狼の王 (1)



 遠賀おんがに着いて、五日目。出雲軍に、この地を離れる気配はなかった。


 遠賀の港は、船を使って海の道を行き来する商国や、海民の中継地の一つ。ここには、もともとこの地に住む土着の漁民が暮らしているが、この港を頻繁に訪れるこし隼人はやとなど、異国の民も数多く住みついているのだとか。


 多くの異国の船を受け入れる港という土地柄か、遠賀に住んでいる人には、気さくな人が多かった。


「出雲のみなさーん、長居するなら、力仕事を手伝ってくれませんかねぇ?」


 断るに断りきれない明るい調子で頼まれてしまうと、出雲の兵たちは、遠賀の人に混じって山に入ったり、田畑へ散ったり、川にかけられた橋を直したりと、手仕事に励むことになった。


 狭霧も、畑へ向かう。


 手足を泥だらけにして草取りをする狭霧に、遠賀の人々は興味津々だった。


 はじめは、出雲軍に少女が混じっていると騒がれただけだったが、やがて噂が広まると、遠賀の人々は目を丸くした。


「え? 本当に姫様? 出雲の、大国主の御子姫なんですかぁ!?」


「あぁ、そうだよ。出雲の姫君は働き者だろう?」


「こんなことで驚いちゃいけないぞ? この姫の母君は、一騎当千の猛者だったんだ。出雲の娘は強いんだぞ?」


 狭霧と一緒に手伝いに出かけた出雲の兵たちはそのように茶化したので、畑には和やかな笑い声が満ちた。


「出雲の姫様の手さばきを見ろよ。実に手慣れていらっしゃる。おい、遠賀の娘ども、姫様に負けるなよー?」


「本当に、あら、まあ!」


 談笑と、田歌の声に包まれて、時は安穏と流れた。


 夕前、畑仕事がひと段落すると、遠賀の人たちはまず狭霧のほうへやってきて、疲れをねぎらった。


「助かりましたよ。姫様のおかげで、今日はみんないつもの倍以上働いてましたよ。いったい今まで、どれだけ手を抜いていたんだかなぁ?」


 冗談をいって笑う農夫は、泥にまみれた狭霧の腕や足をちらちらと見て気にした。


「もう片付けはじめますから、姫様はどうぞ先に休んで、川の水場で汗を流してください。すみません、湯屋がなくて……」


「湯屋のお湯より、川の水のほうがきっと気持ちいいですよ」


 土で汚れた顔でにこりと笑うと、狭霧は、農夫の誘い文句に乗ることにした。


「では、お言葉に甘えて。お先に……」


 数日前なら、もっと何かをさせてくださいと頼んでいただろうに――。


 一通りの仕事が済んだと告げられた今、狭霧の心はすでに畑ではない場所へ向かっていた。それは、森の奥――邇々芸ににぎという名の青年がつくった、草園だ。


 そそくさと畑を後にすると、足早に道を駆け、林の入り口へ向かう。さらに奥に広がる、いにしえの森を目指して――。


 手仕事に加わらない高位の武人たちは、林のそばに立つ天幕で番をしていた。間の悪いことに、ちょうどそこには、箕淡みたみがいた。


「狭霧様、どこへ――?」


 見咎められてしまうと、狭霧の唇は嘘をついた。


「汗をかいたから、身体を洗ってくるね。人があまりいないところを探してきます」


「でも、あまり遠くまでは……安曇が……」


「わかってます。心配しないで。すぐに戻るから」


 嘘は、すんなりと唇から出ていった。


 こんなに自然に嘘をつけるなんて――。思っていた以上に、自分は嘘つきだった。それにも驚いたが、それよりも不思議に思うことがあった。


 そもそも、どうして嘘をついたんだろう? なぜ、嘘をつく必要があったんだろう?


 ……あの人が、誰にも内緒にしてくれっていったから?


(へんなの――。名も素性もわからないけれど、もっと話をしたいと思う人に森で出会ったと、そう告げれば済むのに。悪いことをしているわけじゃないのに――)


 胸は戸惑った。それでも、狭霧の足は、林の中の小道を駆けるのをやめられなかった。


 そして、目の前には、昨日もその前の日も通ったせいで、すでに見慣れた丸木の橋が現れる。


 橋を渡ると、足は、森の奥へと続く小道へ。そこを駆けて、涼草(すずくさ)の草園を目指した。


 夕暮れと同時に、巣を目指した鳥たちが森に戻っていたせいで、森の中はさまざまな鳥の鳴き声で満ちていた。風も吹いていて、分厚い屋根となった大樹の葉は、ざわざわと乾いた音を響かせる。


 狭霧の足が止まった場所――涼草が群れる素朴な草園のあたりには、緑の天蓋越しに降り注ぐ清らかな光が射していた。


 そして、そこには誰の影もなかった。


(会えるわけがないか……当然よ、どこの誰ともわからないのに)


 やはり、偶然はそう都合よく起きないのだ。


 涼草の前にしゃがみ込むと、狭霧は、そっとまぶたを閉じた。慎重に息を吸うと、ほかには類を見ない爽やかな香りが鼻孔に沁みる。


 何度か深く息を吸って香りを味わうと、膝に力を込めて立ちあがった。


(いい、これで十分。橋を渡って戻って、どこかの川辺でちゃんと水浴びをしないと。安曇や箕淡や、わたしを心配してくれる人に悪いもの)


 人の気配のない森の道を戻りながら、狭霧の胸は、なぜだかほっとしていた。


 ここ数日の間、狭霧は邇々芸という青年のことを気にしていて、時間が空くたびにこの場所を訪れていた。でも、こうして足しげく訪れるたびに、涼草の草園が静かで、誰の気配も感じられなくても、寂しいとは感じなかった。


 こんなふうに思って、自分で首を傾げてしまうくらいだ。


(わたし、あの人に会いたいわけじゃないのかな?)

 

 でも、ううん、と首を横に振る自分もいた。


 ……きっと、会いたいのよ。


 だって、次にあの人に会ったら尋ねてみたいもの。


 あなたは伊邪那いさなの人ですか? 輝矢かぐやっていう男の子を知っていますか――って。


 そうしたら、あの人はどう答えるだろう?


 「はい、知っています」。もしくは、「いいえ、知りません」――。


(わたし、いったい何がしたいんだろう……)


 はあ……と大きなため息をついた。


 いろいろなことが、よくわからなくなっていた。


 邇々芸に会いたいのか、そうでないのか。尋ねたいことを尋ねたとして、「はい」という返事が聞きたいのか、「いいえ」という返事が聞きたいのか――。


 今、自分が何をしようとしていて、何をしたいのかもよくわからなくて――。軽い眩暈が、ずっと続いている気分だった。





 水浴びをしてから野営へ戻ると、そこは、やけに騒がしくなっていた。


 野営地になった川と林に囲まれた野原の中央には、兵の人垣ができていた。兵たちは揃って真ん中の隙間を向いて、ざわざわと噂している。


 騒がしいとはいえ、そこにあるのは険悪な雰囲気ではない。


(さっきまでは、何もなかったのに――。遠賀のきれいな娘さんが来てくれたとか、珍しい動物が紛れこんだとか?)


 狭霧は、顔見知りの兵のそばに寄ってみることにした。


「どうしたの? 何かあった?」


「それが……」


 狭霧に気づいた武人は、人の輪の中央を指差した。


 そこで兵たちの視線を集めていたのは、若い娘でも森の生き物でもなく、背の高い青年の一行だった。五人いたが、五人とも戦装束を身にまとっている。そして、彼らが身にまとうそれは、出雲風ではなかった。


 五人の武人のうち、特に目を引く若者がいたが、その若者の姿は、ため息が出るほど雄々しかった。


 若者が身にまとう鎧は、頑丈な獣皮を鉄の糸で繋げたもので、獣皮も鉄も黒味を帯びていた。肩や腰の部分には樹皮の色をした毛皮が飾りとしてあしらわれて、帯も、毛皮を細く裂いて仕立て上げたもの。腰に提げる剣は、使い込まれた古めかしい印象があるが、鞘にほどこされた細工は、緻密で上等。太い首に下げた玉の御統みすまるも、足結いの紐飾りも手が込んでいて、紐飾りは茶と白の綾織になっている。


 

 その若者は、顔立ちも、黒の獣皮鎧を見事に着こなすほど勇ましい。意思の強さを表したような眉は濃く、目には、森で息づく獣を思わせる生き生きとした輝きがある。


 野性的な目つきといい、一文字に結ばれた唇といい、若者には、狼の王のような印象があった。そこにいる五人のうちで一番身分が高いのは彼だと、ひと目で周りに知らしめる、上に立つ者の風格すら、その若者は持ち合わせていた。


 若い兵たちの中には、その若者へ羨望の眼差しを送る者もいた。


「だ、誰ですか、あれ……。ものすごくかっこいい……」


「おまえ、知らないのか? 盛耶もれや王だよ、盛耶様だ」


 兵たちはこそこそと噂話をしていたが、その名は、狭霧に聞き覚えがなかった。


(盛耶王?)


 顔をよく見てみよう――と、青年の顔を覗きこもうとしたが、ちょうどその時、盛耶王と呼ばれた青年は、くるりと狭霧へ背を向けて顔をそむけた。そして、怒鳴り声をあげた。


「そうじゃない、俺は、親父殿と話しに来たんだ。諏訪すわできな臭い噂を聞いたと、そう告げにな!」


 よく見れば、盛耶という名の青年のそばには、今駆けこんできたばかりという様子の出雲の武人がいた。青年はその武人と問答をしていたが、横柄で、相手を威圧するようないい方をした。


「親父殿はどこだ? ここじゃないのか? さっさと案内しろ!」


「しかし、盛耶様――どうかお心をお鎮めください。あなたは今、ここにいるべきお方ではないと、きっと大国主はご機嫌を損ねられるでしょう。それは、あなたも御承知のはず……!」


「ああ、勝手をするなと怒鳴られるのは覚悟の上だ。出雲へ寄って母に会ったが、母ともとうに喧嘩別れをしてきた。俺は、一生に一度、親父殿に歯向かうために来たのだ!」


 ちょうどその時、青年のもとに走り寄った別の武人がいた。はじめから青年のそばにいた四人の武人は、おそらく彼の従者だ。そして、今、盛耶のもとに走り寄ったのも、彼の従者の一人らしい。どこかから戻ってきたその武人は、盛耶のそばへ戻ると、ひそひそと耳打ちした。


 それは、盛耶にとって満足のいく知らせだったらしい。彼は、聞くなりにやりと笑った。


「……わかった。なら、そこへ俺が出向く」


「しかし、盛耶様! お願いですから、お気を静めて……どうか穏便に!」


「穏便にことを済ませようと、ここまで来たのだ。いいから通せ。どけ!」


 盛耶は、外見の印象と同じく、気性も狼を思わせるふうに獣じみていた。


 人の輪の中で気後れすることなく声を荒げた盛耶は、彼を止めようと立ちはだかった武人の胸を乱暴に押しやり、道を空けさせた。


「どけ、比良鳥ひらとり。通せ」


 肩で風を切るように、盛耶は、比良鳥と呼ばれた武人のそばを通り抜ける。比良鳥は、盛耶と付かず離れずの距離を保って、その後を追った。


「どうか、盛耶様、穏便に! 父王のご気性はあなたもご存じでしょう? どうか……!」


「馬鹿にしているのか! 俺を誰だと思ってるんだ? 何が、父の気性だ。父と子の関わりに、おまえごときが口を出すな!」


 人目もはばからずに比良鳥という武人を罵倒する盛耶には、えもいえぬ勢いがあった。よほど何かに腹を立てているのか、もしくは、どうにかして我を通す人なのか――。


「どけよ」


 盛耶は、苛立ちを示すように、わざわざ比良鳥の胸を肩で突く。よろけて後ずさった比良鳥を横目で見やると、ふんと鼻を鳴らして、人の輪の中を大股で横切っていった。


 盛耶の目は、港の方角を向いていた。港は、出雲軍が野営地とした川べりの野から広い野原を挟んだ先にあり、そこへいくには、野原を貫く一本道を進まなければいけなかった。


 青年の足はその道を目指して動き続け、林を背にして、ぽかんと騒動を見つめる狭霧の目の前をあっという間に通り過ぎていく。目の前を通った時に狭霧が見た盛耶の横顔は不機嫌で、印象は、傲慢だと感じた。


(いったい、誰だろう? 比良鳥さんって、たしか、とうさまの指折りの従者よ――見たことがあるわ。そんな人を、こんなふうに手ひどく扱うなんて――。きっと身分ある人なんだろうけれど)


 狭霧は、盛耶王という青年の立ち居振る舞いに呆気に取られていた。


 でも、すぐに、狭霧は息を飲むほど驚いた。通り過ぎたと思った盛耶という青年が、突然足を止めて、狭霧を振り返ったのだ。


(え、何――?)


 盛耶という青年は、狭霧をまっすぐに凝視している。真正面から目が合っても、青年の顔にも、盛耶という名にも、狭霧は覚えがなかった。


 盛耶は狭霧を見つめて、独り言をこぼした。


「――どこかで?」


 そうかと思えば、盛耶は、つい今まで罵倒していた相手、比良鳥へ目配せをした。


「比良鳥、彼女は誰だ?」


「彼女……? 狭霧様ですか?」


 比良鳥は、ためらいがちに青年のそばへ歩み寄ると、その耳元で囁く。比良鳥は狭霧の身の上を明かしたに違いないが、それを聞くなり、盛耶ははっと大口を開ける。そして、狭霧を見つめる盛耶の目は、懐かしいものとの再会を喜ぶふうに変わった。


「狭霧? 須勢理すせり様の娘? もう、こんなに大きくなったのか!」


(――わたしのことを知ってる?)


 狭霧は、ぽかんと唇を開けた。


 どれだけ記憶を探っても、そこにいる青年に繋がる思い出はなかった。こんなに目立つ青年なら、一度会えば忘れないだろうに。


 でも、盛耶のほうは、狭霧をよく知っているようだ。盛耶は目を輝かせて、狭霧のもとへ近づこうと足を浮かせた。


「そうか、須勢理様の……!」


 でも、盛耶の足はそこで動きを止める。


「いや、親父殿のもとへ向かうのが先か――」


 小声でぼやいた盛耶は、みずから狭霧のもとへいく代わりに、背後に控える従者の一人へひそひそと何かを告げた。そして、身を翻すと、逞しい肩で勢いよく風を切って、野営を後にした。


(いったい今のは、なんだったんだろう?)


 呆然として、狭霧は盛耶の後姿を見送った。


 盛耶は去っていったが、何かをことづけられた彼の従者はこの場に残り、にこにこと笑いながら、狭霧のもとへ近づいてくる。


 まっすぐに狭霧の真正面まで進んだ盛耶の従者は、その場でひざまずき、深々と頭を下げた。


「狭霧様、お久しぶりでございます。まずは、主に代わってご挨拶を――」


(お久しぶり? わたしは、この人にも会ったことがある?)


 意味がわからなくて、狭霧は、足もとでひざまずく従者の男へ尋ねた。


「あの、今の方は……盛耶様?」


「はい、主の名は、盛耶。越と出雲の両国から、諏訪の御使いを任されており、父王から、王の称号を授けられておいでです」


「諏訪?」


 きっと、国の名だ。でも、狭霧の知らない名だった。


「すみません、わかりません――」


 正直に告げると、従者の男は狭霧を見上げて、にこりと笑った。


「では、越の国はご存知ですか」


「はい、だいたいは……」


「越の国にある、とある川を遡りますと、源流の先に大きな湖がございます。その湖を囲むようにしてある小国が、諏訪です。小さい国ですが、東西の二つの海を結ぶ道の間にある要地で、今に巻向に化けると、越と出雲が面倒を見ている国でございます」


 従者の男が誇らしげに語った説明には、狭霧がわかる部分と、わからない部分があった。


 越の国の近くに、諏訪という国があるらしい。その国に、今の盛耶という青年は、王の一人として住まっているらしい。


「では、あの盛耶王は、どうしてわたしをご存知だったのでしょうか? すみません、覚えがないのですが……」


「そうでしょうか? まだ、あなたの母君がご健在だった頃、あなたは、よく若君と遊んでいらっしゃったのです。それを思い出して、若君は懐かしいと――」


「遊んだ?」


「若君は、幼名を葦男あしお様とおっしゃいます。若君の母君は、大国主の一の后、一の姫様で……」


「あっ!」


 思い出した。


 たちまち、狭霧の脳裏には懐かしい日々が蘇って、葦男という名の童男おぐなの顔も、ぼんやりと浮かびあがった。


 でも、思い出したとはいえ、狭霧の顔に滲んだのは、喜びの笑みではなかった。


 狭霧が覚えている葦男という童男は、とても気が強くて、周りの童たちの世話を焼きもしたが、時には力でねじ伏せることもある、がき大将だったのだ。


 正直なところ、「意地悪で、乱暴者で、よくいじめられました」としか言葉が思い浮かばない。狭霧は、苦笑しつつうなずいた。


「思い出しました。はい、覚えています」


「そうですか、よかった」


 従者の男は、しわに縁取られた目を細めて、にこにこと笑っている。それから――。


「後で、主が、あなたのもとにいらっしゃるでしょう。では」


 従者の男は、狭霧へ深く頭を下げて、別れの挨拶をした。






 葦男という名の童男が、その頃の狭霧は大の苦手だった。葦男は、とくに輝矢に意地悪だったからだ。


 輝矢の住まいが雲宮の本宮から離れの館へ代わり、彼の自由が奪われ始めると、狭霧は、大人たちの輝矢への仕打ちに逆らうようにも、毎日輝矢の宮へ忍び込んだ。


 でも、そこへ向かおうとする狭霧を見つけるたびに、葦男はいつも邪魔をした。狭霧より三つ年上で、年の近い童男の中でも際立って力が強かったくせに、ろくに手加減もせず、彼は、いつも力ずくで狭霧の足を止めようとした。


 だから、狭霧は、輝矢のもとへたどり着くたびに葦男の悪口をいった。


『輝矢、今日もね、すっごく意地悪な子がいたの! 子熊みたいに大きくてね、目がつんとしててね、そのうえ意地悪で意地悪で……! 「伊邪那の牢屋に何の用がある」なんてひどいことをいってね、わたしの邪魔をするのよ!?』


 でも、悔し涙をこぼしながら文句をいっても、輝矢が一緒に腹を立てたことは一度もなかった。


 輝矢は、小さな館の壁に背をつけて、ぼんやりとつぶやいた。


『伊邪那の牢屋に何の用がある、か――。彼の気持ちは、わかるよ』


『何がわかるのよ! 怒ってよ輝矢。あんな奴、一緒にやっつけよう!』


 狭霧が顔を真っ赤にして怒っても、輝矢は困ったように笑うだけだった。


 遠い日の記憶をいくら探しても、葦男は、その頃の狭霧にとって大嫌いな相手でしかなかった。


 でも、どうしてだろう。


 大嫌いだったのに、今、遠い昔を思い出してみると、責めたくなるのは意地悪だった葦男ではなかった。「ひどいな」と思うのは、幼い葦男ではなくて、誰かのことを嫌いだ嫌いだと喚いていた、幼い自分のほうだった。


 そして、輝矢のことを思い返すと、胸はほうっと温かくなる。


 輝矢は、気に食わないことにすぐに腹を立てる子ではなかった。狭霧が文句をいっても、微笑んで、「そうだね、悲しいね。でもね……」と丁寧に宥める子だった。


(――本当だね、輝矢。どうして、あの頃のわたしは、あんなに葦男のことが嫌いだったんだろうね? 幼かったね、わたし――。それに、やっぱり輝矢は、幼くても、いろいろなことを見ていたんだね)


 可笑しくなって、狭霧はくすくすと笑った。


(輝矢のように笑って流せば済んだのに。絶対に勝てそうにないがき大将を相手にやり返そうとするなんて――子供だったんだなぁ。いつのまにか、わたしも大きくなったんだね――)


 遠い日の話であれ、輝矢のことを思い出すと、狭霧は幸せな気分になる。


 幸せな気分のまま思い出を探ると、大嫌いだった葦男の記憶すらいとしくなった。






 そうか、葦男はあんなに大きくなって、盛耶っていう名に改めたのか。


 それに、盛耶王だって――。王という呼ばれ方をする立派な青年に、育っていたんだ。


 腕白ながき大将から、人を従える勇猛な武人へと――。






 盛耶がやってきてからというもの、遠賀は、毎日騒がしくなった。


 野営でひと騒動起こした後、盛耶は一度どこかへ出かけたが、出かけた先は、おそらく父、大国主のもとだ。


 狭霧は下っ端の兵とばかり一緒にいたので行き先を知らなかったが、父や安曇や、高位の武人たちは、遠賀に着いてからずっと、野営を留守にしていた。


 盛耶の父は、狭霧と同じく大国主だ。つまり、狭霧と盛耶は、母違いの義兄妹だ。


 とはいえ、大国主はたくさんの妃を娶った人なので、腹違いの兄弟などは狭霧には大勢いたし、雲宮で育った狭霧と、離宮で育った腹違いの兄弟たちとは、それほど出会う機会もなく、あまり面識もなかった。だから、盛耶のことも、義兄と思った覚えは狭霧になかったのだが――。


 盛耶にとっては、そうでもなかったらしい。近くを通りかかるたびに、盛耶は目ざとく狭霧を見つけて、毎回そばに寄って来た。


「あぁ、狭霧。どこへいく?」


 盛耶の従者から、今に彼が狭霧のもとを訪れるだろうと聞いていたが、まさか、これほど頻繁にやって来られるとは思わなかった。


 盛耶は、誰かから明け渡された天幕で過ごすことになったが、その日の朝も、手伝いをしている畑へ出かけようとしたところに狭霧を見つけると、寄ってきて狭霧の足を止める。


 困ったことに、盛耶はただ歩み寄って話しかけてくるだけではなかった。そばに寄ると、馴れ馴れしく肩まで抱いてくる。


 盛耶は、武芸に秀でた者らしい逞しい身体をしていて、背が高くて肩幅も広い。狭霧にとっては、じゅうぶん大男だ。そんな相手から、腕や肩を掴まれて、好き勝手にそばに引き寄せられるのは、あまりいい気分ではなかった。


 狭霧にあった幼い頃の確執じみたものは、思い出の中の輝矢が洗い流してくれた。だから、狭霧も、過去の苦手意識は忘れたはずだった……が。


(なんなの、この人?)


 作り笑いを浮かべたものの、狭霧は目を合わせないようにして盛耶にこたえた。


「その……土いじりにいくのよ。遠賀の人の畑仕事を手伝っているから」


 というわけで、忙しいの。だからいくね。


 さっさとそばを離れようと、突き放すようにいったつもりだったが、盛耶は狭霧を放そうとしなかった。


 それどころか、盛耶は、凛々しい黒眉をむっとひそめた。


「土いじり、畑だと? おまえ、自分をなんだと思っているんだ? 大国主と須勢理様の娘なんだろう? 土いじりだなどと、品性を疑われるようなことをするな!」


「ひ、品性?」


 まさか、品性のあるなしを責められるとは。


 盛耶は、当然のことを叱りつけるように上から狭霧を見下ろしてくるが、それには納得がいかなかった。


 土いじりや、畑仕事に精を出すことに品がないなんて、わたしは思いません。


 あなたの品性とわたしの品性は、たぶん違うんです。だから、放っておいてください! 


 ……と、いいたいのだが。残念ながら、狭霧はいい争いが得意なほうではなかった。意見が合わなくても、相手を説き伏せられる自信もない。


 結局、文句が唇から出ていくことはなかったので、せめて唇をきつく結んで、目で訴えてみるが、通じた気配はない。狭霧の肩を抱いたまま、盛耶は、大きな肩を落としてみせた。


「小さい頃から、おまえは本当に……。少しは女らしくなれよ。仕方ないなあ、わかった。俺がいるうちは、しっかり見ておいてやるから――」


 そんなことを偉そうにいわれるので、狭霧は目を点にした。


 ……小さい頃から本当に……って。本当に、いったいなんですか?


 仕方ないなあ、わかった……って。いったい何がわかったんですか?


 俺がいるうちは、しっかり見ておいてやるから……って。そんなことは、いっさい頼んでいません!


 身に覚えのない過ちを咎められるのにも腹が立つが、それより、厄介な提案をされたことに青ざめて、狭霧はそこから逃げ出そうとした。


「い、いいです! わたしはわたしでやりますから……!」


 でも、相手は、屈強な体躯を誇る若い武人。逃げようとする狭霧の手首をやすやすと掴んで、盛耶は、さも呆れたように苦笑した。


「おまえは本当に……俺がいないと、なんにもできないんだなぁ」


(はあ?)


 盛耶は、無能な部下を見るような目で狭霧を見下ろしていた。


 それには腹が立つ。狭霧は顎を上げて、盛耶の目をじっと睨みつけた。


「いいから、放っておいてください。放して!」


「だから、待てよ。威勢のいいところも変わってないなあ」


 無我夢中で、狭霧が渾身の力で抗っても、盛耶はものともしない。困ったものを見るように盛耶はくすくすと笑ったが、そんなふうにされるのも、心底癪に障る。


(男だからって――! 自分の力が強いからって、人の話も聞かずに、力にものをいわせるような真似をするなんて!)


 かっと頭に血がのぼって、狭霧は、とうとう文句をいった。


「もう何年も会っていない人のことを、わかるようなふりをするのは、やめてください! そんなふうにいうのなら、あなただって、幼い頃からなんにも変わっていないわ。人の話も聞かないで、人の邪魔をして。王だなんて呼ばれ方をしているけれど、本当に偉くなっているんですか? 正直、信じられません!」


「……おまえ」


 盛耶はむっと眉をひそめて、狭霧の手首をますますきつく握ってくる。でも、今の狭霧に、遠慮をする気はすでになかった。


(そっちがその気なら――!)


 遠ざかっていた何年もの間に彼は大きくなって、王という呼ばれ方をするまで位を得ていたのだから、幼馴染と気軽に呼ぶことはできないだろう――そう思って丁寧に接していたが、盛耶のほうが、昔と変わらずに狭霧を子分扱いするなら――。身分ある人というだけでは、尊敬などしてやるものか。


「放して」


 冷たく手を払いのけると、狭霧は、さっさと盛耶に背を向けた。





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