黎明の香り (2)


 狭霧と目が合うと、青年はくすりと笑った。


「こんにちは。それは、僕の草園なんです」


「え……?」


「故郷から持ってきた種を、旅先で撒いているんです。いい薬草なので、根付けばいいと思って」


 草園? 種?


 狭霧はしばらく、その青年がいったいなんの話をしているのか、わからなかった。


 何度か目をしばたかせてから、ようやく意味を解する。そういえば狭霧の足元には、涼しげな芳香を放つ、不思議な草が茂っていた。


「これは、あなたが植えたんですか? 畝もつくって……?」


「ええ。この草の種はとても貧弱で、砂粒より小さいんです。根付くかどうか心配していたのですが……」


 ゆっくりとした所作で一歩を踏み出した青年は、狭霧の隣りで腰をかがめて、片膝をつく。それから、指先を伸ばすと、狭霧がしていたように小さな葉をすくいあげる。草を診る医師のように彼が覗きこむ草の葉は、一つ一つが小さなわりに、葉の表には生き生きとした艶があり、水気に満ちて見えた。


 青年は、彼が撒いた種のことを貧弱といったが、種から育った葉のほうはそうでもなく、小さくても丈夫そうだ。葉をつまんだりひっくり返したりした後で、青年は満足そうに微笑んだ。


「平気だったようですね――。元気に冬を越して、ちゃんと根付いたようです」


「さっき、薬草っておっしゃいましたよね? どんな効き目があるんですか?」


「効き目ですか? いろいろありますよ。煮出して飲めば胃の腑にいいし、油をとって塗れば、傷にも効きます」


「傷に?」


「ええ、便利でしょう? でも、僕が一番好きなのは香りです」


 青年は指先でその草を茎の部分から摘み取ると、狭霧の頬のそばへ、そっと差し出した。


 青年の指先が近づいてくるにつれて、狭霧の鼻先では、先ほど感じた芳香が漂う。摘んでしまうと、葉の上から嗅いだ時よりもずっと香りが強い。慣れないなりに、目を閉じてうっとりと味わいたくなる清涼さがあって、やはり悪い香りではない。


 差し出された茎を自分の手に受け取って、狭霧はまぶたを閉じた。


「……本当、不思議な香りです」


「大陸では、薄荷はっかというらしいですよ。僕の国では、涼草すずくさと呼んでいますが」


「涼草……。ぴったりの名前ですね。とても涼しくて、爽やかな香りがします」


「そうでしょう?」


 青年はにこりと笑んで、じっと狭霧を見下ろしている。表情は優しげで、青年には、狭霧にあまり馴染みのない優雅な雰囲気がはあった。


 狭霧がこれまで暮らしてきた雲宮は、戦を司る場所で、そこを行き来する若者といえば、雄々しかったり勢いがあったりと、勇壮さを誇る人ばかりだった。それに比べると、目の前の青年はとても穏やかに見えた。


(世の中には、こんなふうな男の人もいたのね――って、当然か……。大地はとても広いから、わたしが知らない雰囲気を持つ人がどれだけいたって不思議じゃないものね)


 その青年は、狭霧にとって異質だったが、どちらかといえば新鮮だった。


 狭霧は、青年の微笑から目を逸らして彼のものだという草園を見下ろした。


 しばらく香りを楽しむが、ふと、狭霧は何かに気づいた気がした。


 森の黒土の上に群れる涼草という薬草は、ほかに類のない爽やかな清香をふんわりと放っている。それは、思わず目を閉じて味わいたくなる香りだが、人にはそうでも、虫たちには別のようだ。


(もしかして、この草――)


 胸に湧いた疑問の答えを探そうと、狭霧は、足元の緑の園をじっと見つめた。そして、「やっぱり――」と唇を結んだ。


 青年がつくったという薬草園には、緑色をした森の光が、そよそよと射しこんでいる。でも、光のほかに目立ったものはなかった。ここまで来る間にあんなにたくさん飛び交っていた蝶や羽虫の姿すら、そこにはない。


「とってもいい香りで、わたしは好きです。でも、この森には、この香りが苦手な虫が多いみたいですね。蝶も羽虫も、こちらにはあまり寄ってこないみたい……」


「そうですか? ――気にしたことがありませんでした」


 青年は顎を上げて、あたりを見回した。でも、その草が虫に好まれるかどうかということに、関心はなさそうだ。


「でも、この草が好きな虫はいますよ? ここではない別の場所ですが、涼草の葉の裏に住みついて、葉を真っ黒にしているのがいましたよ」


「そうですか。でも……」


 気後れしつつも、狭霧は再び草園に視線を落として、指先で小さな葉をすくい上げてみる。


 水気に満ちた艶やかな葉も細い茎も、触れてみると堅い。この草は、葉も草も繊細に見えるが、細々とした見た目よりとても丈夫そうだ。土の下にあるので見えないが、きっと根も丈夫なのだろう――。


「見たところ、この薬草はとても強いみたいです」


「強い?」


「はい。草にも、強いのと大人しいのがあるんですが、その……この草はとても強く感じます。生きる力の強い緑は、時に、もともと生えている緑を押しのけて、すみかを奪います。心配するほどのことではないでしょうが、その……あちこちに種を撒いたと聞いたので、そのうち、あなたの草園の周りの風景が変わるのではないかと、少し気になって、その……」


 あなたのしていることを責める気は、まったくないのですが……。


 そのように断りを入れようと、狭霧は、笑顔を浮かべて胸の不安を伝えた。


 狭霧が話している間、青年はじっと狭霧を見下ろしていた。青年の微笑はぴくりとも崩れず、狭霧が一度唇を閉じると、彼は、優しげな笑みを浮かべたままで、ゆっくりと桃色の唇をひらいた。


「たしかに、そういえば、数年前に種を撒いたあたりでは、涼草の園がずいぶん広がって、森の一部になっていましたね。近くで見かける虫の種類も、そういえば変わっていたような気もします」


「それは……」


 やっぱり、もしかしたら、この草は生きる力が強くて、もともと生えている草や虫たちを押しのけてしまう種類なのかもしれませんね。


 次に種を撒く時は、どうか周りの土も見てあげてくださいね――。


 そういおうとして、狭霧は小さく唇をひらくが、青年の拒絶のほうが早かった。


「でも、森の近くに住む人たちは、いい薬草が手に入るようになったと喜んでいました。それの、どこに不都合が?」


「――え?」


 狭霧を見下ろす青年は、相変わらず優しい微笑を浮かべている。でも、彼が口にした言葉には、多少なりとも棘があった。


 あなたを責めるつもりはないんです、本当に――。


 報復じみたきついいい方に面喰らって、狭霧はいいわけをするように続けた。


「それは……かまわないと思います。ただ、後々不都合が起きなければと……。その、どの緑も、ほかの生き物に影響を与えるものです。草だけじゃなくて虫や、獣や……だから――」


「でも、それでは新しいものの入る余地がない」


「え?」


「あなたがいうのは、昔ながらの生き物が森を独占しているのを、そのまま見ていろということです。いにしえの森に住みたいと思っても、そのような夢を持つことすらおかしい、未来永劫、鄙の地で指を咥えて見ていろと?」


 草の話が、まさか、そんな大それた話に変わるとは思わなかった。


「わたし、そんなつもりじゃ……!」


 こんなに拒まれるだなんて――。


 慎重に話したつもりだったが、もしかして知らないうちに、その青年にとって耳障りなことをいってしまったのだろうか。


 狭霧が慌て始めると、頑なに拒んでいた青年も、ふっと息を吐く。彼は肩をすくめて、謝った。


「すみません、つい――。童のようにいい返してしまいましたね」


「いえ、わたしは……」


「いいえ、僕が幼かった。今のいい合いは、あなたの勝ちですよ」


 青年は目を細めて柔和に微笑むが、その表情といい、力が抜けているくせにどこか力強く見えるところといい、やはり、その青年に漂う雰囲気は、狭霧にとっては珍しい、不思議なものだった。


 狭霧は、ぽかんと彼の顔を見つめた。とくに狭霧の目が追ったのは、青年の目もとだ。彼が目を細めるとよくわかるが、青年のまぶたは、きれいな二重になっていた。印象は、柔らかくて穏やかで……。青年の目元は、狭霧の大切な人の目元に少し似ていた。


「森――か。今のような話をすぐにできるなんて、あなたはきっと聡明な方なんでしょうね」


「聡明? とんでもないです、わたしなんて――!」


「そうですか? でも僕は、誰かに叱られたのも、こんなに躍起になっていい返したのも久しぶりでしたよ? 母に叱られた時以来かもしれません」


 青年がいうように彼を叱った覚えは狭霧になかったし、褒められるようなことをしたつもりもなかった。


(聡明だなんて――。ただ少し、薬師の知恵があるだけです。それも、かなりの下っ端なんです)


 そもそも、青年がいい合いと呼んだもののきっかけをつくったのも、狭霧だった。それを詫びるのに、薬師の話はもってこいだ。


 実はわたしは、薬師なんです。それで、ほんの少し緑のことをかじっていて――。


 偉そうな話をして、すみませんでした――と、素直にそう告げれば、きっと場は丸くおさまる。


 でも、喉まで出かかった言葉は、そこから出ようとしなかった。


 ……自分から、薬師を名乗るなんて。


 まだ何もできないのに。薬師の名にふさわしい知恵も、自信もないのに――。


 狭霧のそばで片膝をつく青年の仕草に隙はなく、堂々として見えた。黙りこんでうつむく狭霧の顔を覗きこみ、青年は、唇の端を吊り上げて品良く笑った。


「ところで、あなたのお名前は?」


「狭霧です……あなたは? さっき、旅先で種をといっていましたが、あなたの故郷は……?」


「僕の故郷? きっと、知らないほうがいいですよ。――僕の名なら、です」


 青年のいい方は意味深だったので、もちろん狭霧は尋ねたくなった。


 ……知らないほうがいいって、いったいどういうことですか?


 でも、その言葉も、狭霧の口を出ようとはしない。


 狭霧をじっと見下ろす青年の笑顔は優しいのだが、そのくせ強い力があって、無言のうちに狭霧から問いかけを奪っていく。きっと、その笑顔の向こう、青年の内側にあるものが笑っておらず、並はずれて堅固な壁じみたものが、胸の内を隠しているからだ。


 その時、狭霧の耳は、背後から響く呼び声を聞きつけた。


「狭霧、狭霧ー! どこにいます? 狭霧!」


 まだ遠い場所から狭霧を探しているのは、狭霧の耳が慣れ親しんだ声だった。その声は、父代わりとして幼い頃から世話をしてくれている青年のもの――安曇だった。


(ま、まずい……!)


 たちまち胸がどきりと震えて、邇々芸の素姓を詮索するどころではなくなった。


 狭霧の頭に広がったのは、怒り狂った安曇の顔だ。


 安曇は、幼い頃から狭霧のことを自分の子のように可愛がってくれたが、親しい分だけ、怒り方も半端なかった。普段はのんびりとしているが、怒らせてしまうと、誰より怖い相手だということも、狭霧はよく知っていた。少なくとも、狭霧にとっては――。


 しかし、子供扱いにふてくされる気持ちもこみ上げる。


(少し森に入っただけよ。奥に入らないようには気をつけていたし。だいいち、そんなに大げさなことじゃないのに――)


 でも、今は、怒り狂っているだろう安曇への脅えのほうが強かった。


「い、いかなくちゃ……」


 慌てて立ち上がって、青年へ別れを告げようと彼の姿を探す。


 きっとまだしゃがみ込んでいるだろうと思ったが、彼の顔は隣り合って屈んでいた時と変わらず、狭霧より高い場所にあった。立ち上がった狭霧に合わせて、青年も、一緒に立ち上がっていた。


「お迎えがきたようですね」


「はい……その……」


「――お願いがあります。今日、僕に出会ったことは、誰にも内緒にしてもらえますか? 実は僕は、お忍びでここにいるんです。誰かに知られると、まずくて――」


「お忍びで? じゃあ、わたしと同じです。……あ、いえ、わたしの場合はお忍びっていうほどでもなくて、勝手に抜け出してきただけなんですが……」


 偶然出会ったその青年のことは、どこから来ている人なのかも、どんな人なのかもわからない。でも、どうやら、いくらかは似た境遇にある人らしい。


(不思議な人だと思っていたけれど、わたしに似たところもあるなんて――話してみないとわからないね。――なんだか、楽しい)


 青年を見上げて狭霧がはにかみの笑顔を浮かべると、青年の方もくすりと笑った。


「あなたは不思議な人ですね。話してみないと人はわからないとは、よくいったものです。ここで会えてよかった」


「わたしのほうこそ――!」


 別れを惜しんでしばらく見つめ合うものの、ほどなく狭霧ははっと我に返る。


 背後からやってくる安曇の声が次第に大きくなり、そのうえ、それには怒気が含まれていく。


「狭霧? どこです? 早く出てきなさい! いったいどれだけ心配させれば済むんです、あなたは! 狭霧……!」


 幼い頃から狭霧を叱りつける相手は、必ず安曇だった。そのせいか、もはや条件反射で、胸にあった抗う気持ちもいいわけも一気に吹き飛んで、狭霧はさっと身をひるがえした。


「あの、わたしいきます。楽しい話をありがとう……!」


 別れを告げた時、青年は、にこりと微笑んで狭霧を見つめていた。


「ええ、また会いましょう」


「はい、また……」


(また? どこで?)


 内陸に深く広がるいにしえの森で偶然出会った、どこの誰とも知らない青年に、約束もなしにまた会えるなどとは、思えなかった。


(名は、邇々芸。ふうん……。もう二度と会えない人かもしれないけれど――)


 胸で彼の名を唱えると、珍しい宝物をいただいた気分にもなった。


 後ろ髪をひかれつつ、とうとう青年に背を向けて走り出すと、狭霧は大きく息を吸う。安曇の怒声へ向かって来た道を戻りながら、早々に謝ってしまおうと準備をした。


「安曇、わたしはここ、ここにいるから……!」


 安曇の声がするほうへ叫びながら、狭霧は一度、青年を振り返る。その時、彼も狭霧に背を向けていて、逆方向へ向かって森の小道を遠ざかり始めていた。







 狭霧の寝床になったのは、港の集落の一角に建てられた小屋だった。


 里の祭りの時だけに使われる特別な小屋とのことだが、狭霧が使うことが決まると、里の女たちの手によって丁寧に拭き上げられた。用意ができたからと狭霧が招かれた時には、床には土埃一つなく、清潔で居心地がよい寝所になっていた。狭霧が暮らし、育った出雲の雲宮と比べれば、天と地の差があるが、旅の仮宿としては格別に贅沢な場所だった。なにしろ、普通の兵たちは、木の根を枕にして、夜露に濡れつつ眠るのだから――。


 その晩、夜の静けさの中で掛け布にくるまりぼんやりしていると、狭霧の目の裏には、いにしえの森で出会った青年の顔が蘇った。


 すっと横に伸びた眉。憂いを帯びて見える優しげな目。白い頬と、華やかな桃色の唇。それに、細い顎。


 邇々芸という名の青年の気品ある顔立ちの中でも、とくに狭霧が気になったのは、彼の目もとだ。邇々芸の、穏やかな印象のある二重の目と雰囲気が似た目をした少年を、よく知っていたからだ。


 邇々芸の目もとは、輝矢かぐやのものに少し似ていた。


(あの人はもしかして、伊邪那いさなの人? ――ううん、わたしが知らない国なんて、そこら中にあるわ。でも、あの邇々芸っていう人には、少し輝矢と似た印象があった。大人しそうに見えて、とても頑固なところも、そういえば――)


 輝矢みたい――。そう思うと、「童のようにいい返してしまった」と邇々芸が自分で嘆いた喧嘩じみたやり取りも、微笑ましい思い出に感じる。


(輝矢が大きくなったら、あんな感じになるのかな)


 背が高くなって、髪も伸びて。髪を美しく結ったら、きっと似合っただろうな。昼間の、あの人みたいに――。




 胸にふんわりと広がった気持ちに浸りながら、闇の中で目を閉じた。


 そのまま眠りに落ちると、狭霧は輝矢の夢を見た。




 輝矢の夢を見るのは好きだった。幻の声が聴こえるのを心待ちにするのと同じで、夢に輝矢が現れますようにと、眠りにつく前に願うのは、いつものことだった。


 でも、その晩に限って、夢に出てきた輝矢は、狭霧が知っている輝矢とは別人のようだった。


 その夢に現れた輝矢は、狭霧を馬鹿にするように上の方から見下ろして、冷たい微笑を浮かべていた。


『僕が、大きくなったら? なるわけがないよ。僕は死んだろう? きみに見殺しにされて――』


 少年にしては高い澄んだ声は、狭霧が覚えている輝矢の声とまったく同じだった。でも、その声は氷のように硬くて冷たくて、狭霧は、夢の中で声の刃に貫かれたと感じた。


(違うよ、わたしはそんなんじゃなくて、ただ……本当に――!)


 氷の武具で、縛められた――。そう思ったら、狭霧は金縛りにあったように動けなくなっていた。


 冷笑を浮かべた輝矢らしくない輝矢は、まだ狭霧の頭上にいて、まばたきもせずに狭霧を見下ろし、澄んだ声で狭霧をせせら笑う。


『嘘つき。きみは嘘つきだよ』


 ……違う、これは、輝矢じゃない。でも――。


 頭の中がめちゃくちゃになって、狭霧の想いは声にならなかった。


 あまりの恐ろしさで、狭霧は夢中で逃げ場所を探した。でも、目の前に現れるのは、どこかへ逃げおおせるしたたかな抜け道ではなくて、忘れようとしても忘れられない悲しい光景ばかりだ。


 狭霧が覚えているその場所は、ただ広かったということだけだ。大勢の人が、ことの成り行きを見届けようと輪を作っていたが、その時――、輝矢が処刑される直前に狭霧が見ていたのは、輝矢の凛とした微笑だけだった。


『狭霧……』


 狭霧へ微笑む輝矢の表情は、綺麗すぎた。輝矢は、未来という特別なものを受け入れた目をしていて、恐ろしい託宣を伝える高位の巫女か、禰宜ねぎの気配すらあった。


 恐ろしくて、狭霧は目が合っているにも関わらず、まっすぐに見ることができずに、目を泳がせた。目の前で起きている出来事を認めたくないと、目を背けたかった。


 震えあがる狭霧へ、輝矢は美しく笑いかけた。


『きみがいてくれれば、僕はなにも怖くない。きみだけが、僕の安らぎだから。……きみのことが大好きだった。ありがとう。……さようなら』


 言葉には、きっと呪力がある。


 輝矢が狭霧へ遺した最後の言葉は、狭霧を縛めて動けなくする力をもっていた。


 ……さようなら。


 その言葉がこの世に発された瞬間に、狭霧は、言葉の力にとり憑かれた。まばたきができなくなって、目を見開いたままでぽろぽろと涙をこぼした。あの瞬間に、狭霧のもつ「時」というものは、たしかに動きを止めた。


 でも、動けなくなったのは狭霧だけで、「時」は着実に刻まれていき、周囲の人々は動き続けた。


『済みました。いつでもどうぞ』


『――そなたの望みどおりに』 


 すべてに別れを告げた輝矢の声。それを認めた父の声。


 輝矢が、狭霧を言霊で動けなくしたように、それとは相反する「動け」という命令がこもった父の声も、狭霧に呪いをかけた。


『よく見ていろ、狭霧。出雲の姫なら乱世を知れ。これが出雲と伊邪那の、真の姿だ』


 お願い、とうさま、やめて……やめて……!


 身体の内側で、狭霧は泣き叫んでいた。


 でも、狭霧は、輝矢を庇おうと飛び出すことも、輝矢を追って死の国へいくことも、どちらもすることができなかった。


 




 はっと目覚めた時、狭霧は泣きじゃくっていて、頬のあたりがびしょ濡れになっていた。


 がたん。勢いよく起き上がると、狂ったように手をさまよわせて、胸元を探す。衣の合わせ目から輝矢の髪飾りを取り出すと、はあ……と深い息を吐いた。久しぶりに息をしたと、そう思うくらいで、輝矢のお守りに手を触れていないと、まともに息ができなかった。


 あの時、輝矢の声は、狭霧を動けなくした。


『きみのことが大好きだった。ありがとう。……さようなら』


 だから、止まってしまった狭霧の「時」に倣って、輝矢を追いかけて、自分の命も終えてしまおうと思った。大好きな輝矢のそばにいたかった。


 でも、父が出雲の武王として発した厳しい声も、狭霧を突き動かす呪いとなった。


『よく見ていろ、狭霧。出雲の姫なら……』


 その声は、狭霧に「止まるな」と命じた。


 時を止めている暇なんかない。彼は敵だ。彼といくな、と――。


 どちらも大事で、どちらも狭霧がするべきことだった。あの時の狭霧は、どちらか片方を選べなかった。


 でも、そうやって狭霧がうろたえているうちに、とても大事だった二つのうちの片方は、この世から消えてしまった。狭霧が迷っているうちに、狭霧に残されたものは、一つだけになっていた。


 は……息ができなくて、喉が詰まりかける。苦しくて、狭霧は夢中で息を吸った。息を吸うと、涙が出て来る。背中を小さく丸めて、狭霧は輝矢の髪飾りにしがみついて泣いた。


「ごめん輝矢、ごめん……」


 いまさら泣いてもどうしようもないことくらい、もうわかっていた。


 泣いて輝矢が戻ってくるなら、どれだけでも泣いてみせる。でも、倒れるほど泣いてもなにもいいことは起きそうになかったし、それこそ輝矢に失礼だ。


 懸命に息を整えて涙をぬぐった狭霧は、ことあるごとに胸の中で唱えた言葉を、ゆっくりと繰り返した。

 

 ……あなたの姿をこんなお守りに代えて、あなたと引き換えに選んだ道だもの。立ち止まってなんかいられないわ――。


 ぎゅ、とお守りの髪飾りを握り締めていると、幻の声が聴こえた。


 どこか遠い場所から、微笑んで見下ろしているような優しい声がした。――輝矢の声だった。


『そうだよ、狭霧。さっきのは夢だよ? 幸せに、狭霧……』


 狭霧は、夢中で涙をぬぐった。泣いていることが馬鹿らしくて仕方なくなった。


(輝矢は、怖い夢に出て来るような子じゃないのに、へんな夢を信じたりして……わたしは、本当に馬鹿だ。あの子は優しい子なのに――。最後までわたしに笑いかけて、気にしないでって……今も、守ってくれて……)


 涙を止めようとしたものの、この小屋は自分だけが使っている場所だということを思い出すと、泣きやむのをやめておいた。


 誰にも気づかれないように泣くなら、今のうちだ。


 せっかくの機会なのだから、大声をあげて泣いてしまいたかった。でも、こんな時に限って声は出ず、嗚咽で肩を震わせながら、見る見るうちに熱くなる手のひらで、輝矢の髪飾りを握り締め続けた。


 それは、狭霧のとっておきのお守りで、触れていないと落ち着かないもの――輝矢の魂のかけらが入っているものだ。


 でも、真夜中の暗闇の中で狭霧に握り締められる髪飾りは黙り込んでいて、うんともすんともいわない。さっき聴こえた幻の声はすでに遠のいていたし、輝矢らしい何かが、手のひらの中にある気配もなかった。本当に、その髪飾りの中に輝矢の魂のかけらが入っているのかどうかが、そうと信じ続けた狭霧にも、わからなくなるほどだった。


 でも、狭霧にはこれしかなかった。輝矢をそばに感じられるものは、これしか――。


 顔を近づけて、濡れた頬に髪飾りを寄せた。二人に別れが来ることなど考えもしなかった幼い頃に、無邪気に頬と頬を寄せ合ったように。


 会いたい。会いたいよ……。


 心の中で何度唱えても、それは叶いようのない願いごとだ。


 でも、そうなったのは、自分のせいだ――。


 むかし、狭霧は、輝矢に約束をしたことがあった。


『ずっと一緒だよ? 死ぬまで――ううん、死んでも』


 何も知らない童は、平気で嘘をつけるものらしい。たとえそれが、その時には知りようのない未来だとしても――。


『わかった……』


 約束をした狭霧へ、輝矢は、帰り道を見つけた迷子のように、ほっと胸をなでおろして笑った。


 その時の輝矢の安堵顔は、思い出すだけで苦しい。


 死んでも一緒、だなんて。嘘ばっかり――。


 髪飾りにしがみつくように、狭霧は泣き咽んだ。今の狭霧には、嘘つきだった自分を許してやることができなかった。






 次の朝、夜明けが来ると、狭霧の足は再びいにしえの森の奥へ向かった。


 邇々芸という青年にもう一度会いたい、会わなくちゃ、と――心が逸って仕方なかった。


 邇々芸を探したのは、輝矢の面影を探したからだ。再び彼に会ったからといってどうするわけでもないのに、今の狭霧は、そのようにしか動けなかった。


 人の目を盗んで林を抜けて、丸太の橋を渡り、昨日、邇々芸と出会った場所へいってみるが、白霧に包まれた早朝の森に、人の気配は一つたりともなかった。邇々芸の姿も、もちろん、そこにはなかった。


(そうよね、約束もしていないのに、会えるわけがないわよ。――なにをしているんだろう、わたし――)


 身体から力が抜けていき、邇々芸がつくったという草園の前でしゃがみ込むと、涼草という名の薬草の清涼な香りに包まれる。


 邇々芸が好きだといった爽やかな香りは、朝霧の中で呼吸をひとつするたびに、鼻孔をくぐって狭霧の中へ入ってくる。


 生まれて初めて覚えた芳香を、身体が少しずつ覚えていくのは、不思議と心地よかった。夢とうつつの狭間でめちゃくちゃになった頭と胸を、少しずつ癒してもらえるようで――。

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