青柴垣 (4)


 ずっと長いあいだ、泣き続けていた。


 身体はまるごとくろかねになったように重く、ぴくりとも動かなかった。


 高殿を包む火の勢いは一番強い時をとうに越えて、木材を燃やしつくして弱まっていた。炎は、武王のいる高殿を丸ごと飲み込もうと食らいつく巨大な化け物から、死骸をあさる姑息な獣の群れに代わったように見えて、柱を下のほうから小さな口でつついている。


 夜空のもとに浮かび上がる光景を眺めて改めて息を飲み、その瞬間、久しぶりに喉に風が通ったと思った。


(あ……)


 あたりは、少し静かになっていた。


 周りにはうずくまっている人が大勢いたし、狭霧のように立ったままの人もいた。夜通しおこなわれる大祭の終わりに似て、人は、泣いたり悲しんだり、興奮したり怖がったりするのに疲れていた。


 ちらちらと炎に飾られる高殿を呆然と見つめながら、耳のきわをすり抜けていく夜風の音を聞く。鼻は、潮の香りと、烈火に焼かれた焦げ臭い香りと、しがみつき合う安曇の香りを感じている。


 身体は、安曇の胴を抱きしめるものが本当に自分の腕なのかよくわからないほど、力が通わなかった。でも、袖から出た腕の肌は風の冷たさを感じている。風は冷たく、真冬のように肌をいたぶっていた。


(朝の風だ。もうすぐ夜明け? なんだろう、なにか来る、なんだろう……)


 一つの像になったように安曇と身体を支え合いながら、狭霧は、高台に火が点いてからはじめて瞳を動かして、視線の先を海の方角に移した。長いあいだ高殿ばかりを見つめていたせいで、目の玉を動かすのは、さびついた剣を鞘から抜くようで余計な力が要った。


 どうにか瞳を動かして海の方角を見つめると、天は闇の色が薄まって、はるか彼方まで澄み切っていた。細い白雲がたなびき、天空には宝玉をちりばめたような華やかな星空が広がっていた。


 明るくなった天と星明かりに彩られて、海の水面には、波模様が輝く筋になっている。


 さざ、ざざ……と、潮騒は安穏と響いている。


 ごう――と、天空を流れる風の音が、重く静かに伝わってくる。


 目や耳は、朝の到来を感じていた。でも――。


 狭霧は、目をしばたかせた。それだけではない、別のものも感じたからだ。


(なにかへん――。なんだろう。海? 星? 空? 風? それとも炎――) 

 理由を探そうと、もう一度感覚を研ぎ澄ませる。


 でも、暗く沈んだ海にも、星空にも、白雲をひきつれて流れる上空の風にも、黒くなった柱に赤い舌を這わせてくすぶる炎にも、奇妙な感じのもとはなかった。


 「なにか来る、なにか――」という胸騒ぎだけはおさまらず、かえって募る一方。狭霧は、安曇を見上げた。


「ねえ、安曇、気持ち悪い――」


 安曇の身体は、かまどで焼かれてかちこちに固まった土の器のように動かなかった。名を呼ばれると、安曇もさっき狭霧がしたように不器用に瞳を動かす。


 そして、声を出す前に、にわかに息を吹き返したようなぎこちない息継ぎをした。


「――気分が悪い?」


 狭霧は首を横に振った。


「違うの。なにかが来るの。なんだろう、なにかが――」


「なにか? ……どっちから?」


「海……の方角の気がするんだけど、ううん、わからない――」


「海?」


 安曇の腕は、守るべきものを包むように柔らかな丸みを得て、なおさら狭霧の身体をそばに寄せる。いわれるままに星の光が降るあかときの海へ目を向けるものの、安曇は「わからない」と顎を揺らした。


「どんなもの? 敵の船団が来ているとか……殺気のようなもの? それとも呪術のようなもの? 高比古がするような――」


 ちらりと眼下に視線を落とし、安曇は暗い海の上を気にした。


 岬を形作る崖の下には、ふもとの岩場から漕ぎ出した舟が神事が始まった頃とほとんど変わらない場所にぷかりと浮いている。


 そこにいるのは高比古だ。


 夜の闇が薄れたせいで、高比古の姿はきらきらとした星の輝きを溜める波の上に浮かび上がり、岬の上から覗いても姿が見えた。


「ううん、わからない――」


 狭霧は首を傾げようとした。でも――。


 突然の突風に吹かれた気がして、身を守ろうと思わず背中を丸めた。


「うっ」


「狭霧、どうした」


「強い風が――」


 安曇を見上げて、狭霧は目を丸くする。狭霧を見下ろす安曇の前髪は潮の香りを乗せた風に揺られるだけで、ほとんど動かなかったからだ。狭霧が身を庇うほどの突風が吹いたなら、煽られているはずなのに。


「あれ――?」


 よくよく気にすれば、自分の髪もなびいていなかった。衣も腰に結わえた帯も、岬の上に生い茂る木々の葉や、草花もだ。海風に揺れて葉はさやさやとざわめいていたが、急の嵐に襲われたふうではなかった。


 でも、狭霧はまだその風を感じていたし、いつまた強烈な風の波が来るかもしれないと身構えずにはいられなかった。


「でも、風が吹いてるよ、海のほうから――あ!」


 もう一度たしかめようと、海の方角に目を向けた瞬間。身体の中身ごともっていかれそうな重い突風を感じた。しかも、次は海からではなく陸から。ふしぎな風の吹く方角が、一瞬にして逆向きに変わったと、そう思った。


 ふしぎな風は、やはり髪を揺らさなかった。でも、重い風が肌を撫でていくのはわかったし、風が通りすぎるたびに胃の腑が飛び出しそうで、気分が悪くなった。


「なにこれ、引き潮みたいな――」


 高波が浜に押し寄せる前には、いったん波が沖に連れていかれて、浜が遠くまで干上がることがある。はじめに狭霧が感じたものがその引き潮であったなら、流れの向きが代わったのは、いずれ、その向きに吹く強烈な風がここにやってくるということだ。


 奇妙な悪寒を感じて、咄嗟に周囲を見渡して叫んだ。


「みんな、地面に伏せて! 強い風が来る!」


 その頃には、安曇はこめかみを押さえて少しうつむいていた。


「頭が痛い――。これも狭霧がいっている風のせいなのかい?」


「たぶんそう。みんな伏せて! なにかがこっちに吹き寄せてくるの!」


 狭霧が二度目に叫んだ時、広場に集った人々は安曇と同じように頭を抱えたり、腹を庇ったりしていた。


「風……?」


 そんなものが理由で――と、揃って首を傾げるものの、頭やら胸やら腹やらにそれぞれ異を感じているのか、いわれるままに人々は膝を地面につけて、草の隙間に埋もれるまで顔を下げはじめた。


 風に煽られているわけではないのに葉がこすれ合い、葉擦れの音が響き始めた。


 森の木々は、幹や根までがゆさゆさと揺れていた。森全体が音を立て始めて、ざ、ざざさ、しゃあああ――。命の終わりと始まりを願って夏の日にけたたましく鳴く蝉の大合唱に似た葉の音が、夜空の下に響いた。


 葉の音が大きくなっていくにつれて、広場には人の声が増えていく。


「頭が、痛い……」


「指先が痺れる――いったいなにが起きているんだ」


 人々が訴える部分はさまざまだった。


 狭霧の場合は胃の腑で、気を抜けば身体の中心が外に押し出されてしまいそうで、地面にへばりつきながらこみ上げる吐き気に耐えた。


 後方――内陸の方角から、恐ろしく大きな波が近づいてる気がした。


 それを感じ取って、狭霧は悲鳴で周りに報せた。


「みんな、伏せてる? もっと大きいのが来るよ! ものすごく大きいから、逃げても無駄。伏せて! なにかにしがみついて! 森の木々に抱きついて!」


 まだ叫び終えないうちから、ひゅん――きらりと光るなにかが、狭霧の頬の横をすり抜けていった。砂粒のような大きさで、星のかけらかと見まがうほど、きらきらと輝いている。


 動きはとても速くて、あっ、光が――と目で追うと、すでにそれは海へ向かって崖を下りている。呆気にとられて光が通った道筋を目で追う頃には、光は風に乗ってはるか下の海面にいた。


「安曇……なにかが光ったよ? 今のなに?」


 茫然として、暗い海へと舞い下りる小さな光の粒を目で追う。でも、すぐに目を逸らす。ひゅん、ひゅん! 冬の時期に降るあられのように、たくさんの光の粒が後方から飛んできた。


「きゃ!」


 悲鳴をあげたのは、狭霧だけではなかった。


 地面にうずくまる人々は、さらに丸まって頭を庇っている。安曇の手のひらが狭霧の頭を隠すように広がって、自分の胸元に囲い込んだ。


「なんだ、これは……あ!」


 安曇の声は、そこで立ち消えになる。狭霧の頭を囲ったまま、自分も地面に顔を押し付けた。


 次に押し寄せた光の粒の数は、生易しいものではなかった。戦場で兵に襲いかかる矢の雨を凌ぐほどで、氾濫した川の大水や海の高波のように、次から次へと光は後ろから押し寄せて、悲鳴を上げる人々の頭上を通り抜けていく。途方もない数の光の粒が、水一滴一滴が集まって大河をなすようにひゅうひゅうと音を立てていた。


「なに、これ――!」


 狭霧は叫んだ。


 広大な光の河に身体が丸ごと翻弄されて、洗われていくようだ。そして――光の河が流れていく先をたしかめると、目をしばたかせた。


 光の河がまっしぐらに進んでいくのは、いまだ暗い海の上。岬の崖の陰になった波に浮かぶ小さな舟の上だ。


 思わず安曇の腕の中を脱け出して、崖際で膝を立てた。


「この光、高比古のところへいくんだ……」


「狭霧?」


 狭霧を匿おうと、すぐに安曇も起き上がって狭霧の背後にうずくまる。


 安曇も狭霧が見つめるほうを向いたが、光景を目にするなり唇をあけてほかんとして、しばらく声を出さなかった。


「これは……」


 暗い海の上には、光の渦が巻いていた。


 光の河は途切れることなく山の方角から押し寄せてくる。ととと――という軽い地響きを響かせながら、おそらく出雲の奥深く、狭霧が高比古と旅をした山際の果てからずっと続いているのだ。


 なにかに気づいた気がして、狭霧は少し顔を上げた。遠くを見て、声を失った。光の河は、杵築だけでなくはるか彼方までを覆っていたからだ。


 よく晴れた日の昼間ですら、杵築から、遠く離れた意宇の都を眺めることは難しい。でも、いまは、大河を為す光が出雲の海を囲む岸辺に沿って入り組んだ地形をありありと浮き上がらせている。杵築と意宇のあいだに横たわる宍道の湖の形を示し、その向こう側に異国まで続く海岸を星の色の光で照らしていた。


「なに、これ……」


 出雲の大地がすべて、光の河で覆われていた。途方もなく大きな光の河だ。河を為しているのは、星のかけらを思わせる砂粒ほどの細かな輝き。いったいどれほどの粒がこの河をつくり上げているのか――。


 大地から染みだした光の粒は、出雲の山際を源流として、出雲の東西を川幅とした大河となり、海へ――いや、暗い波の上で待つ高比古のもとへ滔々と流れていた。


 高比古の手元で渦を巻いた光は、そこから雲を生んでふわりと浮き、小さな炎がくすぶる岬の高殿まで舞い上がる。そして――。


 光の雲の行方を見つめるうちに、狭霧は眉をひそめた。


「消えた……?」


 高比古の手元から舞い上がった光の雲は高殿に触れると輝きを失っていき、天に広がる星空に溶けてしまう。


 安曇が、素早い仕草で身を乗り出した。


「穴持様は?」


 光の大河の終着地は、大国主が籠った高殿。


 安曇は身体の中身をすべて出しきるような息をして草に膝をつき、力なく背中を丸めた。


「なにかが起きたんだ。高比古は、大神事をおこなったんだ――」


 目の前の光景を見れば、それは疑いようがなかった。


 それは、大神事をおこなうための人柱として捧げられた大国主の身にも、なにかが起きたということだ。


 岬の先端にぽつりと建つ高殿は、いまや黒焦げになっている。燃え尽きた無残な柱を光の雲が撫でていく様子は、大国主の消息を不安にさせた。


 狭霧は、安曇の腕を掴み返した。


「大丈夫、安曇。とうさまは生きているわ。出雲の死神だもの。それに、高殿を焼いた炎と違って、この光は……なんていうか、とても優しいもの」


 はじめこそ得体の知れないものの到来に驚いたり、身体が馴染めずにいたりしたが、狭霧の身体に起きた異変はすでにおさまっていたし、軽い地響きに似た大河の流音ももう気にならなかった。


 それに、よくよく見つめると、光の粒の一つ一つには、にこやかに笑っている気配があった。


 星の光に似たまたたきは、人でいえば笑い声に似ている。まるで、童が無邪気に走り回っているような――。


「精霊だ――これ、精霊なんだ……。高比古に呼ばれて出雲中の精霊が大地から浮かび上がって、集まっているんだ――」


「精霊?」


 反芻した安曇の声は、ぼんやりとしていた。


 しだいに、背後からやってくる光の大河は色を失っていく。水の河であれば水かさが減っていくように、河を為す光の粒が減っていって、輝きは少しずつ薄れていった。


 やがて、光の河の尻尾が狭霧のもとを通り過ぎ、崖を下って、高比古の手元で渦を巻いて雲になり――高台に触れながら夜空にまぎれると、あたりは静かになった。


 しん――と静まり返った夜は、急に耳が聞こえなくなったように音や響きに乏しくて、寂しかった。


 誰かが、東の方角を指した。


「朝だ……」


 いつのまにか東の空は白んでいて、山際には高台を燃やした巨大な炎が再び目覚めたかのように、強大な火の玉が顔を出していた。


 山の端から地表を射す光はまばゆいばかりで、大地にあるすべてを光の色に染めてしまう。


 神事が、終わったのか――。


 狭霧は、入江に浮かぶ高比古の舟にうつろな目を向けた。すると――。


 高比古は、小さな舟の真ん中に立っていた。


 夜通しそのままだったのか、高比古は一人で舟の上にいて、ふしぎなことに、その舟には漕ぎ手がいなかった。


「波に揺られているのに……あの舟、動いていない――」


 小舟は波に乗って左右に揺れていたが、視えない糸で縫いつけられたように、その場からほとんど動かなかった。そのうえ、高比古は、舟の揺れなどものともせずに平然と立っている。朝日の方角を向いて、両手を広げて――。


 真っ白な出雲服が、首から足元まですべて陽の色に染まっている。太陽と同じ色の衣を身にまとって朝日と向き合う高比古は、太陽と会話をしているように見えた。


「巫王だ……偉大な巫王様だ――」


「光の大河だけでなく、見ろ、波と舟まで思い通りに操って――あの方は、巫王様だ……」


 ぽつり、ぽつりと声があがった。


 一人で陽光に向かう高比古の立ち姿を見つめて、狭霧も息を飲んだ。


 その姿はたしかに崇高で、神秘的で、背後で人々が口にしたのと同じ言葉が、狭霧の頭にもよぎった。


 大勢の視線の中、たった一人で舟の上にいた高比古は、目を閉じて天頂を見上げた。すると――。星空に消えたと思った光が、再び輝きを取り戻し始めた。


 大河の光は、消えたわけではなかった。


 光は出雲の海を囲む岸という岸に染みていて、出雲の大地の形を光の色で克明に浮かび上がらせながら、朝日の呼びかけにこたえるようにきらきらと輝き始めた。


 岸に宿った光は、夜が明けたばかりの天空の色――澄みきった青色をしていた。光はそのまま柱を為して高殿の高さまで伸びあがり、出雲の海を囲んで立ちそびえる。きらきらと輝く光の壁は、壮麗な陽炎かげろうに見えた。それはまるで、巨大な青い薦が天から垂れて、風になびいているようだった。


 安曇が、震え声でつぶやいた。


「薦だ。海の上に、出雲を守る青い薦が……。出雲の土地神に姿形はなく、青い空が神――。これか……これなのか――これが神なら、穴持様は……この青になってしまわれたのか――」


「え?」


 狭霧は安曇の顔を覗きこもうとしたが、できなくなった。視界の端で、なにかが動いたからだ。入江の暗い海に浮かぶ小舟の上で動いたのは、そこに立っていた高比古。朝日に向かって両手を広げていた高比古は、青い薦が出雲の岸辺を覆ってしまうと、手を引っ込めて小さくなり、うずくまった。そのうえ――。


 狭霧は、崖から落ちそうになるほど身を乗り出した。


「高比古?」


 それまで舟を操っていた力までもが消えたようで、たちまち小舟は波に乗り、ぐらぐらと大きく傾いた。


「高比古、海に落ちる……!」


 つま先で思い切り土を蹴って、駆け出した。


 広場でうずくまる人々の隙間をできる限りの歩幅で飛び越えながら、来た道を戻った。


 鳥の声が満ちる森を抜けて、焦げ臭い匂いに包まれた高殿の前に辿りつき、昨日の晩に高比古の姿を見送った崖際の道にいきつくと、無我夢中でそこを下りる。


 ごつごつした岩に覆われた道は狭く、傾きが急だった。


 転げ落ちるようにして進み、岩場の磯に降り立つ。そこには禰宜や巫女、そして警護の武人が数人いて、崖の道を降りていく狭霧を見つけると揃って大口を開けた。


「姫様……まだ神事の最中で――」


「うそよ。終わったわ。高比古が倒れたもの!」


「高比古様が?」


「舟の上でうずくまって、倒れたもの! お願い、舟を出して。高比古のところに連れていって!」


「しかし――」


 禰宜や武人は渋ったが、その時、磯から海上を見つめる巫女たちの列から悲鳴があがる。


「高比古様の舟が――! 高比古様が、落水――!」


 狭霧は絶叫した。


「早く舟を出して! 今頃、絶対に泣いているから!」 


 その時、狭霧の頭の中には、高比古の叫び声や泣き声がわんわんと響いていた。


 それに追い立てられて、有無をいわせずに舟を出させると、朝焼けに染まる海へ向かって漕ぎいでた。


 波の上をしばらく進むと、高比古の舟が見えてくる。しかし、舟はひっくり返っていて、乗っている人はいない。


 朝の光を跳ね返してぎらぎらと輝く海の波間を、夢中で見回した。


「高比古、どこ!」


 海上には、高比古が乗った舟にひと晩じゅう付き添っていた舟が二艘いた。その上から禰宜と巫女が身を乗り出して、高比古の姿を探している。


「どこへおいきになった。お行方は――?」


 禰宜たちも、海に落ちた高比古の姿をまだ見つけられていなかった。


 こめかみから、血の気が引いていった。焦りにとり憑かれて、狭霧は大声で名を呼び続けた。


「波に浚われたの? 高比古! どこ、返事して!」


 朝の光はなにもかもを塗りつぶして、波という波をぎらぎらとした金色に代える。そこに落ちた人も、狭霧たちを運ぶ小舟も、漕ぎ手が手にする櫂も、なにもかも――。


 ほんの少し波の影になれば濃い陰影ができて、誰かの身体の一部を思わせる。そうかと思えば、目と鼻の先にある舟影すら波や風と同じ金色に染めてしまって、あるはずの影があたかも無いように見える。


 光に覆われた朝の海で、誰かの姿を探すのは難しかった。


 でも、狭霧の胸には、まだ高比古の喚き声や叫び声が届いていた。その声は、そう離れた場所には遠ざかっていなかった。


「こっち? ねえ、わたしだよ? 返事して!」


 高比古の声や気配は感じているが、高比古が狭霧を探そうとする気配はなかった。


 ひなが卵に閉じこもるようで、殻の向こう側に広い世界があることを忘れたようだった。


 狭霧は、懸命に高比古の気配を探して方向の目星をつけた。熱心に目を凝らしているうちに、少し離れた波の上に暗い影ができたのを、目がとらえた。それが高比古の頭の先だったのか、肩の端だったのか、身体のどの部分かはわからなかったが、高比古だと思った。それで狭霧には十分だった。


 小舟の上から、海に飛び込んだ。


 ばしゃん、と水しぶきが上がって水に潜ると、水音以外が遠くなる。


 後ろのほうから悲鳴が上がったが、ごごご……という波の音と水しぶきが弾ける音以外が遠くなって、なにをいっているかは狭霧の耳にろくに聞こえない。


 後方に気を配る余裕もなく、朝日の色をした波を懸命に掻いて、高比古のもとを目指した。


 岸へ向かってうねる海の水はとても重く、思うように進むのが難しかった。


 それに、狭霧を気にかけようとしない高比古は、とても遠かった。


 でも、しだいに狭霧の胸には悲痛な叫び声が届くようになった。



 おれは、なんのために出雲に来たんだ。


 父親となった男を殺すためか?


 助けてくれ――おれは、誰か大事な人を滅ぼすしかできない。魔物だ――。



 神事の前に別れるまで、高比古は平然として見えた。


 「大国主を犠牲にするのに――」と周りの人が胡散臭がるほどで、悲しむようなそぶりはわずかたりとも見せなかったし、神事がいやだとも一言もいわなかった。


 でも、高比古が誰より大国主を人柱にするのをいやがっていたのを、狭霧は知っていた。


 だから、高殿が炎に包まれて崩れていくあいだ、彼の分まで泣いて、悲しんで、無事を願うことができない高比古のために、武王の生還を信じ続けた。


 胸に響いてくる叫び声に、狭霧は叫び声で応えた。


「違う、高比古、違う――!」


 水を吸って重くなった腕を動かして水を掻いて、波を越えて――狭霧は、波に漂う高比古の影を見つけた。高比古はぼんやりとしていて、浮いたり泳いだりするなど考えもつかないというふうに波に身を任せている。鼻や口が水に浸かっても、苦しいはずなのにもがこうともしなかった。



 終わる――。


 これで、終わるよ――。



 諦めの言葉が聞こえた気がした。それを声で吹き散らすように、狭霧は叫んだ。


「馬鹿なことを考えるのはやめて! 高比古!」


 海の水に冷やされた狭霧の手が、高比古の腕に触れた。ぼごっと何度も水を吐きながら、狭霧は高比古の顔を水面に上げようと力を込めた。


「泳いで、浮かんで、高比古!」


 衣を一枚も脱がずに水に入ったことを、いまさら悔んだ。自分の身体を浮かせるだけでも大変なのに、まるで力の入っていない青年の身体を、頭が上に来るように傾けるのは至難の技だった。


 でも、ある時、高比古ははっと目を開けた。そばに狭霧がいることに驚いて目をしばたかせたが、状況を理解したのか、それともどうでもいいと思ったのか、目を逸らして喚いた。


「おれは、おれは――。大国主を……助けてくれ――」


 高比古はなにかをいおうとしたが、口を開けるたびにごぼっと水を飲む。狭霧は、声でひっぱたくように一喝した。


「それなら、さっきとっくに聞いたからいわなくていいわ! わかったから! それに、それはちがう! あなたは、ここでとうさまからすべてを受け取るために出雲にいるの! 実の娘のわたしじゃ、役立たずでできなかったから――!」


 狭霧が叫ぶと、高比古はぽかんと唇をあける。


 波の下でばたばたと足を動かして浮かび上がりながら、狭霧は、高比古の顔を真正面に見ていった。


「あなたのことが、好きです」


 それは、いま、どうしてもいいたくなった言葉だった。


 ますます目を丸くする高比古にしがみついて、狭霧は涙声でいった。


「死神でも、武王でも、ただの子供でも、あなたが好きです――。とうさまとかあさまを継いでくれた、あなたがいとしい。とうさまのすべてを継いであげて、お願い――」

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