番外、木花咲夜 (2)
木窓の隙間から細く射し込む陽光。聖なる庭を吹きゆく風の音は静かで、重みがあった。
しんと涼しい空気が、薄暗い庵に満ちた。
息を飲んで黙る桐瑚を前に、岩長姫はゆっくり目を伏せた。
「隼人の大巫女は、死を視るのを知っていますか」
「死を? ――いいえ」
「では、隼人の神は、夜と闇を司るのを知っていますね?」
「はい、習いました」
「よろしい。隼人の神は闇を司り、闇とはすなわち死、そして、この世のすべては死から始まるとされています。とくに、隼人の大巫女は死の色に敏く、人を見ればその人がどのように死んでいくかが視えて、その死に方によって
幼女を思わせる丸い目が、じっと桐瑚を見つめる。どこかへつながる暗い穴のような黒の瞳が自分を見ていると思うと、桐瑚は身動きができなくなった。
「わたしが、大和で死ぬ――」
「ええ。この先、大和の力は大きくなっていき、日向や大隅をはじめ、大和と関わりのある隼人の民はこぞって姫を妃に差し出します。阿多も、隼人の大巫女を友邦の証として大和に差し出すのです」
「隼人の大巫女を――」
「阿多のほかの隼人の民の不満を逸らすため、という意向もあるのでしょう。それは、
沈黙を噛むようにしばらく黙ってから、岩長姫は再び唇をひらいた。
「あなたの先視をしてから、なぜあなたが大巫女になるのかと考えました。きっとそれは、あなたが異国の民だからでしょう。阿多の王族は、あなたを異端の大巫女として、存在を軽んじるのかもしれません。ですから、私は阿多を憎めといったのです」
「――」
「今日、ここへあなたを呼んだのは、話をするためです。占は力があります。たいていその通りになりますが、必ずではありません。あなたが、自分が異国の民であることに遠慮しているように、私もまた、異国の民であるそなたに阿多の命運を託すのを心苦しく思っているのです。――今なら間に合います。ここから逃げるなら、私はあなたを助けます。――逃げますか」
桐瑚は唇を噛んだ。
「少し考えさせてください。そのように大きなことを、この場で決められません」
岩長姫は眉根を寄せて寂しげに微笑んだ。
「ええ。考えがまとまったら、いつでもおいでなさい」
岩長姫の庵を後にして、神の野をゆらゆらと横切る間、桐瑚はずっと唇を噛んでいた。
(わたしが大和へ? ううん、それより、わたしが岩長姫様を継ぐ――)
奇妙で仕方がなかった。
生まれ故郷の倭奴では、国中すべての神殿を司る大巫女になる娘は、王に近しい血筋の娘と決まっていたし、神殿に仕える巫女になるのですら、聖なる血筋と乙女の純潔が必要だった。
隼人ではそういう考え方がなく、異国の民の桐瑚でも神殿に仕える巫女になることができた。それは阿多に来てからの三年の間に理解して、感謝していたが、まさか、大巫女になるなど――。しかも、それは決して幸せな話ではなかった。
岩長姫の言葉を読み解くと、それは――。
(つまり、わたしは大巫女になるものの、もともとは異国の娘だから、守る必要がないと決められて、大和へ嫁ぐというか、むしろ、
「阿多を憎め」「阿多の命運を託すのが心苦しい」と繰り返した大巫女の物憂げな表情は、何度も目の裏に蘇った。
(大巫女様は、わたしを哀れんでいた――)
童女を思わせる風に正直な岩長姫の想いは、桐瑚に伝わっていた。でも――やる瀬なくて、桐瑚は
(いずれ大和へ向かう供物になるために大巫女になるか、だなんて――決められない。ここから逃げる? 逃げてどうするのよ。いくところなんかないのに――)
足を止めて、青空を見上げた。左右を森に囲まれた聖なる庭の空は、緑に囲まれている。そのぽっかりと空いた隙間に、重い風が、西へ、東へと飛んでいく。重い風はなんとなく桐瑚を見下ろしているようで、それどころか、見下ろして、見世物をみるように愉快がっている気がした。
くすくす
いったいどうするの?
うふふふっ
そういう笑い声まで聞いた気がした。
(笑いごとじゃないわよ)
肩を落として、桐瑚は懐かしい青年の顔を思い浮かべた。
(高比古、どうしよう。わたし、どうすればいい?)
その青年は、阿多からとても離れた異国の地にいる。遠く離れた場所にいる懐かしい人に声をかけようとするものの、今に限って、その人の表情を思い浮かべることはできなかった。
(駄目だ。思い出は、今は効かないみたい)
ため息をついて首を横に振ると、止めていた足を動かす。桐瑚は、神の野を出ることにした。
その晩のことだった。
桐瑚は、悲鳴をあげそうになった。でも、身体が動かない。
(これは夢だ。わたし、夢を視てる)
たしか寝床に入って眠りについて、まぶたを閉じているはずだった。でも、起きているように意識が戻っていた。それなのに、指先にもまぶたにも力が入らず、指先をぴくりと動かすことも、まぶたを開けることもできない。
「動いて、ねえ――」と自分の身体に文句をいっても、手ごたえのないものを押すか、空振りを続けているようで、思い通りにならない。
それどころか、桐瑚は閉じたはずの目の裏に、広い世界を視た。広大な野。青々とした海原。阿多の飾り船。まっすぐに連なる海沿いの街道。そこをいく人の群れ。行列――。
(これは、なに)
初めての感覚だった。
身体がするりと浮きあがっていって、縦横無尽に空を飛んでいる浮遊感。桐瑚は一人だけでなく、二人、三人、四人と増えていき、ついには空全体を覆った。空そのものになったように、桐瑚は大地を見下ろしていた。
大地には、蛇のように長い行列が見えていた。身なりには見覚えがある。阿多隼人の紋の入った肩布で上半身を覆っていて、しかも、身なりは極上。王族か、それに仕える位ある人もいた。その人たちは、赤い隼人布で覆われた神輿を囲んでいる。その御輿に乗っていたのは、紛れもない自分の姿だった。
(わたし……ということは、この夢は――)
桐瑚は、風になっていた。
はるか上空から鳥になったように真下を俯瞰していたと思えば、次に視た景色は、地面にとても近い場所のもの。
美しい野の中央に広がる、大きな宮殿があった。建物は阿多隼人のように極彩色に塗られてはおらず、宗像の宮殿のように小さなものでもない。どちらかといえば倭奴の宮殿に形は似ていたが、それよりずっと大きかった。
ゆるやかに蛇行する美しい川があって、王宮は川を敷地の中に引き込み、また、川に寄りそうように造営されている。川の流れに乗って流れる風になって、桐瑚は王宮の中を吹きそよいでいた。そして、また自分の姿を視た。
さっき行列と一緒に街道を進んでいた赤の神輿は、王宮で一番大きな宮の前庭にたどりついていた。そこで桐瑚が視た桐瑚の姿は、御輿を下りて土を踏んでいる。その先には、背の高い青年がいた。
その青年は、長い黒髪を大和風の
顔立ちも麗しく、すっと横に伸びた眉や、憂いを帯びて見える優しげな二重の目や、白い頬と、華やかな桃色の唇や、細い顎や。青年の表情は優しかった。
なんとなく桐瑚は、敵だと思った。
(この人はきっと大和の若王だ。名は、たしか邇々芸。高比古が争っている相手だ)
出雲が大和と敵対しているという話は、高比古という人が関わる出雲の話だと思うと、聞こえてくるたびにこれまで何度も耳をそばだてので、邇々芸という若王のことを、桐瑚は知っていた。
ふっと風景が切り替わり、光景が、それからしばらく経った後のものに変わった。
桐瑚と邇々芸は、正面で向き合ってどこか館の中に坐している。
邇々芸は微笑していたが、目は怖かった。
「そなたを牢屋に囲うといっているのに、異を唱えないのか?」
邇々芸の真正面で正座をする夢の中の桐瑚は、凛とした笑みを浮かべていた。
「異を唱える? なぜです。捕らえられるのは、阿多を出る前よりわかっていたことです」
「僕を憎まないのか」
「憎むに決まっているではありませんか。わたくしは、阿多が嫌いです。阿多は、わたくしを大和の手を逃れる人柱にしただけ。あなたのことも嫌いです。大和も嫌いです。ですから、わたくしを捕らえて、刑に処すとよいのです。この先に残されているわたくしの時間をすべて捧げて、わたくしは大和を呪います」
もともと桐瑚は、その若王のことが嫌いだった。桐瑚の国を捨てた一族の青年だからだ。
(この人は、倭奴を見捨てた女王の御子だ。女王が倭奴から富を奪っていくような真似をしなければ、わたしは倭奴の巫女として生きられた。奴婢として宗像に渡ることもなく、あの人に出会うこともなく、阿多の大巫女として大和にくることもなかった)
笑顔で責め文句をいう桐瑚へ、邇々芸は苦笑した。
「大和を呪う、か。同じような言葉を聞いた気がする。――出雲だ。そなたは、出雲の武王のようなことをいうのだな」
「それはそうです。私は、あなたではなく出雲の武王――大地の男神に嫁ぎたかった女です」
にこりと笑って、邇々芸と対峙する未来の桐瑚はいってのけた。
顔色を変えていく邇々芸へ、桐瑚も薄暗い笑みを浮かべてさらにいった。
「ご存じでしょうか。阿多や日向、大隅にむかしからあった国津神は、死の国の母なのです。母の愛は深く、広く、遠い出雲の地まで地続きにつながっている。死の母神の愛を、わたくしたちは存分に受けながら生きている。――大和は、そうではありませんが」
「出雲の神と、阿多の神が同じといいたいのか」
「倭奴の神も同じです。邇々芸様」
「倭奴? 皮肉のつもりか? ――耳障りだ。そなたを、刑に処す。姦通の罪だ。僕ではなく別の神、別の男に嫁ぎたかったなど、よく僕の目の前でいえたものだ」
「なにをおっしゃいます。なにがなんでも刑に処すおつもりだったでしょうに。わたくしはここに来ればあなたに殺されると、阿多を出る前から知っておりました」
ふっと場面が切り替わり、桐瑚は、広い場所に一人立っていた。
そこは刑場で、地面に突き立てられた丸太の棒があり、そこに桐瑚は縄でくくられていた。周りには火を燃すために重ねられた薪が並んでいる。桐瑚は火刑に処されることになった。
前に、邇々芸が立っていた。冷たい目をして、桐瑚を見つめていた。
「哀れな姿だな。そなたが絶世の美女で、僕に嫁いだくせに不貞をはたらいた不実な女だと、書にしたためて千年に渡って伝えてやろうぞ」
「その書にはどうぞ、みずから裁きを受ける潔い女と付け加えてくださいな」
それが、邇々芸と桐瑚が交わした最後の言葉だった。
ふんと冷笑すると、邇々芸は桐瑚のそばを離れて部下に合図を送る。すぐに、火のついた松明をもった男たちが薪に駆けよって、火種を移し始める。
しだいに燃え上がっていく炎の中で、桐瑚は最後まで阿多の大巫女として祈り続けた。
「この地であなたに殺されるのであれば、この身を賭けて、あなたと大和を呪いましょう。阿多に幸あれ。大八島に残るすべての土着の民に救いを。力を。たとえ大和の人が、思いあがって大地の神を屠ろうとしようとも、決して敗れることなかれ。大地よ、とこしえに生き続けよ」
「あ――」
がばりと布団を跳ねのけて起きあがった時、桐瑚は身体中に汗をかいていた。ひどく冷えていて、おもわず自分で自分を抱き、暖をとる。
(夢――ううん、違う。先視だ。わたしは、自分の死を視たんだ)
覚えているのは、自分を取り囲む炎だった。
あかあかと揺れる炎の壁は厚くて、大きくて、熱くて、とてもその向こうへ逃げられなかった。胴は縄で丸太にくくられていたし、身動きもままならなかった。いや、夢の中で見た自分は、逃げようとは思っていなかった。逃げるどころか――。
腕を浮かせて、桐瑚は指先で唇に触れた。
(幸せだった。誇りに包まれて、力がみなぎって――)
夜の暗闇の中で、茫然とした。自分が死んでいく姿を視て、こんなにも満足している自分が不思議だった。
(わたしは大和に渡って、姦通の罪という名目で殺されるのか。姦通って、出雲の神と――高比古と? 光栄だ)
唇の端が、あがっていく。
おまえは高比古の恋人なんだからと、火悉海から世話をされた時のことが思い浮かんだ。
『おまえは、高比古のいい女なんだろ』
(なんだ、あの時と逆なだけだ。前は高比古と関わったおかげでいい想いをしたけれど、今度はいやな想いをするだけだ。大和の王に嫁いだ女が、むかし出雲の武王となにかあれば、それは罪だろう。刑に処されて当然、その通りだ)
それが彼とのことを認めてもらった末に起きる思うと、幸せだった。
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