゃねえか」
憤慨したものの、佩羽矢はぱっと声色を変えて、高比古の呆れ顔を見つめた。
「これから俺と交代だ。すぐに杵築に戻れ!」
「――は? なぜ」
不機嫌な渋面をする高比古に力説して、佩羽矢は前のめりになっていく。
「なぜって、おまえの子が産まれそうだからだよ! 昨日、姫様が産屋に入ったって、雲宮から俺のところに使者が来て……!」
高比古は、ぽかんと口を開けた。
「産屋? でも、赤子は母親の腹の中に十月十日いるんだろう? 狭霧はまだ九月目で――」
「ばぁか! いつ生まれるかは、出てくる子供が決めるんだ! 子供がもう出たがってるんだから、出てくるんだよ。とにかく急げ! 雲宮の使者が俺のところに来たのは昨日の夕方だ。今は昼間。今から戻れば、急げば晩に着くかもしれない――着かないかもしれないけど。まあ、とっくに生まれてるだろうけど、自分の子なんだから、早く見たいだろ?」
佩羽矢は目をきらきらとさせている。
自分を見つめる目の輝きに圧倒されて、高比古はぱくぱくと口を動かした。
「その……」
「いいから、早く舟に乗れ! いや、そういやおまえ、武王だっけな。一人でいかせるわけにはいかねえのか。おおーい、高比古を杵築に連れ帰るけど、一緒にいく奴はいるか!」
乗って来た舟に自分の代わりに高比古を乗せると、騒動を聞きつけて砦から飛び出してきた八重比古と三穂に供をさせ、佩羽矢は、船団を出航させてしまった。
杵築の雲宮の西の端――かつて大国主の妃が暮らした館の跡地は、十年近くのあいだ野原になっていた。しかし、武王の后の懐妊がわかってから、その野原からは草が摘まれて塩で清められ、小さな産屋が建てられた。
昔ながらの木組みで建てられた産屋の周りには杭がうたれて、白い蛇縄が張られた。蛇縄は産屋の周りに聖域をつくり、それは、生まれ出た赤子の魂がもとの場所へ戻ろうとするのを防いで、この世に留めるのだそうだ。そして、赤子を狙う
聖域の中で、狭霧は赤子を産んだ。男の子だった。
おぎゃあと産声が上がるのを、安曇は蛇縄の外から見守っていた。
慌ただしく産湯が運び込まれたり、産婆が入れ替わったりしつつ、時が過ぎ――。やがて、産屋の入口にかかっていた薦がよけられ、そこから顔を出したのは、侍女の恵那。
恵那は安曇を探して、呼び寄せた。
「いらしてください、安曇様。狭霧様がぜひと――」
手招きをされると、安曇は目を丸くした。
「私が? まず入るべきなのは高比古では――」
「ここにいらっしゃらない方を、どうお招きするんです? それに、高比古様なら、神岬まで佩羽矢様に迎えにでかけていただきました。――それにしても、事代の力というのは肝心な時に働かないものですねぇ。この一大事に、事代たちも、なんとかの契りを交わした佩羽矢様までもが高比古様とお話しできないというのですから……はい、なんでしょう、狭霧様。いいえ、私は高比古様のことを悪くいったわけでは……いえ。すみません、控えます、申し訳ありません」
ぶつぶつといっていた恵那は、途中で産屋の中を振り返って言葉尻を濁す。それから、もう一度安曇を向いた。
「とにかく、安曇様。御子君のお顔をご覧ください。かわいいかわいい男の子ですよ!」
「しかし――」
安曇は渋った。しかし、ふらりと足を浮かせると、恵那に招かれるままに産屋へと足を踏み入れることになった。
ついさっきまで産湯に浸からせていたせいか、産屋の中はむっとした湿り気があった。
床には、藁が敷き詰められた上に飾り布が敷かれて、素足で踏むと温かく柔らかい。真ん中に寝床があり、真っ白な寝着を着た狭霧がいて、生まれたばかりの赤子を胸に抱いていた。
安曇は、その産屋に足を踏み入れたはじめての男になった。
役不足を案じて入口で足を止めた安曇に、狭霧は笑顔で呼びかけた。
「安曇、来て」
そばに座るように呼び寄せると、狭霧は、胸に抱いた赤子を見下ろして微笑む。それから、安曇の手に預けようと、腕を差し出した。
「抱いてあげて。――とうさまの分まで」
「―――」
なされるがままに、産着に包まれた赤子に合わせて腕を丸めるものの、狭霧の手が離れていって、赤子の重みを感じ始めると、安曇は深くうつむき、顎を小刻みに震わせた。
「――穴持様」
声を震わせて静かにうつむく安曇に、狭霧は柔和な笑みを浮かべてうなずいた。
「うん。とうさまも祝ってくれているよね。とうさまは大地の守り神になったんだもの。どこかから、きっと見ているよね。わたしと高比古の子供で、とうさまの孫だもの。でも、この子は、安曇の孫でもあるのよ。安曇はとうさまの代わりだものね」
狭霧はくすくすと微笑んでいる。顔を上げて目を合わせると、安曇は抱いていた赤子を狭霧の手に戻して、指の腹で目尻をぬぐった。
「狭霧は、いつも強いね。須勢理様が亡くなった時も、輝矢様が亡くなった後も、今も――。一生懸命笑っていて、私は、何度あなたから力をもらったか――」
高比古が産屋に辿りついたのは、その翌日のことだった。
「この大事な時にあなたにお知らせすることができず、申し訳ありませんでした。しかし――!」
「出雲中の精霊がこの産屋を囲んで、あなたの御子を覗こうと、それはもう大きな覆いをつくって――雲をつくってしまったのです。それに阻まれて、あなたに声を届けることができず……」
「もういい。おれはもうここにいるんだから」
早足で庭を横切って、高比古は産屋を目指した。
産屋の主の夫の到着を待って、中にいた侍女たちはすべて産屋の前に並び、頭を垂れていた。そこにできた路を通って薦をくぐり、中に入ると――。
狭霧が、高比古を迎えた。
「おかえり、高比古」
「……ただいま」
狭霧は寝着ではなく、ふだん通りの衣装を身にまとっていた。寝床は片づけられていて、中はすっきりとしている。
胸に抱いた赤子を見下ろして、狭霧は話しかけた。
「ほら、とうさまよ。よかったね、やっと会えたね。会いたかったよね」
「とうさま……? おれが?」
高比古が空耳を聞いたかのように反芻するので、狭霧はくすっと笑った。
「とうさまでしょう? ――お願い、高比古」
「お願いって、なにを」
狭霧は、赤子を掲げるように腕を差し出す。手渡されようとしているのは、生まれたばかりの赤子。それなのに、高比古はまるで刃を向けられたように後ずさりをした。
掲げていた我が子を胸元に戻して、狭霧は苦笑した。
「困ったとうさまね。こっちへ来て、高比古」
「あ、ああ――」
「座って。腕を出して」
高比古は、赤子の抱き方を知らなかった。そばにあぐらをかいて、いわれるがままに両腕を差し出すと、狭霧は、その腕の上へ赤子を下ろしていく。
温かなものがそろそろと下りてくるのを息もせずに凝視しつつ、温かさが腕に触れると、高比古は狭霧にすがった。
「怖い」
「なにも怖くないわよ。赤ちゃんよ」
「でも――」
度胸試しをもちかけるように、狭霧は高比古の腕の上に赤子を置いてしまった。
手の上に乗った小さな赤ん坊の顔をまじまじと見下ろして、高比古は唇をへんなふうに歪める。
「―――軽い。柔らかいし――壊れそうだ」
ぎこちない手つきで赤ん坊を抱く高比古を眺めて、狭霧はくすくすと笑った。
「輪郭や眉や鼻や口もとは、高比古に似てると思うの。でも、目はわたしっていうか……とうさまにそっくり」
「おれにも似てる?」
「そうよ。高比古の子だもの」
「おれの、子……?」
「そうよ。あなたの子。あなたの子に名前をつけてあげて」
高比古は、ぱっと顔を上げて心配そうに狭霧を見つめた。
「――おれが? いいのか?」
「いいのかって、あなたの子よ? あなたの命を継いでいく子なんだから」
「あ、ああ」
うなずいたものの、高比古はしばらく黙った。それから、つむじを曲げた。
「名前って、どうやってつけるんだ?」
「知らないわよ。わたしだってはじめてだもの」
そういって、狭霧は困ったように笑う。
「わたしの名は、とうさまがつけてくれたんだって。天と地の狭間に留まる霧みたいに、低い場所から俯瞰して、雲宮にかかる白霧のように大地を見渡す……そういう娘になれるようにって――。高比古の名も、高貴な存在になるようにって彦名様がつけてくれたんだよね」
「――忘れてた。名前って、意味があったんだな。ただの呼び名だと思ってた」
「本当ね。こうして名前を付ける立場にならないと、深く考えないのかもしれないね。――高比古はこの子に、どんなふうに育ってほしい?」
「え?」
「名前は願いよ。こうなってほしいって思う願いを、名に込めればいいと思うんだけど――」
狭霧がいい終わらないうちに高比古はびくりと震えて、手の上を見下ろした。
「わ!」
すやすやと眠っていた赤ん坊が、伸びをしたのだ。
くう、と高い声を出したかと思えば、小さな身体で思い切りのけぞって腕を伸ばし、拳を突き出した。赤ん坊の拳は小さくて、高比古の親指を一回り大きくしたほどしかなかった。小さな拳が強張った手首に触れると、高比古は青ざめつつ顔を赤くして、茫然と狭霧を向いた。
「すごく、柔らかい」
感覚をたしかめるように、高比古はもう一度小さな顔を見下ろした。再び眠りについたのか、赤ん坊は伸ばしていた腕を引っ込めて、拳を握りしめたまますう、すうと寝息を立てている。
高比古は、恥ずかしそうにうつむいた。
「なんだろう――すごく、かわいいな」
それから、慎重に息を整えると、真顔でつぶやいた。
「幸せに――何事にも負けず、くじけず、優しい目をもち続けて欲しい。――
「巌? この子の名前?」
「ああ、巌。石の名だ。石は、優しくて強いから」
「巌ね?」
狭霧はくすっと笑って、赤ん坊を抱く高比古の姿を眺めた。
赤子を抱くことに少し慣れたのか、高比古は幸せそうに微笑んで、腕の中の赤ん坊の小さな顔や拳や首を、長いあいだじっと見つめていた。
「おじいさまのところにいかなくちゃ」
三人で産屋を出て、館で暮らし始めてから十日後。
巌を抱いた狭霧は御輿に乗り、高比古はそばで馬を駆って、老王、須佐乃男の治める里、須佐の地を目指した。
前のように倒れることはなかったが、須佐乃男は昼間にも床につくことが多くなっていた。
その日も、須佐乃男は寝床に横になっていて、高比古と狭霧が寝所に着くと、従者に背中を抱えられて上身を起こした。
齢の割に太い腕に生まれたばかりのひ孫を抱くと、顔を近づけたり、わざわざ離して遠くから眺めたりして、誕生を喜んだ。
「利発そうな子だ」
狭霧と高比古は須佐乃男の寝床のそばに並んで座り、一行の供についてきた安曇が、二人の背後であぐらをかいていた。
「巌と名付けました。強く、何事にも動じず、立ち向かっていけるよう」
高比古が応えると、須佐乃男は目を細めて何度もうなずいた。
「石の名か。岩のように頑丈に育ち、長きに渡って出雲を見守っていけ」
曾祖父らしいにこやかな顔で腕の中の小さな赤ん坊に話しかけると、いったん息をつき、顔つきを変えていく。老王の顔になった須佐乃男は慎重に唇をひらき、
「今日、わしの名をもって、この子を仮の次期王とする。――安曇、見届けろ」
「はい」
狭霧と高比古の背後で、安曇は深々と頭を下げる。
須佐乃男は次の王となるひ孫を狭霧の腕に戻し、脇息に肘を置いて背を丸め、高比古に呼びかけた。
「高比古」
「はい」
「いい顔になったな。父親の顔も覚えたようだ。――もう、迷いはないな?」
「はい、なにも。大国主から託された出雲と狭霧と、この子を、この地で一生守っていきます」
高比古が淡々と応えると、須佐乃男は微笑んだ。
「よい――。闇と光を見極めろ。誰が目を逸らそうとしても、おまえだけは決して目を逸らすな。それが上に立つ者の宿命だ。よいな?」
「はい」
高比古がうなずくと、次に須佐乃男は孫娘のほうを向く。
「狭霧」
「はい」
孫娘と目を合わせると、須佐乃男はにこやかに笑う。
そして、脇息から肘をはずして、寝床に背を倒していった。
「ここしばらく、起きているとつらくてな――。老い先短い爺になったものだ。狭霧、逝く前に、おまえの子を抱けてよかった」
白い敷布の上に寝転んで楽な姿勢をとりながら、須佐乃男は、孫娘の顔を見上げた。
「狭霧や。いまほどおまえをかわいいと思ったことはない。狭霧――わしの血も、意思も継いでくれるいとしい子よ。――すこやかにあれ。そして、わしの期待を裏切るな」
「はい――」
狭霧は、苦笑した。
須佐乃男の言葉はたしかに期待の表れだったが、呪いじみていて、まっすぐに狭霧を見つめる須佐乃男の目は、そうしなかったらどうなるのかと怖くなるほどだったからだ。
病床から出雲を睨み続けて、五年後――須佐乃男は永眠する。
その時も、その後も、なにかにつけて狭霧は須佐乃男の目を思い出すのだった。
やはり祖父は、優しいだけでなくて、ものすごく厳しい人だった――と。
...........end
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