青柴垣 (5)

 どくん――。


 大地が、脈打った。


 海の底の地面も、陸の森も、足元にあるものがすべて一度震えて、その震えに合わせて、海の水も河の水も森の木々も、その上で吹きかう風も、動きを止めた。


 ぶるりとした地面の震えは、新しい魂が生まれた瞬間の心音を思わせた。それは、それまでこの世になかった異質なものだ。


 大地が大きく脈打ったのは一度だった。そして、息づいた。


 どく、どく、どく――。


 感じることのできる脈動は消えていくが、なにかが生まれたにちがいないと、狭霧は光景を見つめ続けた。


 波しぶきはそれまでと同じように生まれ続けて、風に弾ける。波は平然とうねって、狭霧と高比古の身体を持ち上げる。朝日は天へ向かってじわりと昇り始め、海面を金色に染めあげた光はいつのまにか薄れて、海は青々とした昼間の色を得ていた。


 波も海風も素知らぬ顔をしていたが、狭霧は目を見張るのをやめられなかった。


「高比古様、狭霧様」


 波に漂う狭霧と高比古のもとに、小舟が近づいてきた。ここまで狭霧を運んできた舟だった。


 波をかいくぐって二人のそばまでやってくると、漕ぎ手の禰宜は櫂を置き、船縁から腕を伸ばした。


「お乗りください、お手を――!」


 上腕を掴まれて舟の上に引き上げられると、恐ろしいほど身体が重くて、疲れ切っていることを思い知らされる。


 人の身体を軽々と運んでしまう波の力の凄まじさを敬うしかなく、水の力がなくなってしまえば、海水を含んで重くなった身体を動かすのは難しかった。


 とくに高比古は弱っていて、びしょ濡れのまま船底に転がると、しばらく動こうとしなかった。


「おい、水壺はあるか! 高比古様のところにお持ちしてくれ――!」


 漕ぎ手の禰宜が、波向こうの別の舟に呼びかける。それを聞くなり、高比古は無理やり上半身を起こしてみせた。


「いい。平気だ」


「しかし……! あなたはひと晩じゅう祭祀を執りおこなっていらっしゃったのです。少しお休みになってください」


 禰宜たちは高比古を気遣うが、高比古はその顔を睨んで吠えるようにいった。


「馬鹿にしてるのか。これくらいでくたばってたまるか!」


 だから、狭霧はぼそりといった。


「くたばってたまるかって――溺れそうになっていたくせに。休みなさいよ」


 高比古は、ちっと舌打ちをして居心地悪そうに横を向く。


「あれはまずかった。我に返ったのはあんたのおかげだ。助かったよ。二度とあんな馬鹿はやらない――これでいいか?」


 口早に片づけてしまうと、ついと黒眉をひそめて、焼け焦げた高殿を見上げる。


「狭霧……見ろ。大国主がいる」


「えっ――」


 高比古が向くほうに目を凝らすと、そこには、片腕を海に放り出したような形に伸びる陸地――日御崎の岬がある。岬の先端には、荒々しい岩場に寄り掛かるようにして建つ五層建ての高殿がある。しかし、いまやその高殿は屋根も太柱も失って黒くなり、焼け落ちていた。


 下のほうでちらちらとくすぶる炎は、舟の上からは見えなかった。


 高比古が見つめるのは、高殿の屋根があったあたり――大国主が鎮まった最上のやぐらあたりだ。


「ほら、あそこ――」


「あそこって? とうさま? どこにいるの。見えないよ……」


「見えない?」


 高比古は、船縁にしがみつく狭霧のそばに寄って手をとった。


 海水に冷やされた二人の指先は、どちらも冷たかった。でも、触れ合うとたちまち温かくなっていく。手と手をつないでいるうちに、温かさがじんわり指に染みていくと、狭霧の目には、ふしぎなものが視えるようになった。


 まず、周りにある景色が一変した。目の前に見えているものがぐにゃりと歪んでいき、目まいがすると慌てたほどだった。海はぼやけて、波は宙に染みて風と混ざり、その向こうに立ちそびえる崖は輪郭を失って、濃い色のもやに見えるようになった。出雲の岸になびいた青い壁はさっき見た時よりずっと色濃くなり、深い海の底を覗いた時のような群青色に代わる。なにより大きくちがうのは、目の前の景色がぼやけたり、わずかずつ形を変えたりして、つねに動いていることだった。


 狭霧は、ごしごしと目をこすった。


「なに、これ――」


「すこし我慢しろ。いまだけ精霊や地霊を……人ではないものを見せてやるから」


 高比古の言い方は、狭霧を気遣っている。


 狭霧は、目をしばたかせた。


「っていうことは、これって……高比古がいつも見ているもの? 高比古の目は、いつも大地をこんなふうに見ているの?」


 それは、狭霧がふだん見ている景色とまるでちがうものだ。だいいち、狭霧がいつも見る風景はこんなふうには動かないのだから。風に色を感じることはなく、岩も山も静かに定まっている。しかし、いまは――。


 素っ頓狂な声を出すと、高比古は小さく首を横に振る。


「いつもじゃない。見ようと思った時だけだ。そんなことより、大国主を見ろよ。あの人は、もう戻らない――」


「……えっ?」


 狭霧は、慌てて焼け焦げた高殿の上を探した。


 目だけでなく、耳や別の部分にも高比古の力が宿ったのか、なにもかもがいつもと感じ方がちがった。耳もとを通り抜ける風は目をもったかのように自分を向いている気がするし、すれちがうたびに甲高い笑い声を聞く気もする。




 ふふふっ。


 あははははっ。


 お幸せに。ふふふっ。




 目や顔がないものの視線や声を感じるのは不気味だったし、気が散った。


 そうでなくとも目の前の景色は、見覚えのある風景とは様変わりしている。探そうとした崖や高殿は歪んで見え、しかも、それを隠すように、舟と崖のあいだに吹く風は葡萄色や山吹色に色づいて二重、三重の壁を為して、わざわざ崖を隠しているようにも感じた。


 思わず、高比古の指を握る指に力がこもった。


「見えないよ、うまく目が動いてくれない……」


 狭霧は懸命に目を細めたが、結局、奇妙にうねるふしぎな景色の中に見覚えのある崖や高殿を探すことはできなかった。その代わり、別のものを見つけた。


 狭霧は、息を飲んだ。


 岸に壁のようにそびえる深い青色の光が、生き物のように形を変えている。青い粘土の塊から細い腕が伸びていくように、青の光の一部は、日御崎の陸影に沿って蠢き始めた。


 水泡を閉じ込めた水のようにきらきらと輝きながら、光は伸びていく。


 青の塊の先を夢中で目で追うにつれて、狭霧の目は見開かれていった。


 深い青色をした塊の端に、女人の姿を見つけたからだ。


 高比古の手に温められた指先が一気に凍えて、感覚が遠のく。


 目には涙が溢れて、止まらなくなった。


「かあさま……あ……」


 喉が震えて、それ以上はいえなかった。


 狭霧の目が吸いついて離れなくなった青い光の中には、女人が一人立っていた。頭の上で黒髪をひと括りにして、その黒髪は海風にはためき、身にまとう白い衣も風に揺れている。腰にはきらりと銀色に輝くものがあった。――剣だ。


 その人が、女ながらに片時も剣を離さない人だったことを思い出すと、狭霧の目は、とどまることを知らずにぽろぽろと涙をこぼした。


「かあさまだ……かあさま――」


 狭霧の母、須勢理は、王妃でありながら、武王の妻として雄々しく振舞う人だった。男勝りの母に憧れて、狭霧は幼い頃、木から削りとったおもちゃの剣を腰にさしていた。ある時水鏡に写した自分の姿を見て、恰好悪いとやめてしまったけれど――。


「高比古……どうしよう――」


 声が震えた。つなぎ合った高比古の指にすがりつくのが、狭霧にできる精一杯だった。


 そこにいるのは、亡くなったはずのかあさまだ――。


 そう思うことが、この上なく怖かった。


 それは――死んだ母が姿を現したのは、ある人を迎えに来たからにちがいないのだから……。


 青色の光の先で、須勢理は笑っていた。


 母の笑顔が見つめるのは、狭霧がなかなか見つけることができなかった高殿の頂き。すっかり焼け崩れた日御崎の高殿は、狭霧の記憶の中の姿とは様変わりしていた。


 屋根や五層建ての上のほうのやぐらは跡かたもなく、それがあったはずの場所には虚空しかない。しかし、ないはずの床が今もあるように、そこにすらりと立つ武人姿の男がいる。 


 白の衣装に身を包んだ武人は、宝玉に彩られた玉剣を腰に佩いていた。黒髪は厳格な印象がある出雲風の角髪みづらに結われて、凛々しい横顔はまっすぐに陸のほうを向いていた。そこには、真正面に向かおうと近づいてくる須勢理の姿がある。


 狭霧の目に、次の涙が浮かんだ。


「とうさま、死んじゃった……?」


 虚空に立つ武人は大国主だ。身にまとう白の衣装はまっさらで、焼け焦げた部分はなく、大火の中にいたふうではなかった。


「高殿はあんなに真っ黒になっているのに、どうしてとうさまの衣は汚れていないの? とうさまは、もう戻ってこないの……?」


 震え始めた狭霧の肩を、高比古の腕が抱く。高比古は淡々といった。


「ああ。もう帰ってこない。大国主の命の緒は切れた」


 その瞬間、狭霧は息が詰まって涙が溢れて、まっすぐ前を向けなくなった。


「そんなにはっきりいわないで――」


「ごめん――。でも、事実だ」


「事実は最後までわからないのよ? 安曇だって、そう……」


 認めたくなくて、いつか狭霧にそういった青年の優しい笑顔を思い出した。でも、涙でぼやける目の前の光景は、狭霧からそれ以上の言葉を失わせる。


 青い塊の中から手を伸ばす母、須勢理は若かった。


 命を失った時の姿なのか、いつのまにか齢を経ていた父よりもずっと若く見えた。


 須勢理が伸ばした手を掴もうと、大国主も腕を伸ばしている。


 見えない床を踏んで虚空を悠々と歩き、大国主は須勢理のもとへ――青い塊の中に入ろうとした。


 狭霧は、咽んだ。


「青い光に入ったら、とうさまは死んじゃう? あの光と同じものになってしまう?」


 尋ねると、高比古は寂しげに微笑んで、首を横に振った。


「いや。もう命の緒は絶えている。――喜んでやれよ。あんたのかあさまのもとへいくのが大国主の望みなんだ。望み通りの場所に辿りつければ、魂は鎮まる。人に恨みをもってさすらうまがにならなくて済むんだ。――あんたの大切な、伊邪那いさなの王子と同じように――」


 伊邪那の王子。それは、想い人だった幼馴染の王子、輝矢かぐやのことだ。輝矢が亡くなった時、狭霧がなにより望んだのはそのことだった。どうかあの子が、哀れな悪霊になってしまいませんように、と。


 でも、いくらそれがせめてもの望みだったとしても、その時も、輝矢が死んでしまったことが嬉しいわけではなかった。


 母、須勢理が死んだ後も、狭霧はしばらく泣き暮らした。それから数年を経ても、突然苦しくなって、頼れる人を探して夜中にさすらう晩もあった。


 悲しいものは悲しいし、苦しいものは苦しい。


 でも――。狭霧の悲しみをよそに、虚空を歩いて愛する妻、須勢理のもとを目指す大国主の横顔は幸せそうだった。


 周りには目もくれずに颯爽と宙を歩いて、差し出された妻の手をとると、大国主の腕は妻の背中を抱き、青い光の中で、二人の姿は一つの影になる。


 狭霧は、口元を手のひらで押さえた。そうしていないと、叫び出してしまいそうだった。


「高比古、高比古……」


 手のひら越しにくぐもった声が漏れる。高比古の腕はいっそうきつく狭霧の身体を抱き寄せて、耳元で微笑んだ。


「喜ぼう。ほら、大国主は幸せそうだ」


 高比古の声も、苦しそうにかすれていた。


 そのうち、青い光の中で妻ばかりを見ていた大国主は、ふと下のほう――狭霧と高比古が乗る小舟を見下ろした。


 父は、母からなにかを囁かれているようだった。二人が交わす言葉は聞こえないが、須勢理がなにかをいったせいで、父は母の顔から目をそらして、海の上を見下ろした。


 高い場所に浮く大国主と、小舟に揺られる狭霧と高比古は遠く離れていて、互いの姿はろくに見えない。でも、そこにあるはずの本当の距離を忘れるほど、狭霧は、父と母がすぐ目の前に立っている気がした。


 大国主は、狭霧と高比古を見つめて唇を動かした。声は聞こえなかった。でも、大国主の意志のようなものが耳元で囁かれたと思った。


『二人で、おれと須勢理を永遠に繋げ。そして、出雲を――』


 高比古は狭霧の胴を支えたまま、姿勢を正した。


 それから、声に出して「はい」といった。


 高比古の声は、大国主の耳に届かなかっただろう。でも、はるか頭上に悠々と立つ大国主はうなずいて、須勢理の肩を抱き、海の方角に背を向けた。そして、それ以上振り返ることもなく、青い壁へ続く渡殿のように伸びる青い光の路を通って、光の奥へ姿を消した。



  ◆ ◇ ◆                  ◆ ◇ ◆




 大和の国の戦の君、三雷みかづちは豪傑だった。


 鎧を身にまとうと鉄山のようにも見える堂々とした巨体を誇る三雷は、気性も豪快で、誇りを傷つけられるような真似をされれば、すぐさま報復に向かうべきだと思っていた。


 だから、大和の陣営を訪れた出雲の使者が、夏至の晩におこなわれる神事のことを告げた時、顔を赤くして立腹した。


「大国主が生贄になり、大和をこの先千年のあいだ呪う祭りだと? そんなものを、使者をよこしてご覧あれとはふざけた真似を――!」


 邇々芸に直訴した三雷は、軍を引き連れて敵国へ向かう許しを得た。


 そして――西の国境の海上に船団をとどめて、夏至の晩を過ごすことにした。


 そこからひと晩のあいだに目にしたものは、どれもこれも、目を疑う光景ばかりだった。


 神事の場となった岬の上で夜空を燃やす巨大な松明のように燃え盛っているのが、武王の都を守る灯台だという報せがいきかうと、船団にいた大和の武人たちは目を白黒させた。


「あの、どこよりも高いと噂の杵築の灯台を燃やしているだと? 狂気の沙汰か――!」


「それだけではないのです。灯台の上、火の中には、大国主がいるとのこと……」


「まさか? あの火の中にか!?」


「それが、今晩の祭りなのだそうです。祭主は、次の武王になる事代ことしろだと――」


「事代? 出雲の術者のことか?」


「はい、事代主と呼ばれる方だと――」


 まさか。そんな血迷った話があるかと、大和の船団は騒然となった。


 そして、夜明け前。出雲の陸という陸を包み込んで山際から海へ注ぎ込んだ光の大河を目にすると、もう誰も喋る者はいなくなった。


 天変地異や創世語りを思わせる神々しい光景を固唾を飲んで見守り、朝が来て、ようやく終わったと息を吐くやいなや、次は、出雲の陸地を囲む青い光の壁がそびえたつ。


 ひと晩じゅう身じろぎもせずに出雲の大神事を見つめ続けた三雷は、ついに声を震わせた。


「俺にはわかる――。あれは、あれ以上先にいってはいけない神威の垣根だ。見えない牙が、こっちを向いて睨んでやがる――」


 ふしぎな光が薄れていき、海の水に鮮やかな青色が戻り、頭上をいきかう海鳥が鳴く。


 何事もなかったようなふだん通りの朝が訪れても、三雷は船の上で動こうとしなかった。


 そして、出雲の大地を海上から見つめて、いった。


「あの壁が、目の裏から離れていかない――。あれは、祟りの壁だった。出雲に敵意を抱く者を阻む、凶悪な死神の壁だ。……邇々芸様にお伝えしなければ」




 それ以来、邇々芸の船団が剣を構えて出雲に上陸することはなかった。


 女王の後を継いだ邇々芸が大和の王になり、次の王に代わり、やがて血筋が異なる王が生まれても、王朝が代わっても、出雲を守る祟りの壁のことは伝えられて、出雲の地を治める役は自国の民に委ねられた。


 さらに時が過ぎても出雲の神威は語り継がれて、出雲はさまざまなふしぎが起こる地と噂された。


 大河には八つの首をもつ大蛇がひそんで人を襲い、川の精は娘に化け、海をいけば雷光をまとう荒神に出くわすと――。


 そう、今に伝わる書に語られている。

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